冴ゆる花 … 1 





 耳元で、風がごおごおと鳴っていた。真っ白に、粉のような雪で視界は埋め尽くされて、ただの道を歩くのだって難儀をするこんな日。どうしてこれで、帰ろうと思ったのか。けれど、そんなことを今思ったとて意味のないことだった。

「…もう、いい」

 化野は目を見開き、吹き荒ぶ雪を共に浴びている相手に、そう言ったのだ。

「手を…離せ。お前が、生きろ」

 言われた相手は首を激しく横に振って、顔中をくしゃくしゃにして抗った。伸ばした片手に力を籠め、尚更強く化野の手を握る。雪の斜面に這っている男の体が、がくり、と滑った。その振動が化野の手にも伝わって、彼は激しい声で男を叱責した。

「離せ! お前は里に妻子がいるっ。このままじゃ一緒に落ちるだけなんだぞッ。俺なら…っ!」

 化野の飛ばす声の激しさは、そこまでだった。その手のひらから、指から彼はゆっくりと、力を抜いて。

「…俺なら……ひとり だ…」
「駄目だ先生…ッ、やめてくれ頼むから!! 先…っ」

 声を途切れさせて、男は雪の粉が巻き上がるのを見た。化野は笑って。はっきりと笑ったままで、崖下へと落ちていった。

「先生えぇぇぇ…ッッ!!」

 


  
 春である。海風を浴び、細かな砂を踏みながら、ギンコは久しぶりの風景に目を細める。今日は随分あたたかい。あいつはいつもの縁側で、柱に身を寄りかけてうたた寝でもしていそうだ。その横に座って眼下にこの海を見ながら、友が起きるのを待つのもいい。

 浜から離れて、里へと入ろうとしたその時、ばさ、っと何かが落ちる音がした。顔を向けると里の娘が、青い顔をして彼を見ていた。その足元に、彼女が手にしていただろう笊が、ひとつ。

「…ギンコ…さん…っ」
「おぉ、いお。元気だったか? …どうした?」
「あ…」

 いおの目に、見る見る涙が浮かんだ。彼女は両手で顔を覆い、言葉を何か紡ごうとし、けれどもそれがどうしても出来ずにいる。そうやって浜にいる二人の近く、たった今戻ってきた小舟が、ざくりと舟底を砂に刺した。

「……ギンコさん。悪いが今すぐ、里長んとこへ来てくんねぇか。俺らはあんたに、話さきゃならんことがある」

 舟から下りてきた漁師が、顔を歪めて言うのへ、ギンコは静かに頷いた。そして連れていかれた里長の家で、少しの間待たされたあと、里の男と、まだ幼い子供を抱いたその男の妻とが、彼に深く頭を垂れたのである。

「すまねぇ…。先生は、俺の代わりに落ちたんだ。冬の終わりに俺と二人で、冬の山を越えた向こうの里に、娘のための薬を貰いに行ったんだ。その帰りだったよ。雪が吹いてて、なんもかんもよく見えなくて、狭ぇ道で足ぃ滑らせた俺を庇ってくれた。先生は…二人で落ちるよっか、お前が生きろっ、て。…手ぇ離せって、言って……」

 それきりなんだ、と男は言った。里へと駆け戻った朝、雪が晴れるのを待って、ありったけの小舟を出して皆で探したし、崖縁で化野が落ちた辺りも出来る限り見て名を呼んだが、結局見つからなかった、と。

「…そうか、遺体も……」

 ぽつ、と言ったギンコの言葉に、その場にいた全員がびくりと震えた。里長が首を微かに左右に振るのを見て、ギンコは静かに息を吐く。せめて体が見つかれば、里人らの心はゆっくりとでも癒えるのだろうに。そうギンコは思ったのだ。

 遺体が見つかっていないなら、まだ望みはある、と、そう思わなかったことが、自分にとって酷く奇妙なような、酷いような不思議な心地がした。

「薬って言ってたが、娘さん、何か病気なのかい?」

 母親の胸に抱かれた幼子は、痩せても居なかったし、何処か病んでいるようにも見えない。何もわからずギンコを見つめる、その眼差しはあどけなかった。

「…先生と取りに行った薬のお陰で、今じゃぁもう、大丈夫で」
「そんならよかった。あと、なんか困っていることはないかい? あんたらだけじゃなくて、他の里人でも」

 うっすらと笑んで居さえするギンコに、夫婦も、里長も、うまく言葉が出ないようだった。

「無いならいいんだ。迷惑でなければこれからも、近くに来た時に寄らせて貰うよ。あぁ、それと…。俺が言うのもおかしいが。あまり気に病まないでやってくれ。その方があいつも安心すると思うんだ」

 木箱を背負い長の家を出ると、少し離れた場所でいおが心配そうにギンコを見ていた。彼は軽く片手をあげるだけで、そのまま化野の家の方向へと歩いて行く。家は戸締りがされておらず、低い垣根の周りも、庭の隅々までも、化野が居る時と同じに整えられていた。。

 今に戻る、と、誰もが思っていたいのだと分かる。

「…本当に、人徳だよ、な」

 何をするわけでもなくギンコはその家を出た。そして来た時とは違う山側の道から、いつもと変わらぬ旅へと戻った。

 次はいつ来るんだ?

