… 狼 … 後編
眩い光が降り注いでいた。雨は上がり雲が切れ、まるで何も不安の無い朝のようだ。けれど現実はそう易くはない。
薄っすらと瞼を開いて見た視野に、ギンコと同じく雨に濡れた狼の親子の姿がある。母狼の息はまだほんの少しだけあった。腹部が微かに上下していてそれがわかる。凄い生命力だと、そう思った。
ギンコは背に負ったままだった木箱の背負い紐を、出来るだけ静かに肩から外し、蓋を開けて抽斗の中を探る。竹筒に入れた水を取り出し、彼はその水で、母狼の口元を少しだけ湿してやった。
どろりと濁った二つの眼が、ギンコを見てそれからあたりへと揺れ動く。きゅうん、と鳴いて近付いてきて、仔狼が母親の鼻を舐めた。途端に少し、澄んでくる親の目。本当になんて強さかと思う、生きることへのこれほどの執着。我が子を生かすための自分の生を、きっと最後まで軽んじたりはしないのだろう。
ギンコは木箱から包帯を取り出し、服の上から自分の右足首にそれをきつく巻き付ける。それから余った包帯を持ったまま、母狼の脚を見た。罠に足を噛まれたまま散々暴れたせいで、酷い有様だった。何ヶ所も骨が折れていることが、見ただけで分かる。千切れてないのが、いっそ不思議なほどだ。
そしてギンコは包帯を木箱に仕舞い込む。なんて無情なことだろう。無駄だ、と思ったのだ。もう流れ出る血も出尽くしてしまうような、瀕死の母狼に使うより、自分の足の怪我に使う替えの包帯として携帯する方がいいと。
「子供、優先するぜ? それでいいんだろ。なぁ?」
そうしてギンコは仔狼の口を、母親の腹のあたりに押し付ける。まだ乳は出るだろうか。出ないかもしれないが、これが最後だからそうさせたかった。
「…覚えててやるんだ、最後までお前を守った母親の匂いを」
仔狼は母親の乳のまわりを、前足で必死で揉みながら、くちくちと吸う。ギンコは視線を逸らし、母親の顔を見ずに支度をした。木箱の中から取り出した水の竹筒、それから小刀を上着へ移し、万が一にも靴が脱げてしまわない様に、足の甲を靴の上から紐で縛った。
怪我した方の足も同じようにしたが、少し動かすだけで痛みが足首から頭まで、刺さるように響く。歯を食い縛って堪え、木に縋りながら立ち上り、杖に出来そうな枝を一本、その木から頂戴する。
子犬と変わらないような、仔狼の声がさっきから聞こえていた。乳が出なくなって、足りないと泣いているのか、それとも…もう目を開けなくなった母親の異変に気付いているのか。温もりが消えていくことが、不安なのだろうか。
「…お前がそんな小さくて幸いだよ、大した荷物にゃならねぇ」
ギンコはそう言った。そして小さな仔狼の腹の下へ手を入れ、ひょいと胸に抱えた。途端に散々鳴き騒ぐ声に、母狼の瞼はもう、開かなかった。胸に抱えた仔狼の口からは、微かに乳の匂いがして、母狼は死ぬ直前まで、我が子に乳を与えたのだと分かった。
「………よく、頑張ったな…」
そう、ただ一言だけ。
人間なら、こんな目にあっただけでへこたれちまうよ。運命を呪って呪って、死ぬまでこんなとこで苦しむぐらいならと、舌を噛んだかもしれねぇ。そうやって子まで道連れにして、苦痛を終わらせちまうような、そんな弱さしか持ってねぇのさ。お前ら野に生きる生き物の方が、余程立派なんだ。
そうしてギンコは鳴き騒ぐ子狼を抱いたまま、山を下り始めた。一歩ごとに刃物が刺さるような痛みを味わい、血を失った故にか、ずっと寒気を感じながらだった。寒い癖に額からも手のひらからも汗が出て、握っている枝の杖が何度も滑る。
小一時間も、仔狼は鳴き続けていたし、ギンコの腕の中で暴れていたが、彼は抱える腕をずっと緩めなかった。
お前の母親と約束したんだ。
