… 狼 … 前編
がツ…ッ
強い風の音と、その風自体が気付きを遅らせた。遅らせた、どころか、戻れぬ事態になってから、あまりにも遅くギンコはそれを知った。鬱蒼と茂るこの草の中を通り、重なり合う枝を潜ったその先に、近道があるらしく、探していただけだったのだが。
「…っ!!」
何かに足を噛まれ、ギンコはそのまま、一歩も進めず両膝を地に突き、灌木で頬を掻く寸前の地面に倒れ伏す。ぐる、るる…。と、獣の呻り声がした。その声の振動は、彼のの右足首に直に響いた。痛みは、酷いものほど遅れてやってくるのだ。
「ぅあ、ぁあ゛…ッ!」
脳天まで刺さるほどの激痛に、ギンコは叫んだ。その声に獣は尚も憤り、鋭い牙をさらに深く彼の肉へと喰い込ませる。狼…だ。罠に大腿を噛まれた、手負いの狼。いつからその姿で居るのか、毛並みは荒れ、狂ったように目を見開き、生暖かい息を、ふーっ、ふーっ、と吐いている。
「こ、…の…ッ。離ッ…」
もがいても何もならぬと理性では分かりながら、その時は恐怖の方が勝った。ギンコはもがき、噛まれた足を離させようと暴れた。けれど狼はどれだけ暴れられようと、傍らの石でもって頭を打たれようと、低く唸るばかりで顎を開こうとしない。
どれだけそうして居ただろう。あまりの痛みに、ギンコは段々と力を失い、ぐったりとその場に身を投げ出した。動けば動くほど、逃げようとすればするほど、狼の牙は深く食い込んでくる。噛まれた部分は熱くて痛くて、けれどそこから指の先までは、逆に、きんと冷えてきたような気がした。
でもそれは、体が痛みを拒否し、堪え得る以上の激痛を認識しなくなっただけだろう。噛まれた足首のまわりが、ぬるぬると濡れた感触。確かめるまでも無い、流れた血だ。
呻り続ける狼の目と、見開かれたギンコの目が、幾度目かに、ひた、と合い…。
「は…は…、悪、かったな、お前…」
恐ろしく見えていたその狼の目が、何かを訴えるように見えて、ギンコは浅くゆっくりと息を付いた。
「乱暴なことして、痛かったろ。お前だって、こんな筋ばっかの不味そうな男なんか、食いたくて噛んだわけじゃねぇよな…ぁ」
草に半ば隠れた鉄製の罠を、目を細めてよくよく見れば、その罠は酷く錆ていて、いったいいつからここに置かれていたものかもわかりはしない。罠に何かがかかっていないか、などと、見に来る猟師なども、もう居ないだろう。ここは道から随分離れているし、この山自体、あまり人の踏み込まぬ場所だった。
「ま、しゃあねぇ…か…。とんだ近道、だったな」
足首から響く痛みは、今やずくずくと全身へ広がり、心臓の鼓動と同化するかのように、体のどこかしこまでがうっすら熱く。
「なぁ…顎が疲れたらでいいからさ、ぼちぼち離してくれや…」
そう言って身を伸べ、一番楽な姿勢を探して横になり。その時になって初めてギンコは、この場に居るのが自分とその狼だけではないと気付いた。少し離れた草叢に、丸く小さくなって座っている仔狼。その鼻先と顔が、茂みの中に半ば隠れてこっちを見ている。
「…お前だけじゃなかったのか。小さいな。お前の、子か?」
目を凝らしてよくよく見たが、縄かなんかで囚われているわけでもない。仔狼はここに親がいるから、あの場所から離れずにいるのだろう。多分親の傍にいたのを、ギンコがきたからあわててあの繁みまで逃げた。そして…
「そうか、子供が近くに居るから、俺を向こうに行かせるまいとしたってわけか。…なんもしねぇよ、狼喰うほど飢えてねぇし。…つったってな、分かるわけねぇしな。ロクなことしねぇもんな、人間なんて」
横臥した狼の姿を、刺激しないよう気を付けながら、ギンコは改めてその姿を子細に見た。ほんの少し濡れた腹が見えて、まだ仔に乳を与えている母狼なのだと分かった。早く足を離してくれればいいが、このままじゃあの子供は、ギンコを怖がり親の傍に戻れず、乳も吸えない。
本当に小さな仔狼だ。あどけない黒目勝ちの、大きな目をしている。
「お前…来いよ。来い、こっちに…。母さんよりか、お前の方が分かってくれそうだ。俺はなんもしねぇから、来い、お前。母さんの傍に居てぇだろ?」
ギンコはなるべく穏やかな目と声で、仔狼に向かって話し掛けた。親よりは警戒心が薄いだろうが、そう簡単に寄ってくるとは思えない。長期戦は覚悟で、仔狼の方を向くように、横たわった自分の体を僅かにずらし、草の中に片手を伸べて呼ぶ。
動けばその都度、母狼の牙が傷の中をえぐるようで、意識が飛びそうになった。それでも、何もせずいたら何も起こせない。
「なぁ、お前いつ生まれだ? 結構生まれたばっかだろ。犬の子と変わんねぇな。可愛いじゃねぇか、来い、こっちに」
