冴ゆる花 … 11



 何も食べず、飲まずに、二人は再び歩き始めた。道は段々と細くなり、緩やかな下りは、急な下りとなっていく。

 木の根や岩がごつごつと出ていて、道とは思えない足元に、化野は正直怖かった。たった半日前に悪路で足を滑らせ、命を落としかけたのだ。そのせいでギンコは怪我まで負った。足が竦んだとしても、仕方のないことだったろう。

「手を」
「…あぁ、うん」
「ゆっくり、慎重にしていれば、足を滑らせることも無い」

 ギンコが振り向いて、化野に手を差し出す。差し出された手を取り、化野はゆっくりと斜面を降りる。時に足元が体の影になり、躊躇う化野をギンコは今一度振り向いた。身を屈め、今度は化野の手ではなく、草鞋を履いた足裏に手を添えたのだ。土や泥で彼の手は汚れたし、屈んで道の上についた膝も汚れている。

「こっちの石は浮き石だ。踏むとぐらつくから、此処に足を。この石は大丈夫だ」
「…ギンコ、俺のことばかり気遣うな。お前は怪我を」

 其処までしてくれるギンコの名を呼べば、彼は一段下から真っ直ぐに化野の目を見上げた。

「俺は大丈夫だって。したいようにさせてくれ。お前は、大事な友だからな」
「ふ…。豹変しすぎだろう、かえって怖いぞ」

 思わず笑って、化野はそう言った。怖がる自分を和ませようとしてだろうと、化野は思っていた。脚が竦んでしまうのは本当だったから、有難くもある。

 そんなふうに何度も手を貸され、危険な斜面をじりじりと降りていく。足取りは酷くゆっくりだったから、目指す場所に着く前に、数時間が過ぎ去った。何度目かに手を貸しながら、ギンコは化野にこう言ったのだ。

「なぁ。たまかさね、だがな。何故消えたのか考えただろう、お前」

 あまりに突然の問いだったけれど、化野の中にははっきりと答えが浮かんだ。消えた、と言うのは死んだと言う意味だろう。たまかさねは、ぬくもりを奪われて、生きる術を失った。化野は答えなかったが、ギンコは確かに答えを得たように、また別のことを言った。

「宿の夕餉に喰った魚は、どこへ消えたと思う?」
「…そりゃぁ、胃袋へ入って、俺の血や肉に」
「その魚には、もう一度生きて川を泳ぐ日がくると思うかい?」

 化野はギンコに手を取られたまま、足を止めた。無理に進まずに、ギンコも足を止める。ふ、と互いの手が離れた。

「どうして今、そんなことを聞くんだ…?」
「何、ただの戯れ事さ。……あぁ、ほら、お前の来たかった場所へ着いたぜ」

 気付けば目の前に、荒れたような岩場が広がっていた。

「こ、此処が…?」
 
 彼らは漸く、目指す場所へと辿り着いたのだ。切り立った崖の真下の岩場。ごつごつとした岩が、幾つも突き出ている隙間に、海水が流れ込み、波の来るたびに低く深い音が鳴っている。その風景の見える限りを見渡して、化野はざわざわと身の内が騒ぐのを感じた。

「見覚えがある…。此処なんだな、俺が落ちたのは」
「…潮流を考えると、落ちたのはもう少し南かもしれない。流されて、此処に流れ着いたのかもな。よく助かったもんだよ。サイカが群れで咲いていた場所に、お前は必死で這い上がって、おそらくその時、沢山の花を押し潰したのさ」
「俺が、花を…」

 ギンコはその岩の上を、もう少し先へと進んだ。荒い波が近くまで来ていて、案外大きな岩の表面は濡れていた。そして、ギンコは化野を振り向く。眼差しに引き寄せられるように、化野も進んだ。

「お前は言ってたよな。此処で咲いた白い花が、自分を救ってくれたのかもしれないと。そして、こうも思っているんだろ? またその花を見れば、失った記憶が取り戻せるかもしれない」
「……」

 化野は答えることが出来なかった。その時のギンコの声も、眼差しも、どこか憐れむような色をしていたからだ。そしてその哀れみの色が、何故か冷たいように思えた。声が、少し遠くなったように思える。低く続く、海鳴りのせいだったろうか。

「例え、それが見当違いでも、願いが叶えられなくても、それでももう一度、それを見たいだろう? お前は呆れるほどずっと、蟲を見たがっていたしな」

 ギンコはまた手を差し伸べ、今度はいきなり化野の手首を掴んだ。腕に力を入れて、化野を自分の方へと引き寄せる。ギンコの立っている岩は、波の際で低く傾いて、滑るのではないかと思えて、化野の体が強張った。

「怖がらなくていい。ほら、見たけりゃ見なよ。此処へ来れば見られるぜ、化野。お前が来れば『彼ら』は必ず姿を現す。花はお前を、覚えているんだ、お前の目の中には、その印があった」
「印…? ギ、ギンコ、離してくれないか」
「どうして?」

