旅時の宵 3
風が吹いて、影になった木々が揺れた。木々の影に比べたら、月と星の居る空の色は淡くて、少し褪せた藍だった。ギンコは化野の方へ視線をやらず、半分欠けた月ばかり見て、一言ずつ言い聞かせるように話をした。
「信じなくても構わないし、今そうやって、辛いと思っていることを、抑えたりもしなくていいんだ。大丈夫だよ、化野」
「何が、いったい、大丈夫なんだ」
怒りで震える化野の声。彼の中の未来のギンコは、ギンコ自身も知らないギンコは、あの日の昼間、彼と何を話したのだろう。化野が気持ちを告げるのを許し、それだけでなく受け入れ、宵にはあんなことになってしまうほど、心を、開いたのだろうか。
なんてことをしてくれたやら。そうギンコは思い、憤る化野の心に、油を注ぐようなことを言うしかなかった。
「忘れるから、大丈夫だと言ってるんだ。お前は忘れる。もうお前の中に居た蟲も居なくなったんだ。今はさしずめ、余韻に酔っているだけで、朝まで寝たら、全部消えてしまっているよ。そうして、何も知らないお前になって、お前は何も心配することなく。…ッ」
「ふざけるな…っ」
襟を掴み揺さぶられ、ギンコは言葉を詰まらせた。シャツのボタンが飛んで、雨戸の何処かにぶつかる硬い音をさせた。
「じゃあ。…じゃあ忘れないように、現実にする。あの日俺が、お前に言った言葉を言ってやる。蟲の見せた未来じゃなくて『今』にするんだ。消えない『今』に」
まだ怒りの残る声でそう言って、化野はそのままギンコの口を吸おうとした。けれどもそれを途中でやめて、彼の体を強く抱いた。ギンコの顔は彼の肩の辺りに押し付けられ、背中には痛いぐらいに強い腕の力を感じた。
「いいか。聞け。俺はお前が好きだ。前からずっと想っていた。それでも、どこにも行くななんて、お前の出来ないことは言わない。ただ、此処から旅立って、此処へ戻れ。そのぐらいしてもいいぐらいには、お前だってこの里が好きだろう…?」
「………」
ギンコは抱かれたままで、酷く不思議な心地になっていた。奇妙なのだ。この告白と懇願に、いったいどのように答えれば、あの夜が生まれ得るのか、分からない。
重ねた胸の鼓動が、互いに少しずれたまま響き合っている。逃げようと足掻くこともせず、腕を突っ張り離れようとすることもせず、ギンコはその時、騒ぐ心をなんとか静めて、この違和感の理由を見つけようとしていた。
そして、空に浮かぶ半月に、雲がかかって光を遮った時、こう言った。
「青左の子は、はるって名前か?」
「なんで今そんな」
「いいから」
「……あぁ、春に生まれたから春がいいと青左が。…いや、待て、違う」
化野は自分の記憶を確かめるように、額に手を置き考えている。もう一方の手はギンコの背中を抱いたまま。
「名前は俺がつけたんだ。…そうだ。あの時、難産で大変だった。吹雪で酷く寒い夜だったが、よく晴れた冬の朝に元気な男の子が。それが、隣近所まで届くほどの、大きな鳴き声で…だから、ふゆ、と」
ギンコはやんわりと、化野の腕の中から離れた。化野はほどかれた自分の両腕と手のひらを、ぼんやりと眺めていた。ギンコと肌を合わせたあの夜、彼は青左の子を、はる、だと思っていた。はるという名の、女の子だと。
でも、実際に青左の家で、脳震盪を起こしていた子供は男の子で、ふゆ。ふゆ坊の手当てをしている時、化野の脳裏には二つの記憶が存在した。子供は中々目を覚まさず、その時はそんなことを深く考えている余裕が無くて、彼はただ、必死で治療をしたのだ。
夜が明けてギンコの傍に戻った時も、なにやら頭の中が何かで混み合っている感じがして、それで不安で、彼はギンコの手を求めたし、言葉にして問い掛けて、あの一夜が本当に在ったことなのだと、確かめようとした。
「……言葉や態度で確かめたとしても、揺ぎ無く確かなことなど、何もないがな…」
ギンコは蟲煙草を取り出して、咥えようとしながら言う。
「タビトキドリが何処かから咥えて来て、あの時、お前に食わせた未来は」
「…俺の『今』の、延長上には、無い」
「のかも、しれないな」
じゃあ、あの夜のことも、そののちギンコが来なくなることも、現実に起きるとは限らないということか。
