旅時の宵  1




 今年は雪が消えるのが早かったから、大地はもう淡い緑に覆われている。常より少し早いか、などと頭の片隅に思いながら、ギンコは化野の家を訪れていた。

 常よりも更にもっと、喜び迎えてくれる医家の友。いつものように旅の話をせがまれ、差し障りの無いもの、そして化野が喜ぶだろうものを選んで語り、いつしか夜は更けた。此処にいる間の時間は、何故こんなにも早く過ぎるのかと、ギンコは酒を注がれつ思うのだ。

 化野は火掻き棒で、囲炉裏の中の薪を物憂げに塩梅している。

「じき、弥生月だというのに、まだ夜は冷えるなぁ」

 燗をつければよかったか、などと言いながら手の中の猪口をひねくりまわし、彼はずっと何か言いたげな顔をしているのだ。当たって欲しくない予感が、そろそろ当たってしまいそうに思えたから、ギンコは促しはしなかった。

 このままでいい。過ぎるぐらいだ。このままで。

「そろそろ、寝るか?」

 腰を浮かせつつギンコは言ったが、化野の返事は帰らなかった。彼は胡坐をかいたまま背を丸めて、ゆらゆらと上体を揺らしていた。

「眠いのか? 化野」

 舟を漕ぐほどなのだったら、こんな遅くまで俺に話をさせずともいいだろうに。そう思う傍から、前に言われた言葉が脳裏に浮かぶ。

 お前はいつも三日かそこらの滞在で。
 だから眠るのが惜しいんだ。
 いくらでも話を聞いていたいんだよ。

「…ったく。ちゃんと布団で」
 
 呆れた態で言い掛けて、ギンコはその一瞬に、微かな気配を感じたのだ。蟲の気配、だろうか、これは。感覚を研ぎ澄ませながら、彼は化野の手から猪口をとろうとした。上等の酒が零れるのが惜しいし、寝落ちる前に布団に運んでやらねばなるまい。

 蟲のことを調べるのは、こいつを寝かせた後でもいいだろう。

「なぁ」

 支え立たせようとする前に、突然、化野が言った。

「あの羽織、お前はいくらで手に入れたんだ?」

 なぜ今その話だ。羽裏に山の絵のあるあの羽織のことなら、もう何年も前のことになる。化野の声は、随分はっきりしていた。

「……羽織…? って?」
「昼間のあの羽織だよ。本当に、いつ煙が見られるんだ?」
「昼間」

 おうむ返しに言いながら、ギンコは化野の顔を見た。さっきまで殆ど眠って見えたのに、今はそうは見えなかった。何を言ってるんだ、と問いかけて、言葉が喉奥で引っかかる。寝ぼけているようにも、あえて過去のことを蒸し返しているようにも見えない。

「いや、疑ってるわけじゃないがな。どうせならお前のいるうちに煙が立てば、一緒に見られるじゃないか。ギンコだって見てないんだろう?」
「…あぁ、まぁ、な」

 浮かせていた腰を、もう一度落ち着けて、ギンコは化野の姿をじっと見つめた。寝ぼけているのじゃないなら、酔っているのか? いいや違う。酔いの回った声じゃない。ギンコが自分を窺っているのに気付かず、化野は羽織のことを話し続けている。

「出来るものならあの山を直に見てみたいなぁ。お前と一緒に見られたらな…。遠いのか? 場所」
「遠い、な。数日で行って帰って来れる場所じゃねぇよ」
「そうか。そうだよな。ならもっと詳しく話してくれ」
「あぁ」
 
 ギンコは語った。化野は猪口の酒を啜りながら、うん、うんと頷いて聞いている。

「絵師が久しぶりに故郷に戻った時、あの山は、もう煙を立てなくなっていたという。まるで、見知らぬ山のように見えた、と」

 淡々と語りながら、その時、ギンコはひしひしと感じていたのだ。あまりにもはっきりとした、既視感。過去に化野の同じ言葉を聞いている。その時と同じ言葉を、自分も口にする。一言一句は覚えていないが、まるで過去をそのまま、なぞるような。

「その土地の土には、産土、という蟲がいたんだ」
「それは、どんな蟲なんだ?」

 初めて聞いたように、化野は耳を傾けている。いや、恐らく彼は本当に「初めて」聞いているのだろう。化野は今、過去の彼に戻っているのだろうか。少なくとも意識は、何年も前にこの話をした時の記憶の中。

 ギンコは乞われるままに語り続けた。やがてその話が終わり、酒も尽き、いい具合に酔った化野は、少々ふら付く脚で立って行って台所で口を漱ぎ、厠へも行き戻ってきて床に入った。

「…なあ。発つのは、明日じゃないだろう?」

 化野が問う。

「あぁ、三日か、もうちょっと長く居られそうだ」
「そうか、うん、うん」

 お前の様子がそんなんじゃ、調べもせずに発てやしねぇ。蟲の仕業か? これは。それとも、そうは見えなくても酒のせいなのだろうか? 

