冴ゆる花 … 12
辿り着いたのは、もう夕暮れだった。化野の里は漁を生業にしているものが多いから、皆、朝が早い。だからこの時間ならどの家にも、ギンコを知る里人が帰ってきている。
誰にも見つからないように、ギンコは山側から里に入って、人の気配のない化野の家を訪れた。主が居る時のように戸締りはされておらず、そっと開いた戸の内に、夕の色がぼんやりと差し込んだ。
そういえば、こっそり片眼鏡を取りに来た時もこのくらいの時間だった。夕の支度をする頃合いだから、此処に誰もいないのかと思う。この家には毎日毎日、里の誰かが来て、縁側を開け放ち光を入れて風を通している。用がなくたって、わざわざ此処へ来て過ごすものもいるんじゃないかと思うのだ。
人の気配のないこの家が、段々埃っぽくなって、傷んでいくのは悲しいと、みんな思っているのだう。
「……」
化野…。
お前は、こんなにずっと、
大事に思われてるよ。
だから早く此処へ、戻れ。
ギンコはほんの少しだけと決めて、縁側に腰を下ろした。そうしていると、すぐ後ろに化野が居るような気がしてくる。
『来てたのかっ、声ぐらいかけろ、ギンコ』
『渡来の茶菓子があるんだ、美味いぞ、これは』
『お前どっか怪我してるだろう、診せろ』
『もう、いくのか? 次は、いつ…?』
ギンコは目を細めて、笑んだような、泣いたような顔をする。
「次は…もう、無いよ、化野」
これで終い、さ。最後の日の今日が、お前の居ない今なんて。さすがに少し、淋しいな。でももう決めた。もう、お前は俺を知らないお前だ。俺をもう、待たないお前なのだから。
大切なことの書いてあるふみを、ギンコは懐から取り出した。ふみはこうして此処へ置けばいい。そしてあかりをひとつ、灯すのだ。これを見たのが里の誰でも、息を切らして見に来るだろう。きっと、すぐにやってくる。見つからないうち逃げなきゃな。
ギンコはふみを縁側へ置いた。万が一にも風で飛ばないように、何か重石をと見回すと、文机の上にぽつんと、硯。普段使いのものなのだろう、珍しくしまい忘れたか。ギンコはそれを手に取ると、ふみを押さえるように上に乗せた。
それから行燈に、火を入れる。ぼうっと灯って、揺れている灯りを見詰めて思った。
これでもう、俺が出来ることは、
ひとつも無くなってしまった。
ギンコは立ち上がって木箱を背負う。家の中はもう見ない。じゃあな、と口の中でだけで言った。音にしてしまったら、溢れるような未練が其処に混じるようで、怖かった。
まるで泥棒か何かのように、こそこそとギンコは其処を出る。その時、人の声や足音が聞こえて焦って、彼は山の中に逃げ場を求めた。速足に歩いて、歩いて、そうしながら急に視野が、ぐら、と揺れた気がしたのだ。
「…あ…?」
少し、疲れたかな。
ギンコは道を逸れる。万が一にも人に見られたくないから、道無き道を選んだ。歩くうちに段々目の前が暗くなって、体が動かなくなっていった。
そういやここんとこ、
あんまり眠っていなかったっけ。
そういや、怪我もしてた。
他人事のようにそう思いながら、ギンコは崩れるように膝をついて、意識を飛ばしたのである。
その、すぐ後。
倒れ伏した彼の傍、立ち尽くすものがいる。手にしていた笊を取り落とすのが、いつかの光景に似ていた。
「…ギンコ…さん…ッ」
名を呼んだきり言葉もなく、いおは屈み込みギンコの体に触れた。冷たい。ぎくりと手を引っ込めて、恐る恐るもう一度触れる。冷たいが、死人のそれではないと悟って、彼女は今度はギンコの顔を覗き見た。こんなに体が冷たいのに、彼の額は汗びっしょりだった。
「だ、誰か…」
助けを求めるように彼女はあたりを見回すが、ここは山の中で誰も居ない。里まで駆け戻るのは少し遠い。泣きたい気持ちになりながらも、いおは気持ちを奮い立たせた。
しっかりしなくちゃ。
私が、なんとかしなくちゃ。
化野先生。
お願い、力を貸して。
化野の顔を思い出すと、不思議と勇気が湧いてくる。息を吸って、ゆっくり吐いて、いおは改めてギンコの体に触れた。さっきは冷たいと思ったが、何故か腕の辺りだけが熱い。それに、上着越しで触れたのに、なんだか少し濡れている気がして、彼女はギンコの上着を脱がせた。
そうしていおは息を飲む。血の匂いが強く香って、夕暮れの山中の薄暗さの中でも、赤い色が分かったのだ。滲んだ袖をなんとか捲ると、雑に布が巻かれていて、その布ももう、沁みた血の色で真っ赤だった。
「…ギンコさん、怪我、して」
なら、どうする?
