旅時の宵 2
囲炉裏端の畳に背中が触れて、ギンコはやっと抗った。顔をそむけ逃げようとしたが、化野の手に阻まれ、また唇が塞がれる。
「…つれないな。昼間のは流されただけだったのか? お前となら、と言ったのも嘘なのか?」
「それ、は…。ん…っ」
肩を抑えつけられ、また唇を吸われる。抗い切れずにいるままで、ギンコの脳裏はあっという間に掻き乱されていく。化野の言う昼間の事など、ギンコの記憶には無いのだ。まともには働かぬ意識の中で、それでも彼は必死に考えていた。
もしも。
もしもこれが、昨日までのことと同じなら。
これも既に、起こったことだということなのか?
例え、俺にとって未来のことだとしても、
こうなると既に、決まっているのか…?
だから、抗えないのだろうか。
化野の唇はギンコの喉を、首筋を吸っていた。シャツを捲られ、腹や胸を撫でられて、彼の体は震えてしまう。もがく筈の四肢からは力が抜け、されるがままに服を乱された。
「本当に嫌なら、言ってくれな。ギンコ…」
熱の籠った化野の声が、ギンコの名前を呼ぶ。呼びながら願いを込めて、化野は彼を抱こうとしているのだ。
「不安がらせないでくれ。俺のものに、なると言ってくれよ」
「…し…の…っ。俺は…」
俺はそんなことを、お前に言ったのか。
お前の気持ちが分かっていても、
言わせるまいとずっと、思ってきたのに。
なのに、気持ちを告げさせて、
もう俺は、それを受けると、
お前に、答えてしまったのか。
もしもそうなら、
仕方ない、
のだろうか。
もう決まっているのなら。
ギンコの思考が、そちらへと一息に流される。これが未来に起こること、そうと決まっていて変えられないことならば、と、ギンコは思った。そう思ってしまうと、足掻く体の力が抜ける。触れてくる手に喘ぎ唇を許し、戸惑いながらも彼は、化野にそれを許してしまった。
着ているものを脱いで、初めてひたりと肌を重ねれば、突き通るような化野の鼓動までが、嬉しくて、愛しいのだ。こんなにも求められていたとギンコは知った。はねつけるなど出来ない。本当はずっと、それを、受け止めたかった。
あぁ
だれに ゆるしを
もとめれば いい
ほしい ものなんか
ほかには ない
もう
もう ゆるして くれ
おれだって
ひとりはさびしい
「…も、お前を。化野…」
呟いた言葉は、きっと化野に、届いてしまった。
長く感じたが、それはほんの少しの間だった。体を繋げて欲しがり合って、喘いで、泣いた。泣いたのは化野もだった。彼は酷く、嬉しそうだった。
済んだ頃には声まで少し枯れるほどで、気にした化野が、囲炉裏で沸いていた湯を、水で割って渡してくれた。
「すまんな。急いて強引に欲しがったりして。お前は明日にも発つと思ったら、その、どうしても此処を越えてしまいたかったんだ。…怒ったか? どこか痛いか? ギンコ」
「……いや。別に、初めてじゃねぇしな…」
「うん、そうなんだろうな。なんとなくわかった」
柔らかな笑み声が、責めないと言っている。生きる為なのだと、言わずとも察して、寧ろお前が言えないでいた痛みを、今知れて嬉しいと。
化野は身づくろいをしてから、奥の間に布団を敷いてくれ、気遣うようにギンコを其処に寝かせた。そして、布団越しに彼の背中や肩を撫でた。頭までそうっと撫でてくる、その手の小さなおののきに、ギンコはまた泣きたいような心地がした。
今になってもまだ、これで良かったのかがギンコには分からない。仕方のないことだと思ったけれど、それは、流されたくて流された言い訳かもしれない。
そういえば、まだ化野は眠くならないのだろうか。今までの数夜、化野は彼自身の過去の出来事をなぞった後、必ず眠りに落ちていた。未来をなぞった今も、きっと同じようになるだろう。
「隣で寝たら、お前が眠れんかなぁ。あんなことをしておいてなんだが、なんだか眠くてな。朝まで少し俺も眠っ」
その時、外で、近付いてくる足音がした。
「先生っ、来てくれよ先生っ、寝てっかもしれんけどっ。大変なんだ、うちの子が!」
足音と共に、里人の声が外から化野を呼ぶ。切羽詰まったその声に、化野は弾かれたように立ち上がり、囲炉裏の部屋へと出て行きながら叫び返す。
「どうした、青左っ、はるちゃんになにかっ?」
すると里の若い衆の青左が、焦ったままの声でこう言った。
「うちの子ははるじゃねえよ。ふゆ坊だよっ、あんたが名付けてくれたんじゃねぇかい先生っ。ふゆ坊、ねぼけたまんまひとりで厠行こうとして、縁側から転げちまってよ。ぴくりとも動かねぇんだよぉっ」
「きっと頭を打ったんだ。すまんっ、ギンコ、行ってくるっ」
「あぁ。気ぃつけてな」
「分ってるッ」
治療道具の箱をひっつかみ、草履を履くのももどかし気に、化野は里人と共に行ってしまった。そういえば、布団から裸の上半身を見せたままだったが、子供の一大事で焦っている里人は、ギンコの方をちらともみなかった。