 気をつけていけよ。

 風邪ひいたら、
 もしも怪我をしたら、
 俺の持たせた薬を…。

 耳元で、たった今言われているように声がする。その声の届いた耳を、片手でそっと塞いでギンコは歩いて行く。

 気をつけろ、って、毎度言ってたお前がこれかい。呆れたもんだ。里人皆に心配かけて、あんな顔させて、家のことも任せたまんまでなぁ、いい加減にしろよ、お前。あんなんじゃ、里人みんな、ずっと苦しいままじゃねぇか。

 ギンコは歩いて、いつも通りに歩いて、気付けば山の中を抜け急な斜面を降りて、その向こうの小さな集落へと出ていた。家がほんの四、五軒の貧しいところだが、細々と海苔や貝をとって、それを街まで売りに行って暮らす人々が居る。

「よぉ」

 岩に張り付いている海苔を、小刀でもって剥がしているものが居て、ギンコはその背中に声をかけた。

「おっ、あんたなんてったっけ。何度か来たことあるよなぁ」
「ギンコってんだ」
「そうそう、ギンコさんだ。確かそっちの湾の里によく来てるっていってたっけ。どうしたんだい、わざわざこんなとこへよ」

 頭にかぶった手拭いがずれたのを、手のひらの底で直しながら、男は愛想よく笑ってくれる。

 どうしたんだい? と、問われて、ギンコは言葉に詰まった。何故来た? そうとも。わざわざ道を逸れて、歩きにくい急な坂を延々下りて来なければ、この場所には出られないというのに。ここは化野の里とも交流があり、だからもしもこの集落のものが化野を見つけたなら、とうに里に知らせているだろう。

「いや…」
「あ?」
「……何でもない。ちょっと、気が向いただけでな」

 背を向け、元の道を戻ろうとして、だけれどギンコの足は動かない。男の方をもう一度振り向いて、彼は言った。

「…化野を、知ってるだろう…?」
「うん? 勿論さ。何度もここへ来てくれているよ、薬を届けてくれたり、急病人を診に来てくれたりさ。あの若先生がどうしたんだ?」
「……行方が、知れないそうなんだ」

 言えば、男は驚いた顔をし、里のありったけの人々呼んできた。ギンコは二十人と居ないものたちへ、かい摘んだ話を聞かせ、知らないだろうかと問うたのだ。勿論皆は首を横に振った。知っている筈はない。聞かなくとも分かることだった。

「見つかるといいな…」
「…心配だよねぇ」

 それ以外言葉の出ない人々に、話を聞いてくれた礼を言い、ギンコはまた旅へと戻っていく。だけれど、化野の里を出た時とは、心はもう違っていた。 

 俺は、あいつのことを、
 死んだのだとは思ってない。
 諦めてなどいないし、
 諦められる筈もない。

 こと切れるところをこの目で、
 見たわけではないのだから。

 彼は化野の里の方へと戻り、もう一度、同じ道をゆっくりと時間をかけて歩く。何処から落ちたか、だいたいの場所は聞いていた。まずは一度その場所へ行って、しっかりと位置を確認した後、なるべく山全体の形のわかる高いところまで登っていく。

 見える限りを見渡してから草に座り、木箱の中から紙と筆を出して、たった今目で見た地形を描いた。化野が滑落した可能性の高いのは、どのあたりか印をつけ、可能性の低いところへも、小さく印をつける。

 それから今度は潮流だ。海に落ちたとして、流されたのならどこの海岸へ行くのか。近い里は何処で、どうやって行けるのか。それら印をつけた場所へと、全部、足を運ぼうと決めていた。蟲の寄りやすい場所かどうかも考えて、いく順番、どれだけその場所に滞在できるかも書き留める。

 地形を描いた紙は、印と文字でいっぱいになった。誰か他のものが見たら、さっぱり意味の分からないだろうそれを、ギンコは大事そうに丸めて木箱にしまう。歩き出す前に、ギンコは化野の里の方をじっと眺めた。

 里人は、諦めていいのだ。もう出来ること全部をしたからこその、あの落胆だとギンコには分かる。

 でも俺は、まだ話を聞いたばかりだし、
 里の皆と俺とでは、やれることも違う。

 待ちかねた春だというのに、真冬に戻ったような心地になる。その時の化野の感じていた寒さが、じかにギンコへと届いたように。

「もう死んだっていうなら、仕方がない。でも生きているなら、俺が見つけてやるよ、化野」









 二月二十六日、今日は「LEVAES」の十六回目の誕生日です。一年のなんと飛ぶように速いのだろう。またひとつ年を取ったのね、うちのHP。10年前と比べると、更新も遅くなりましたが、それでもこれは嬉しいことです。一年間沢山のお話を書いて、それが16年分も続いているなんて。

 毎年言うことですが、訪問して下さる方に、心から感謝もうしあげます。そして勿論、蟲師という作品にも、深い感謝を。それから私自身にも。またこれから一年、、いえ、もっとずっと頑張っていきたい。そう思う。

 今年の記念の小説は、また連載になってしまいました。しかも今までも何度も書いてきたテーマのお話、かもしれない。それでも違うところはあって、その違いと、変わらないことと、両方を書きたく思って綴っています。そんな作品ですが、少しでも楽しんで頂けますように。

 二話目以降も頑張りますね。



2022.02.26