『 いのち の ひかり 』  前編







「よぉ」

 春間近、いや、庭の梅の蕾が、もう綻び始めているから、既に春は来ているのだ。彼が暫くぶりに顔を見せた途端、歓迎の言葉を言うより先に、化野は蔵へと飛び込んで行った。

「見せたいものがあってなっ」

 すぐに戻ってきた友人の、相変わらず忙しない様子に、旅の蟲師の肩の力も抜けると言うもの。いつもの縁側に腰を下ろした彼の膝へと、化野は細長い箱を押しやる。

「また紛いもの自慢かね」
「せめて見てから言えっ。これはな、蟲を描いた絵だと言われてな」
「ほうほう」

 こんなふうに、化野の自慢に付き合うのはいつものことで、その八割がた騙されて買ったものやら、眉唾やらだ。よく飽きもせずと思うのだが、取り出され広げられた絵を見て、ギンコはわずかに目を見開いた。

 金。

 金色の描かれた絵であった。

 黒や濃い灰色、深い緑で描かれた夜の山。そしてその山の真ん中に、丸く光り輝いている、もの。眩しい満月が、山に抱かれているように見える。或いは、山に開いた丸い穴の中に、金色の何かが、息づいているような。殆どが暗い色をしたその絵の、金が酷く目を射るのだ。

「どうだ、蟲の絵だろう?」

 黙り込んでいるギンコの様子に気付いていないのか、化野は自慢気に笑んでいる。

「この金色。眩しくも見えるが、どこか昏い。まるで深い地下から、滾々と溢れているような…。お前が以前、そういうもののことを話してくれたのを思い出したんだ。なぁ、言ってくれ、ギンコ、これは本物だろう?」
「まぁ、そう急くなよ。それに、茶ぐらい出てこねぇのかい? 春とは言え、山の風は冷たかったんだがね」
「ちっ、焦らしおる。待ってろ!」

 化野はまたどたばたと、今度は台所の方へ駆け込んだ。いつもの湯飲みを用意し、とっておきの茶葉を取り出す。絵のことも気になるが、寒い思いをしたのだろうギンコに、どうせなら美味い茶を出してやろうと彼は思うのだ。

 わざわざ茶菓子まで添えた茶を持って、化野が戻った時、縁側にも庭にもギンコの姿は無かった。そして、件の絵も何処にもない。

「ギ、ギンコ…っ? 何処へ行った? 絵はっ?」

 ただ、ギンコがさっきまで座っていた場所に、一枚の紙切れ。


 絵は借りていく。
 調べたいことがあるんだ。
 茶はまた今度。


「この…。は、謀りおったな! ギンコー!!」

 長閑な海里に、医家の叫びがこだまするのだった。






 おじいさん

 だめだよ

 それ以上
 その川に近付いちゃ だめ


 あぁ、分かっているさと答えようとして、耳がようやく、その音を拾った。どんどんどん、と何度も戸を叩く音。そう急かすな。壊れかけた戸がとうとう壊れっちまうじゃないか。

 男はゆっくりと身を起こす。粗末な布団を隅へと押しやり、所狭しと並んだ様々をうまく避けながら、向こうに人の気配のする戸に手を掛けた。

「どちらさんだね」
 
 まだ隙間しか開いていない戸の向こうから、わっと光が入ってくる。屋内で闇に沈んでいた、棚やら箱やら道具やらの輪郭が、男の役立たずの目にも微かに映るようになる。

「…この、絵を描いた絵師を、探しているんだが」

 途切れるように告げた客人の躊躇いが、手に取るようにわかって、男は更に戸を開きながら笑うのだ。

「此処は確かに絵師のガラクのあばら家だが、どれ、どんな絵かね」

 瞼をほんの少しだけ開けて、ガラクは客人の方へと両手を差し出した。指先に絵の具が付いたままの、皴深い手だった。客は背負っていた荷を下ろし、中から細い箱を取り出して、今一度ガラクと向き合う。