 ギンコは化野の寝息を聞きながら、自分も浅い眠りにつく。微かに蟲の気配はするが、あまりにも淡くて探せる気がしなかった。




 次の日の朝、ギンコは化野が外に出て行くのを見届けて、蟲師の知人数人にふみを書いた。分ることが少なすぎて、この段階で聞いても、とは思ったけれど、長居できない以上は悠長にもしていられない。

 ウロにふみを託した後、縁側に腰を下ろし、ギンコはいつものように煙草の煙をくゆらす。今朝の化野は、昨夜のことを覚えていなかった。彼の記憶はあの現象の手前であやふやになり、酔って寝たのだと本人は思っている。

 ギンコは手持ちの資料を幾つか取り出し、似ているものがないかと探したが、記憶に悪さをする蟲は少なくないから、特定は難しい。

「今のところ、害は無いようだが…。もうしばらく様子を見るしかないか」

 昼をかなり回った頃、能天気な顔をして化野が戻った。

「おう、戻ったぞ、ギンコ。蒸かした芋を分けて貰ったんだ。冷めないうちに食おう」

 あちらこちらの家へ顔を出し、持病のあるものを診たり、世間話に付き合ったりしているうちに、随分経ってしまった、すまんなぁと彼は笑う。気にするな、と返し、隣り合って湯気を立てる芋に齧りついた。やはり彼の様子には、どこもおかしなところはない。

「…お前、体調は?」
「あ? すこぶる元気だが? 何故だ」
「いや、別に」

 何でもないのならいいんだ、と、ギンコは芋の最後のひとかけらを、口の中に放り込んだ。

 そう、何もなければいい。一度きり、夕べだけのことならば、少し気にはなるけれど、いつものように、何かあったらふみを出せと言って、自分は旅に戻るしかない。

 けれど、その夜にも、同じことが起こったのだ。

「記憶を喰う蟲、か」

 暫し黙っていた化野が、囲炉裏で揺らぐ炎を眺めながら、脈絡もなくそう言った。記憶、という言葉を聞いて、ギンコはぎくりとする。

「何」
「昼間聞いた話さ。その母親。いつ帰るか分からない夫をずっと待って、繰り返す月日は、さぞ長かったろうな…」

 あぁ、これは化野の記憶の話じゃない。影魂のことだ。渡し舟の船頭をする少年と、その母親のこと。前に化野に話をした。そして化野は夜になってその話を思い出して、今とまったく同じ言葉を言ったのだ。覚えている。これも随分前。

「結局、蟲に記憶を喰われて忘れちまって、それでも本当には忘れていないんじゃないだろうか」
「あれは記憶を喰う蟲だった。だから、記憶以外のものは彼女の中に残ることになる。それが何かは当人にも分からないんだろう。…戻らない夫のことなんか、忘れた方が楽だろうに」
「そうかもしれないが」

 化野は浅いため息をついて、今夜も飲んでいる酒の盃を干す。

「彼女にはしっかりものの息子がついてる。大丈夫だろうよ」

 ギンコはそう言って、化野と同じ酒をあおった。




「顔色が悪いな、眠れてるか?」

 翌朝、ギンコがそう問うと、化野は額に手を当てて、熱をみる仕草をした。

「…少し頭が重いが、別段これぐらい」
「風邪かね。どら、ちょっと診せてみろ」
「見せるって、何を」
「体をさ」
「はは、お前にか?」

 ギンコは朝の光の中で、無造作に化野に手を伸ばす。化野は戯言でも言われたように、ちょっと笑ったけれど、それでも体を向けて、着物の前を少し肌蹴た。

「こうか? いつもは診る側だから、落ち付かん」

 頭を、眉間の辺りを、そして首筋と鎖骨と、胸と腹。指で押したり辿ったりされて、化野は居心地が悪そうにしている。一度下へと下りた手を、またゆっくりと上へと戻し、化野の頭に両手で触れながら、ギンコは何気なく確かめる。