頼むから、守らせてくれよ。
俺は、お前を生かさなきゃならねぇ。
暫し歩いたが、あまり距離を稼いだとは言えなかった。きっと、普段の四分の一の速さもないだろう。転ばぬように慎重に、枝に掴まり、幹に縋り、普段の数倍の重さに感じる木箱に辟易し、そんな中でも腕に抱いた小さな温もりが、彼を慰め力付けた。
くぅ、と時折子狼が鼻を鳴らす。意味など無いだろうと分かったうえで、話し相手にするように、ギンコは返事をした。
「あぁ、大丈夫とは言えねぇ…な。随分痛ぇよ。そこらへんに捨ててっちまいたい…っ、ぐらいだ。いや、お前をじゃなくて、俺の片足をな。痛み止めかい? あんまし持ってねぇから、いよいよ堪えられんなくなった時に使うのさ。まだ…大丈夫…。立っていられる」
食い縛った歯が、時折、ぎり、音を鳴らす。膝から力が抜けて、へたり込みそうになるたび、ギンコは奥歯を噛んでいた。一度は木の根に引っ掛かり、膝から崩れて転がって、人じゃないもののように呻いた。
仔狼は投げ出されたが、逃げるでもなくギンコの傍に戻ってきて、汗びっしょりになったギンコの顔を舐めてくれ、手を舐め、包帯から血の滲む足首も舐めてくれた。
「…って、痛ぇっ…てぇ、よ………」
掠れた声でそう言って、それきり暫しギンコは動けなくなった。木々の間に、遠く人里が見えていた。あそこまで下りるのは半日も掛かるだろうか、もっとだろうか。それどころかたった今は、立ち上り歩き出すことができるかどうかすら、疑わしい。
ぜえぜえと喉が音を鳴らし、水を飲めばいいと分かっているが、ポケットのそれを取り出すのすらも苦痛だ。横になっていても辛いし、立ち上がるのも辛いだろう。歩くなんざ、もっと。一歩ごとに足裏から膝まで、刃を突き刺されているみたいだと、ずっと思ってきた。
「…喝を、入れとくとするか、な」
震える指で、ギンコは木箱の中から小さな紙片を取り出した。筆を手にして、がくがくと震える指で文字を書いた。宛名は化野で、最後に添えるのは勿論自分の名。わざわざ化野の里の場所まで記して、それを胸ポケットへと押し込む。
深く深い息を吐いて、ギンコはその後、痛み止めを飲んだ。数分待ってから、無理でも足に力を込めて彼は立ち上る。獣の咆哮のような声が出た。何処もかしこも震えていたが、なんとか立ち上がることが出来て、さっきよりはましに歩けた。効果は絶大だな、とそう思った。
夜になり眠る時、子狼はギンコが押さえつけていなくとも、傍を離れることが無かった。彼の胸の内へと納まって、親の乳を吸うように、ギンコの指を吸っている。小さな小さな温もりが、その夜もギンコを温めた。
翌朝、ギンコは里に下りる寸前に、旅の商人たちの荷馬車と出会った。天の助けかと本気で思った。よたよたと歩くギンコを、商人たちは好意で拾ってくれ、足を獣用の罠にやられた、と話すと、そんな嘘の経緯を聞いて気の毒がってくれた。
ギンコが連れているのが、仔狼だと分かるだろうに、商人は何も問わない。ギンコだとて、ばれてることも承知の上だ。罠に掴まった狼や狐の仔が、餓えて死んだ姿など、山から山を通り抜けてく商人なら何度も見ているのだろう。
そうして商人と共に移動する数日間、ギンコの足もかなり楽になった。小休止の時、枯葉を追っかけ、トンボをおっかけしていた子狼を横抱きして、ギンコは商人らに礼を言う。
「ありがとうよ、いろいろ世話になった」
彼らと別れて、さらに半日、平坦な道をゆっくりと歩いて、それから最後は渡しの舟に乗り、ギンコは化野の里に着く。足は勿論まだ痛むが、数日前より大分増しに、と思っていたら、姿を遠目で見られただけで、化野は血相を変えて飛んできた。
「ギンコ…っ!! 歩くな! 動くなっ!」