「これを」

 絵師は絵の入っているのだろう箱ではなく、客人のなりへと顔を向けて言った。

「…まあまず、入ったらいい。座る場所があるかどうかだがねぇ」

 狭い、とギンコは思う。通るので精いっぱいといった感じの屋内の、左右に置かれている、絵、絵、絵。壁や家具に貼られているもの、床に延べられているもの、巻いてあるもの、幾枚も重ねられているもの。

 それらが光源の無い室内に無数にあって、まるで、息づいているようにギンコには見えた。それらのどれにも、金色が描かれている
 
「…全部、あんたが?」
「こんな妙な絵を、俺以外に誰が描くかね」
「だが」

 盲目。全盲ではないかもしれないが、少なくともあまり見えてはいないのだろう。相対して分かったつもりでいたが、ガラクは部屋の一番奥に行き付いて、突き当たった壁に両手を置きながら言ったのだ。

「見えとるよ。少なくとも、あんたの髪が俺よりも白いことぐらいは分かる。明るきゃあ色ぐらいは、ぼんやり分かるんでなぁ。ずうっと顔を寄せれば細かいところも段々見えてくる。そうやって暮らしとる」

 両腕に力を込め、縮めていた体を精一杯伸ばして、絵師は突き当りの壁を押した。ぐ、っと斜めに壁が持ち上がり、壁だった場所は明かり取りの窓になった。陽の光が入って、壁際の床を細長く四角く照らす。

 ギンコの左右、前、後ろにある無数の絵の中で、描かれた命が、ざわりと動いた、気がした。

「教えて欲しくて来たんだ。あんた、この絵の風景をいつどこで見た?」

 箱の中から取り出した絵を、ギンコは光の注いでいる場所で開いた。ガラクは両手を差し伸べて絵を手に取り、舐めるように顔を寄せてじっくりと見る。見ているうちに彼の目元には笑みが浮かんだ。

「こりゃあ、もしかすると初めて『光』を書いた絵かもしれん。とすると、ざっと四、五年前か。そん時のことは、俺よりもあんたの方が知ってなさるんじゃないのかい。あんた、ギンコだろう。スイから聞いてるよ」
「スイを、知ってるのか…?」

 ごぉぉぉ …

 光の川の音が、耳の奥で響いた。胸の遠くに、金色の光がぽつりと見えて、それが段々と広がり、あっという間に洪水のようになる。ギンコは無意識にふたつ目の瞼を閉じそうになった。思い直してその瞼を押し開け、彼はガラクの話を聞くのだった。





 あん時は、とうとうすっかり見えなくなった、と思ったんだ。遠くの鈍い音と同時に、急に真っ暗闇が来て、覚悟はしてたがさすがに慄いたねぇ。

 でも違った。外へ出ると、光の柱みたいなのが遠くに立ってるのが、この目でも辛うじて見えてな。そのあと柱はすぐに消えたが、それと同じ色をした流れが、足の下のずっと遠くから、俺の方へとどんどん近付いてきて、あんまり眩しくて、飲まれるかと。

 それもすぐに消えたが、でもそれきりじゃなくてな。光の川は時々、俺の目の中に現れるようになったよ。
 
 生まれた時から目が悪くて、鮮明にものが見える、なんてことのずうっと無かった俺さぁ。ひとつひとつがはっきりと見える、その光の群がどんだけ胸に刺さるか、あんたにゃぁ分からないだろう。

 それが見えた時は、ずうっとずうっと、見ていた。ずううっと…。
 
 そんなある日、光の川の向こうに誰かの姿を見た。遠いような近いような、よくわからない感じだったが、光の粒がはっきり見えるのと同じで、その姿も良く見えてなぁ、可愛らしい娘さんだった。それがスイだったよ。

 夢だろうが現だろうが、人と会うのは久しぶりだったんで、嬉しくなって近付こうとしたら、その子は俺にこう言った。

 
 だめだよ
 おじいさん
 その川にそれ以上
 近付いてはだめなの
 
 
 なんでだ、って聞いたら、教えてくれた。

 この川が見えるのは、二つ目の瞼を閉じているから。この美しい命の流れは、見れば見るほど心を捕らわれて、現に戻らなくてもよくなってしまう。そうして人はやがて、現を見るための目を、闇に差し出してしまうのだ、と。