「…風邪気味なのに加えて、昨日、飲み過ぎたんじゃないか?」
「そんなに飲んでないと思うが、そういや途中から、お前と何を話していたか、あんまり…」
「今日は早く寝ろ」
「いや、何もそこまで」

 ちらりと窺った化野の顔には、不満そうな、それでいて何処か淋しげな表情が浮かんでいた。

「…まだ、発たねぇって」
「そうか」

 勝手知ったるな風情で、ギンコは化野の薬棚から風邪の薬を取り出し、白湯を湯飲みに注ぐまでしてやった。名医だな、と化野は彼を揶揄したが、夜がきたら、それでも言うことを聞いて横になった。

 ほどなくして寝息を立て始めた化野だったが、眠ったはずの化野が、ぽつりと何かを言ったのは、夜半を過ぎる前のことだった。

「昼間の、話だがな」

 と化野は言う。今度はいつのなんの話かと、ギンコはひそり身構えた。

「その男、きっと彼女が自分の里へ来なくなる日が、怖かったんじゃないかと思うんだ。所帯を持とうと言えば断られ、もっと来て欲しいと言っても首を横に振られ。日照りにならないと、彼女は来ない」
「…そうかもしれない」

 今度はアメフラシの話であるらしかった。何故今そんな話を、と言うこともできるのに、今夜も何故か言うことが出来ない。気付けば化野の戻る時間は、だんだん新しくなっている。偶然か? それとも、偶然ではないのか。

「でもあの時、既に彼女はナガレモノの影響から抜けかけていたから、今頃もう、旅暮らしはしていないかもな」
「じゃあ、今は彼女を待つもののいる里に住んでいるのかな。そうだといい。本当に」
「たぶんな」

 これで三日、同じ現象が続いている。それ以外の悪い影響は、幸いにして見られない。ふみを出した何人かの蟲師からは、分からないという返事しか来ていないが、それでもそろそろ、旅に戻ることを考えねば、とギンコは頭の片隅で思った。

 なんの対処も出来て居ず、探ろうにも蟲の気配は限りなく淡く。そもそも、気配が薄いからと言って、人に及ぼす影響が小さいとは言い難い。不安なままで、ギンコはまた一日を化野の家で過ごした。

 そして。次の夜の同じ頃合い。

 静かな風の音を聞きながら、化野は何かを躊躇っているようだった。ギンコはただ、彼が今度はいつの過去へ戻るのかと、じっと待っていた。

「なぁ、ギンコ。昼間は急に、すまなかったな」 
「…いや」

 何が? と思うも、聞き返す気になれない。蟲のことを突き止めるために、化野の言いたいように、したいようにさせて様子を見なければ。だからギンコは曖昧に返事をして、続く言葉をさらに待った。

「でも、嬉しかった。夢かと思ったしな。分の悪い賭けだと思っていたんだ、俺は」

 視線をやると、化野は少し頬を赤らめて、ギンコの方を向いていた。そうして彼は静かに手を伸べて、ギンコの肩に触れ、髪に触れたのだ。

「化野…?」

 思わず問うような響きで名を呼んだ。

「んん?」

 と、化野は淡い笑みで返事をする。そして膝立ちになり更にギンコに近付いて、彼の体を少し、自分の方へと引き寄せた。

「なに、を?」
「すまん。せっかちだと自分でも思うが、お前は明日にでも旅に戻るんだろう。だから、昼間のことを夢だと錯覚しないように、もう一度…ギンコ」
「昼間の、って」

 混乱し、抗えずにいるうちに、化野の顔が間近に来ていた。そして、彼の唇がギンコのそれへと、重なったのだ。




 続








 本日はLeavesの15周年なんですよ! それなのに、連載の一話のみ投稿って…!? なんとかちょっとぐらい長くなっても、なんとか今日までには書けそうだと思っていたんですがっっ。ヘタレですみません。続きも頑張ります。このお話、タイトルは「りょじのよい」と読みますよv

 ところでところで、蟲師原作の新作が、あとひと月もしたら読めるのですよね! あのですね、この大ニュースがあったので、続きが一度頭から吹っ飛んでしまって、多々書き直したりして時間かかってしまったんです。言い訳するのも嬉しいこの現状っ。いや、本当に嬉しい。小躍りしつつ楽しみに待ちたいと思います。

それはさておき、Leavesは明日から16年目に突入。応援してくださっている皆さま、本当にありがとうございます。これからも、まだまだずっと書いていきたいと思いますので、どうかよろしくお願いします^^





2021.02.26 .