やっぱり誰かを呼んでくる?
いいや、血を止めるんだ。
今すぐに。
そういえば、化野が里人の怪我の手当てをしたのを、手伝ったことがあった。今の彼女には何より必要な記憶だった。それを必死に思い出し、いおは己のしていたたすき紐を外しギンコの腕の上の方を強く縛った。それから木箱の中を探す。旅をしている彼のこと、手当できる道具は必ず入っている筈。
持っていた竹筒の水で傷口の血を洗い流し、荷の中から見つけたヨモギの匂いのする軟膏を、小さく裂いた手布に薄く塗りつけ、傷口を覆う。ヨモギは傷の薬のはずだ。それから包帯を、少しだけきつめに巻いた。
出来ることが全部終わると、いおはその場にへたり込む。それから改めて、冷たい草の上に座り直し、ギンコの頭を膝に乗せた。はたと気付くと傍らには、放り出してしまった、空っぽの笊がひとつ。
「…きっと、先生が、ギンコさんを見つけさせてくれたんだ」
いおは心からそう思う。だって今日は、化野がいつも積んでいた薬茶の葉を摘むために、此処に来ていたのだから。季節が違うから無駄だと分かっていて、それでも化野の為に何かしたくて、ひとりで山に入っていた。
「だから、ギンコさんは大丈夫。先生だって、今に戻るに決まってる」
無為に笊を引き寄せたら、散々散らかしてしまったものが、今更のように目に触れる。包帯や薬を探すために、いろんなものを手にとっては外に出してしまっていた。空の瓶やら巻物やら、地図らしきものも。失くしてはいけないと、彼女は手を伸べてそれらひとつずつを確かめた。
「この地図。このあたりのものなのかな…」
びっしりと書き込みのある地図だった。難しい文字は読めなかったが、それでも少しは彼女にも分った。恐らくこれは、ギンコが化野を探すために書いたものなのだ。里に寄った時は相変わらず飄々として、この頃ではもう化野のことも、誰かに問われなければ口にしなくなっていたギンコ。
でもそれはやっぱり、上辺だけのことだったのだ。里人には、もう忘れるようにと遠回しに言う癖に。
いおは泣きたくなった。泣きそうになりながら、そっとギンコの頭を地面に下ろし、彼女は立ち上がったのだ。このあたりにはまだ雪が殆どないけれど、それでも今は冬だ。こんなところに居たら、ギンコだって自分だって凍死してしまう。
彼女は必死に走って、里へと帰る。里の男衆を呼んで、ギンコを里に運んでもらった。だからギンコが意識を取り戻した時には、彼は化野の家へ連れ戻されていたのだった。偶々だろうが、その時、うっすら目を開けた彼の傍には誰も居なかった。
台所からだろうか、それとも庭から聞こえるのか。皆が口々に言う言葉を、ギンコは黙って、聞いている。
「嬉しいねえ、嬉しいねぇ、先生が」
「ほらな、いつかきっと戻るって、俺言ってただろっ」
「ギンコが見つけてくれたんだな、ありがてぇや、なぁ」
「記憶を失ってたって。だから先生、帰れなかったんだな」
里人に会わないようにしていたのに、見つかってしまったことを、ギンコは悔いていたけれど、化野の帰りを喜ぶ人々の言葉や心は嬉しい。それにしても、山中で倒れた筈だったのに、見つかってしまうなんて。
今からでもいい。立ち去るんだ。何かを問われるまえに。けれど、ギンコがそっと縁側から外に出た途端に、彼は声をかけられた。
「…何処にいくの?」
まるで待っていたように、夜の庭に居たのはいおだった。
「謝ろうと思って、ギンコさんが気付くの待ってたの。山の中で倒れてるのを見つけて、すぐ手当てしなきゃって思って、木箱の中、いろいろ見ちゃったから」