悪いとは思いながら、真っ青になった化野の顔にギンコは安堵する。あぁ、約束は守ったよ。お前に叱られに来たんだ、俺は。そしてこの命も、こうして守れた。
ギンコの上着の内側に抱かれていた仔狼が、零れるように彼の懐から飛び出し、知らない風景に一瞬竦み、駆けてくる化野に気付いてギンコの足の後ろへ回る。
「…なっ、何を連れて来てんだお前はっ。それっ」
「可愛い犬だろ、途中で拾ったんだ」
「犬っ。詳しく聞こうか、まずは手当だっ、この怪我人!」
化野を怒らせ、本気で心配させて、けれども確かにあの山中で、死ぬ可能性さえあった姿を見せることはなく、あーわかったよ、と。はいはい、気を付けるさ、と。軽口めいて言えるこの、あまりにも大きな幸福を。
死んだ母狼の姿が、目の前にちらついた。最後の最後まで、我が子に乳を吸わせながら、曲がりなりにも後を任せられる者を得て、ゆっくりと息絶えたあの姿。
「俺も…」
ぽつり、零れかけた言葉は、偶然にだが化野には届かなかった。肩を貸されて家に連れて行かれ、どう見ても獣の噛み跡にしか見えない傷に、やっぱり散々叱られて、うっすら涙の浮いたお前の目を、気付かぬ振りで、ギンコは胸に染ませていた。
なぁ、化野。
死ぬ時はお前を、
俺の唯一無二のお前を、
守り抜き満足して死にたい。
任せられる者を得て心から安堵し、
俺は誰より幸せだったと笑って逝きたい。
手当てをしてくれていた化野は、ふと勢いよく顔を上げ、きっ、と睨んでこう言った。
「今、お前、不届きなことを考えたな。許し難いことを何か、思っていただろう」
「なに、言ってんだよ」
訳分かんねぇな、と、そう言って目を逸らしても、化野はまだギンコを睨んでいた。手当ての手を止めて、ギンコが自分へ視線を戻すまで、ずっと黙っていた。
「や、ええと…さ。その子犬」
「…仔狼な」
「あぁ、まぁ、そうだが。悪いが、山に離せるようになるまで」
「預かれと? 小さくとも野生の獣だ。慣れ過ぎないよう裏庭に大きく囲いを作ってもらって、その中でになるが、それでよければ」
それでいいよ、とギンコはいい、その後、当たり前のように言った化野の言葉を聞いた。
「察するに、母狼は死んだんだろう。さぞや無念、だったろうな」
「……」
「俺なら、愛するものを残して死ぬなど、たえられんよ」
ギンコは化野の顔を見た。眼差しが真っ直ぐに、ギンコの目を捕えた。それから、ふ、と笑い、大変だったなお前も、と。他意はない、筈はないのだろう。ギンコの想いは、そのままに、読まれていたということか。
手当てを終えて、道具を片付けにいった化野の背中を見ながら、ギンコは上着のポケットから、皺くちゃになった小さな紙片を取り出した。万が一にも見られぬように、小さく小さく握り潰し、手を伸べて囲炉裏の火の中に放る。
ぼ、と一瞬炎を強くして、それは火の中で消えた。
書いた短い文面は、言わば遺書だ。ほんの二言三言で「礼」と「別れ」とを並べた、簡単な。山中で自分が死んだら、ここへと届けられてしまうかもしれないように、わざわざ化野の名も、里の場所も記した紙片。化野は気付かず、茶を入れて戻ってきて、ギンコの口元の笑みを見つけ、何も、言わなかった。
化野。
今、燃したのは何だか、
真逆の誓いのようだったな。
お前を置いて簡単には死なぬと、
そう約束したような、
そんな小さな火、だったよ。
終
難しかった、です。かなり前からこの話は書きたくて、でもその時思っていた内容とは、もの凄く違ってしまいました。現したかったことは変わらなかったんですけど、もっと、ずどーん、と暗い話のつもりでしたね。ま、いいか。終わり方が結構気に入ったしね。
私にしては珍しい、二話完結のお話でした。
13/10/12