気付けば、ことこと、ことことと、木箱の中で音がしていた。
ギンコは木箱へ手を伸べて、急いで虚繭を取り出したが、繭の中にふみはなかった。来るはずのふみは、相手の繭に取り残されたか、それとも虚穴の何処かに落ちてしまったか。そういうこともある。仕方がない。
届かないふみは誰からか分からず、分からない相手にもう一度ふみを、と促すことも出来ない。
ギンコは体に残る感覚に戸惑いながら、眠れずに朝を迎えた。夜が明けてから少しして、化野が疲れた顔で戻ってきて、ギンコが寝ていた布団にもそもそと潜る。
「…子供はただの脳震盪だったから、大丈夫だ。なんだか酷く眠いんだよ。ちょっとでいい、眠らせてくれるか? 何かあったら起こしてくれれば」
「あぁ、よかったな。お疲れさん」
化野は重たげな瞼を下ろしたまま、布団から手だけを出して、ギンコに言った。
「手ぇ、触らせてくれよ…。なあ?」
「……こうかい?」
言われるままに、その手の上に手を重ねると、化野はぎゅっと強くギンコの手を握ってきた。
「もういっぺん聞かせてくれ、ギンコ。怒ってないか? 嫌じゃ、なかったよな…?」
「…いいから、寝ろよ」
「怒ってるのか、やっぱり」
返事はしなかったが、そのかわりにギンコは、触れている化野の指を、自身の指でそろりと撫でる。眠っていないからか、化野は夜半の記憶を持ったままだ。今からでも眠ればきっと、消えるのだろうと、ギンコは思っていた。
化野が深い眠りに落ちたあと、ギンコは木箱を背負って外へと出た。里のものと出会うたびに挨拶されながら、彼は速足で里を出て行く。
昨日、届かなかったふみの相手は、山をふたつと谷を一つ越えた向こうの、里付きの蟲師かもしれない、と気付いたからだ。ふみの返事が来ていないのは彼だけだった。ギンコは休まず歩いて、その日の午後には目的の場所へ辿り着く。
けれども、願いをかけて訪ねた先にいた蟲師は、ふみに書いた内容をこう言った。
その蟲、特定できず
力になれず、すまない。
改めて詫びる蟲師の言葉に、がっかりはしたが、これもまた仕方のないこと。特定はできないものの、可能性のある蟲の情報をいくつか得て、ギンコはすぐに踵を返し、化野の元へと戻る。急いでも里に着いたのは深夜だった。もしかしたら、もうあの現象が起こっているかもしれない。
化野の家を遠目に見た時、縁側の雨戸は一枚だけ開け放たれていて、そこに化野が一人で座しているのが見えた。彼は深く項垂れていたけれど、庭の外までも近付くと、すすり泣くに似た嗚咽が聞こえた。嗚咽に混じった声が、音もなく足を止めたギンコの耳に届く。
「何故、来ないんだ…。ギンコ」
風が吹いて、化野の家の庭の木が、ざわざわと音を立てて揺れている。
「もう、あれから一年になるのに。俺があんなことを、したからなのか? していなければ、こうはならなかったのか…? 教えてくれ…」
立ち竦んだままで、あぁ、そうか、と、ギンコは思っていた。理由は分からない。けれども、もう自分は此処へは来ていないのか、と。蟲の障りのせいだろうか。それとも本当に、化野との、あのことがこうなる切っ掛けだったのだろうか。
俺の知らない未来だけれど、
これもまた、もう、
決まってしまっている、こと。
ギンコは強く、自分に命じる。声などけして掛けるな。俺は此処には居ないのだ。もう此処へ、来なくなってしまっているのだから。例え夜が明けても、自分がいずれは此処に来なくなるのだということは、変わらない。
だから、今すぐ背中を向けて、旅に戻れ。そのあとのことは、ひとりでゆっくり考えよう。とにかく今は此処を去るのだ。それが最善だと、他ならぬ俺が決めたのだ。
だが、彼の体は彼自身の命令を裏切った。喉が震えて、微かな嗚咽が、ほろりと零れてしまう。
「…っ、」
その小さな声、息遣いに、化野は気付いたのだ。
「…ギンコ…ッ。ギンコかっ。来てくれたのか、ギンコっ」
夜のしじまが、壊される。化野は裸足て縁側から下りようとし、雨戸に肩を強く打ち付けた。ガタっ、と大きな音がして、奥の間との境の、襖の前に掛けてあったものが床へと落ちた。
振り向いた化野は床に落ちたものを見て、妙なものを見たような、呆けた顔をしたのだ。
「……なんで…お前の、上着…が」
それは、ここに在る筈のないものだ。一年前、旅に戻るギンコが、いつものとおりに着て行った筈の。
「俺の知らない間に? 昼間にでも、お前は来たのか? それで上着をここに…? いや、でも。でも…」
そんなはずはない。俺は今日、ずっと此処にいた。ギンコが来たら気付く。この上着だって、こんなところにあったら、気付かない筈はない。確かに、此処にこれは無かった。その筈だ。それとも、俺の「記憶」はおかしいのか…?