「…いお。そりゃ…手間を掛けたな」
「ううん。ギンコさん、先生のこと見つけてくれたんだね、凄く嬉しい。でも、教えて欲しいの。どうして此処まで先生と一緒に来なかったの? どうして、手紙を置いただけで行ってしまおうとしたの?」
投げ放たれたそれは、答えることの出来ない問いだった。だからギンコは無理にでも笑っていった。
「いおも、化野が見つかってよかったろ? じゃあ今は、あいつのことだけ考えてやればいい。ふみに書いたが、あいつは記憶が」
「だから…ッ?」
いおは少し声を荒げて、彼の言葉を遮ったのだ。
「だから、ギンコさんはいなくなるの? ギンコさんのことを覚えていない先生だから、怪我をしてるのに手当てもしてくれなかったの? なんかおかしいよ。絶対、おかしい」
「……」
聡い娘だ、と、ギンコは思った。
自分とギンコしか居ない庭で話しかけたのも、きっと偶然じゃない。ギンコにはギンコの想いがあるのを、彼女なりに感じて、里人の皆には聞かれない場所を選んでいるのだ。
「いお…。出会えて良かったな、って。俺はあの時言ったろう?」
それがいつのことだか分かって、彼女は小さく息を吸い込んだ。
「俺も、そう思ってるよ。あいつに会えてよかった。でも別れの時が来たら、それには抗えないんだ。運命なんだと思って、俺は居なくなるだけだ。お前だって命を放り出して、生まれ故郷を去っただろう?」
「…何、それ…っ。わかんない」
ギンコがなんの話をしているのか、分かりたくないのにいおには分かる。でも納得なんかできないし、したくない。あの時の自分と、今のギンコは同じじゃない。
「わかんないっ、ギンコさんの言うことなんか、全然わかんない…っ」
「……分からなくてもいいさ。ただ、今だけ、少しの間、騒がないでいてくれればいいよ、いお」
ギンコは彼女に背を向けた。いおは引き止められなかった。だけれどギンコは「今だけ」と言ったから、彼女は堪えられる限りをじっと堪えて、ギンコの姿が見えなくなり、その足音が聞こえなくなるまでじっとしていた。
それからいおは、項垂れて、里人たちが化野のことを話しているところへ行き、こう言った。
「ギンコさん、行っちゃった」
びっくりして、ギンコが寝ていた部屋へ見に行く皆、怪我をしてるのにと誰もが焦って、案じて、名を呼んで近くを探して…。だけれどそれだけだ。自分の意志で旅に戻ったのだろうギンコを、追い掛けてまで引き止めようとするものはいなかった。
みんな今は、化野のことだけで頭がいっぱいだった。そうこうしているうちに、時刻は深夜。皆で主の戻りを待つ家に、化野が帰ってきたのである。
いおも皆に混じって待っていて、泣きながら彼に縋りつき、そうして、ひた、とその目を見上げたのだ。酷くもの言いたげなその目に、化野は気付いたようだった。
「先生、ギンコさんは…」
いおは言った。自分がギンコから聞いた、彼の言葉をすべて、いおは化野に話すと決めていたのだ。
黙っていてくれ、なんて、
ひとことも言われてない。
そうでしょ、ギンコさん。
続
びっくりするほど話が進まなーいのです。でも「もうどんだけ長くてもいいやー」とか思ってしまったので、気にせず書いてしまっています。でもクライマックスはもう近い、筈! がんばります!
あと、のちのち読んで「そっかーこれを書いてた時にそんなことがあってのね」と思いたいので個人的な覚書、明日入院して明後日手術します。頑張れ? 私?
2022.07.10