くっ、とギンコは笑う。やれやれ、という顔だった。なんてえ蟲だ。散々引っ掻き回してくれやがって。その上、たった今、ここまで二人言葉を行き来させて、この記憶が消えるのかどうかも分からない。
「そろそろ夜が白む頃じゃないのか? ずっと起きてたんだろう。寝ろ、化野」
ギンコが言うと、化野はぎろりと目を向いて、ギンコを睨んだ。
「嫌だ。忘れさせようとしているんだろう。忘れるものか」
睨み据えている化野の目の奥の、酷く真摯な色。その胸に今抱えている、ただ一夜きりの、互いに想いをかけ合った夜。こいびとどうし、と、呼んでもいい程の。
「好きにしろや。頑張ったってそのうち眠くなる」
「じゃあ眠る前に、あの夜のことを子細に書き留めておく」
そう言って、化野は本当に文机を抱えて戻ってくる。抽斗から取り出した真っ新な冊子と、筆と墨。それから火を入れた行燈。月には雲がかかったままで、明かりが足りない。
さて、と言って書こうとする傍から、ギンコは行灯の覆いを退けて、火を吹き消し邪魔をした。何するんだと言い掛けた化野の口を、煙草の匂いのする唇が、瞬時、塞いだ。
「……え…」
「どうせお前は忘れるからな」
頬に触れたギンコの手が、その指が、ゆっくりと化野の髪を梳いて、離れた。
「ちょ…おま…」
「…は。びっくりし過ぎだろ。お前が俺にしたことに比べたら、こんなもん」
「そうかもしれんが! いや、とにかく、書く。書くぞ…っ」
呆けていた化野は、はたと我に返り、灯りの無いまま冊子に何かを綴り始める。流石に気になって、ギンコは横からそれを覗き見た。そして驚く、ミミズののたくったような、どうにも文字に見えないそれ。居眠りしながら書いているような。
次の瞬間だった。ばたん、と痛そうな音をさせて、化野は机に突っ伏した。筆は何処ぞへ飛び、行燈は床へ転げ落ちそうになった。
寸でで行燈に手を伸ばし、墨壷まで転げないように気をつけてから、ギンコは化野の寝顔を見下ろす。そう、寝顔だ。見事に寝落ちている。やれやれやれ、と声に出して言いながら、ギンコは化野を布団まで運び、寝かせてやった。
翌朝。
「お、起きてたのか、おはようさん」
「おう」
「…もう、発つのか?」
「そうするよ」
朝餉ぐらい食っていけ、といつもの化野なら言うのに、今日の彼は変に寡黙だった。あえて真っ直ぐ顔を見ると、化野の眼差しは微妙に横へ逸れている。嘘の下手な男だ、とギンコは思う。
「化野」
「ん、ん…っ?」
挙動不審にもほどがある。ギンコが合わせようとしても、化野と視線が合わない。次にいつくるとも分からないのに、それでは少し淋しい。そうギンコは思う。今朝の化野がいつもと違うのよりも、もっと、ギンコの方がいつもと違ってしまっている。
「…俺も、お前が、好きだがな」
「は…?! ギンコお前、今なんて…っ?」
「お前のこの里が、俺も案外好きだと言ったんだ」
化野の目が真っ直ぐにギンコを見る。ギンコは満足そうに、一瞬後には目を逸らした。
結局、記憶は互いに残っている。それでもあの未来が起こるのかどうかなど、きっと、八百万の神様だとて分かりはすまい。だからその時がくるまで、忘れたふりをするのだ。下手くそでも、なんでも。
「また、来るよ。じゃあな、化野」
「あぁ…! 待ってる」
風が鳴った。すぐ耳元を、大きな鳥がかすめていったような音だと、二人は思っていた。
そして、ギンコは旅の空の下、いつもと同じに歩いて行く。ひとつ違うのは、こっそり懐に入れた小さな冊子。そこには、一文字たりと読めもしない、ミミズののたくり。
「こんな珍品は、またと無いかもしれんからな」
終
やっと書き上がりましたー。こういうテイストのお話って、物凄い久しぶりな気がします。初心に帰った感じっていうかな? 結局、十五周年記念から十日近く経ってしまいましたが、満足のいく内容に書けたので、私的にオールオッケーでっ。
これからも書き続けるぞ、と、ここで約束しますね。これを読んで下さる蟲ファンの方も、そうでない方も、皆さんずっと蟲師が好きでありますようにっ。願いを込めまして♡
2021.03.07
惑い星