「…あだ…しの」
詰めていた息を、深く吐いて、ギンコはいつものように、低い垣根を跨ぎ越した。化野もそうだろうが、ギンコの心の中も、今めちゃくちゃな有様だった。
化野が、昨夜の記憶を持ったままだということ。彼が今度は、更に一年先の時の中に居たということ。そして、今、その時の中から、今現在へと、戻ろうとしているということ。
ぱきり、とギンコの足の下で、小さな枝が折れる。庭の草が足の下で踏み拉かれて、平らになる。背中の木箱を下ろして、縁側に置き、ギンコは雨戸のもう片側を開けると、少し離れて、化野の隣に腰を下ろすのだ。
「先に答えてくれ、化野。今、何処も具合は悪くないか? 眠気はどうだ? もしも、眠いのなら」
「眠気なんかないよ。ギンコ。教えてくれ。俺は、悪い夢でも見ていたのか?」
お前が来なくなる、そんな悪夢を、見ていたのか?
ギンコは蟲煙草を取り出して、ゆっくり、時間をかけてそれへ火を灯した。化野は常の彼とは違い、何も急かさずに彼が口を開くのを待っていた。白い煙が漂って、ギンコは煙草の先端の火を、隠しに持っていたものへと移した。
強い蟲避けの草の、根。そしてその葉と、蕾と、花弁、種子。よく干したそれらを混ぜたもの。一包きりの薬包紙を、指でつまんだまま、火を。
指に火が届く前に、ギンコが手を離すと、それは空中であっという間に燃え上がり、はらはらと、ごく僅かな灰だけが残って散った。
「タビトキドリ。と言ってな。珍しい蟲だそうだ。宿主の過去、のみならず、未来にまで行き来して、気に入った時間を咥えて宵には現在へと戻る。そうして咥えてきたそれを、雛に与えるかのように、宿主に喰わせるという」
ギンコも知ったばかりの蟲だ。つい昼間に会った蟲師に教えてもらった。その蟲かどうか分からないと言われたが、それでも、強い蟲除けの薬も分けてくれた。
ギンコは此処へと戻りながら、教わったばかりの蟲の生態と、化野の現状とを照らし合わせ、ほぼ確信を得ていたのだ。
タビトキドリは、宿主の中に長く居座る。初めは遠い過去から、段々と浅い過去を。そして現在を通り過ぎたあとは、未来の記憶までも宿主に与える。まだ経験していない未来は、微量の毒を含み、宿主の体を蝕むのだ。
けれど、強い蟲除けがあれば、タビトキドリはなんとか追い立てられる。
「お前は蟲によって、自分の過去と未来を見たんだ。蟲は今さっき、蟲除けを嗅いで逃げて行ったよ。もうお前の意識は、過去へも未来へ彷徨わない。……よかったな」
よかった、とギンコは言った。けれども化野は、その言葉を聞いて、静かに憤った。よくなどない。少しも、よかったと思えない。だから、ギンコのその言葉を、彼は聞きたくなかったのだ。
「治してもらったのに、悪いが。…俺は、信じない」
膝の上で握ったこぶしを震わせて、化野は食い縛った歯の間から、言葉を零す。
「あれが、俺とお前の未来だなんて」
続
もうちょっとで終わりそう、となってからちょっと長引くのが、こういう連載のあるあるでして。なのでここで切って、三話目を書こうと思います。また何日かしたらねっ。
そうこうしているうちに、蟲師新作が見られる日も近付くのである。ほんっっっとぉぉぉーーーにっ、楽しみですよねっ。
2021.03.01