 ギンコの目が、強く化野を見詰めている。捕まれている手首よりも、その目が自分を縛っている気がして、化野は後ずさることが出来ない。本当は後ずさりたかったのだ、震えがくるほど怖いと思っていた。

 ギンコが何を考えているか、分からない。
 それを今は知りたくない。彼が、怖い。

「手を離してくれ…っ」
「もう遅いさ」

 ギンコは指の力を抜いて、手を離した。だけれどそれでも、化野は後ずさることが出来なかったのだ。足元に、見たかったあの花が咲いていた。五枚の尖った花弁は模様の無い白。前に見た時と違う、そう思った化野の視野に、どんどん増えてくる、白い花。

 閉じていた蕾が開いたわけじゃない。岩の上の、何もなかった場所に花が増える。それだけで、異形だとわかる。あの時と同じだ。冷たい海風の中で、そこだけ空気が温い気がする。

 絡みつかれているわけでもないのに、化野は動けなかった。気付けば脚から力が抜けて、膝を付き、手をついていた。いつの間にかギンコは化野から離れて、別の岩の上に居る。

「ギ、ギン…っ」

 助けてくれ、と、言うつもりだった言葉は、喉の奥で凝って声にならなかった。

「お前を助けてやるよ、化野」

 ギンコはそう言ったのだ。書いてあるものを読んでいるような平坦な声が、化野の耳に流れ込む。

「その蟲はサイカ。見られることでその相手に影響を及ぼすが、記憶を喰うだけで命は取らない。花に喰われた記憶はすっかり消化されて、この世から永遠に失われるんだ。喰われた魚と同じだよ。だからお前が記憶を取り戻すことは、二度と、無い」
「……そんな」

 化野は数年前にサイカに害を為した時から、ずっとこの蟲に囚われていたのだ。また此処にくれば、こうなる運命にあった。

 打ちのめされて、白い花の中で震え、うずくまる化野。ギンコはそんな彼をじっと見つめている。 

「フチやシオには、俺が出来るだけのことをしてやるつもりだ。あの家からお前を奪ったのは、結局は俺だから。ソウ太も案じるだろうから、ちゃんと伝えるよ。化野は元の里に帰って、元気でやっている、と話す。ずっと帰りを待っていたお前の里は、お前のことを喜んで受け入れてくれるだろう。此処まで迎えに来るよう、居場所を知らせにいくから、安心していい。何も心配することはないんだ」
「…ギン…コ…」

 少しでもギンコに近付こうとして、足掻いている化野の目に、青い色が映っていた。真っ白だった花に、徐々に現れる青と藍の色。美しいけれど、何処か怖いような模様が、花弁にくっきりと浮かび上がる。

 化野から離れるように、また別の岩の上へと下がって、ギンコは独白するように言った。

「…俺はお前を、里に帰してやりたかった。俺の知っているお前は、あの里に暮らすお前だから。きっとゆっくりとでも、お前はあの里の医家の化野になっていく」

 ギンコの声を聞きながら、化野はもう岩の上に倒れ伏していた。無理にでも首だけをもたげて、彼はギンコを見つめて、そして、もう声の出ない唇で、ギンコの名を呼んでいた。霞んでいく彼の視野で、ギンコはうっすら笑っていた。

「…お前の中からまた『俺』の存在は消える。その為に此処へ連れてきた。なぁ、化野。俺はお前を友だと言ったが、本当は少し違うんだ。本当は…」

 ギンコは化野の姿を見詰めながら、ゆっくりと彼から離れて、とうとう背中を向けた。背を向けたままで、彼は言った。

「俺はお前に、俺のことを覚えていて欲しくない。今度こそ、忘れたままで居てくれ。お前を好きだった俺を、お前が好いてくれた俺を。俺のせいで、お前が不幸にならないように」

 ギンコはとうとう、彼の傍を去った。けして振り返らずに険しい道を登り、遥か遠くへと歩き去った。心の中には、言い切れなかった言葉が続いている。


 出会って悪かった。
 友になって悪かった。
 そのうえ好いて悪かった。

 せっかく忘れたのに、
 また会って、悪かった。

 でもこれで、
 俺はお前を救うことが出来た。
 

 どうせ忘れるのだからと、あまりにも多くの言葉を告げてしまったと、ギンコは己の弱さを笑っていた。

 でも強くなるのだ、これから。
 なれる筈だ。あの女のように。

 たった二、三年を化野と過ごし、化野が居なくては生きていけないとまで思っていただろうに、結局は去られて、それでも強く生きている、フチのようにだ。いいや、それ以上に強く居られなければ嘘だ。

 もっとずっと沢山のものを、俺は化野から受け取ったのだから。











 難産でしたーーー。でもラストへ向けてストーリーが走り出したので、書けてよかったです。記憶喪失の話は多々書いたけど、ある一点に置いては「書いたことない話」になるのではと思っています。ラストまで頑張りますっ。



2022.06.19