話し掛けては黙り、また話し掛けては黙りして、暫しそうして粘っていたら、ようやく仔狼が少し動いた。草藁の中で鼻を上に向け、くんくんと風の匂いを嗅いでいる。丸くなっていた体を起こして、ほんの少しだけ、ギンコの方へ。
「お…? 来るかい? おいで…。うッ、ぁっ!」
ぐる、るぁ…ッ。
またギンコの右脚に、母狼の牙が鋭く食い込む。母親なりに仔を守る為だ。子供をギンコに近付かせるまいと、我が子までもを威嚇する。がしゃ、がしゃと鎖が鳴った。深く大腿に食い込んでいる獣用の巨大な罠が、狼の脚を噛んだまま、地面を削るように引きずられていた。
「…よせっ、お前っ。無茶するな。足が千切れちまうぞ…っ」
焦って声を荒げれば、狼は危険だと思って更に怒り狂う。ギンコの足に牙を喰い込ませたまま、ぎりぎりと顎を締めて呻る。
「…ひぐ…ッ、あ゛、あぁッ!」
凄まじい力だった。罠に噛まれた狼の脚よりも、ギンコの足首の方が先にへし折れそうだ。あまりの痛みに、脳内で光が弾け、その一瞬後、ギンコは地面を掻きながら、その意識を白く途切れさせた。
それから…。
どのぐらい意識が無かったのか。気付いた時は全身が濡れていた。雨が降っていたのだ。手当も出来ない傷口から、血を流したままで雨に濡れるなど、正直かなり危険な状況だった。けれど思ったよりは寒くなく、うっすら開いたギンコの目に映るのは、薄茶色の、小さなもの。
さっきは離れたところに居た仔狼が、ギンコの懐にすっぽりとおさまっていて、そうしながらも、くちくちと母狼の乳を吸っていたのだった。目を開けただけで微塵も動かず、ギンコは視野にそれを見た。彼は恐る恐る下肢に意識を向け、自分の足がどうなっているか確かめようとする。
牙は、もう食い込んでいないように思われた。いや、麻痺していて分からないだけかもしれない。体を動かさず確かめることは出来なくて、気にしながらギンコは伏せ勝ちの目で、じっと仔狼を見ていた。
そして暫しして、母狼が震えながら首をもたげ、乳を吸う我が子の背を舐め始めた。つまりはもう、ギンコの足を離しているのだ。次の一瞬で、母狼とギンコの目が合った。ギンコはぎくりと身を強張らせ、それでも動かずに堪え切る。母狼はあと数回、子供の体や顔を舐めると、力尽きたように、どさりと地へ頭を落とした。
あぁ、そうか。もう、この母狼は…。
また噛まれるかもしれなかったが、ギンコはゆるりと身を起こした。恐々自分の足を見たが、どうやら足首を噛み千切られたりはしていない。母狼はぐる、と呻り、体を起こそうとしたが、出来ないらしい。もう本当に、これは…。
助かった、とは思う。そのままそろそろと離れて、逃げればいいのだと分かっていたが、そうする気にはなれなかった。多分、今は真夜中。これからさらに外気温は下がる。母狼に寄り添っていれば、仔狼は大丈夫だろうが、母狼は朝まで持つまい。
ギンコは、どうしても震えてしまう手で、まずはそっと仔狼の体を撫でた。ぎろりと動く母狼の目を、受けるともせず逸らすともせず、次にはゆっくり手を伸べて母狼の背中を撫でた。
「…分かってんだろうなあ、お前。もう死ぬんだって。こいつ助けたくて、お前は必死で俺の足を噛んだ、ってことにしとくぜ? まずは朝まで…分け合えるもんを、分け合おうか」
あれほど、強く鋭かった母狼の目が、底の方からどんよりと濁っている。熱かった息は温くなり、ゆっくりと、堪えるように呼吸している。
「………」
命の終りを、
見るのは嫌いだ。
誰にも等しく訪れるのに、
これでこの命は途切れてしまうのに、
ひとつひとつの小さな命の終りがすべて、
どうして安らいでいけるものではないのだろう。
それでも命は、終わる最後の最後までずっと、優しくてあたたかくて、こんなにも貴い。ギンコはそっと包む様に、母狼の体を抱いた。まだ乳に吸い付いたままで、仔狼は何も知らずに眠ってしまった。
ギンコの声が、きっともう何も聞こえなくなっている母狼の耳に、穏やかに囁く。
「…俺に任せなよ。お前の忘れ形見、ここでこのまま、なんてことにゃさせないから」
ずくずくと、噛まれた足首は傷んでいる。幸い傷が深いだけで、腱も骨も無事だ。上手く噛んだもんだよな、って、俺はきっとあいつのところで笑うんだ。成し遂げたことを嬉しく思いながら、きっとあいつに叱られるんだ。
そのためには死ねない。
その為に、生きる。
続
珍しく二話で終わりそうです。二話で終わるものをブログじゃなくてノベルコーナーに置くのって珍しいんですけど、ブログは今日更新したばかりだから、なんてそんな理由でそうします。
pixivに…とも思ったんですが、あっちはあっちで更新したばかりだし、あそこに載せるのはちょっと異色でしょ、っていう、私しか分からないこだわりが。いや、私にもよくわからないこだわりが。
ともかくここに載せます。タイトル決まったらすぐに。なんにしよv
13/09/16