 そう聞いた時、俺は俺の中の、現への未練を知ったのさ。ずうっと此処に居てもいい、それだけでいいだなんて、思っちゃいない。よく見えない世界でも、様々な色の溢れたこの世が愛しい。

 見えるものよりもずっと苦労したっていいから、愛しい世界の中に、俺も生きていたい、ってな。

 だからそれからは、スイの言う通り、金の光に出会えても、近付いたりせず少し離れて、ほんの僅かの時間だけ見ているんだ。時々は対岸にスイが居て、話をするのも楽しい。たまに、スイは友達と一緒に居てな、その子もいい子だよ。ビキ、って言う名なんだと。


 
 
 ガラクは窓から入る光の傍で、外界の様々な色をぼんやりと眺めながら、満足そうにしているようにギンコには見えた。

「あんたの持ってるそれは、あの光を初めて見たあとに描いた絵だ。光の柱はきっと、光の川から現のこちらへと、溢れ出た光だったんだろう。もしもそうなら、その時山にはぽっかりと穴が開いていて、そこから光は溢れたんだろう、って、そう思って描いた。それを買っていった男は、何故だか惹かれる、どこか妖しくていいだとか言ってたっけな」    
「なんだよ、見たままを描いたんじゃないのか」

 ギンコはどっと肩の力が抜けて、辛うじて空いている場所に腰を下ろした。絵を見た時、光の色や周囲の山の姿から、彼はそれがあの時の光だとすぐに気付いた。この絵の通りの光景がもしも、あの時だけじゃなくて、そのあとや、今も同じ場所で見れられるのだとしたら、けして良いことではない。

 それは、向こうとこちらが、繋がっているということだ。

 またしても「理」の何かを曲げてしまったのではないかと、正直、震えた。ぞっとしたのは化野の家で絵を見た時だけじゃなく、この家の中に散在する無数の絵を見た時もだった。

 山中に溢れ流れ出す金色。枝分かれして広野を走る金の流れ。金の蟲たちが、夜空の星に混じって見える風景。影のように折り重なる家々の屋根の上、空を見上げる沢山の人影の上にも…。

 けれどそれらの絵は、殆どものの見えない絵師の描いた、想像上の絵だった。金の川が深く暗い地中ではなく、人の暮らす現世に流れ、人と共にそれらの命が此処にある様。

「…あんたの絵。結構売れるんだろうな」

 妖しく、美しい絵。見知らぬ命の息づくそれらは、理由など分からなくとも、恐らく、多くの人の心に響くだろう。そんなふうだった時を、すっかり忘れてしまっていたとしても、皆、変わらずその命を持って、生きている。

「まぁ、お陰さんでな。噂で聞いたとか言って、求めに来るものは少なくないよ。俺一人暮らしていくには充分過ぎるぐらいにはなるから、有難いと思ってる、あんたにもな」

 雑多に置かれた画材の方へと、絵師は手を伸ばした。絵の具の幾つかを取って顔にずっと近寄せて、黒や藍、青や蒼の色、そうして白や黄の色にも深い笑みを浮かべる。

「さぁて、次はどんな絵がいいか」
「…それを俺が買ってもいいかね」

 と、ギンコは言った。

「あぁ、勿論だ。安くしとくよ。何しろ、あんたは恩人だからなぁ」
「…恩人って。いや意味わかんねぇし。安いのはありがたいけどな」

 魅入られ捕らわれて、現の光を失うかもしれなかった絵師は、ギンコのことを恩人だという。きっと、スイから色々聞いているのだろう。それともビキにだろうか。

「これから山一つ向こうに行くから、帰りにまた寄らせてくれ、その時、絵を受け取っていく」
「あぁ、待っているよ」

 










 本日は当ホームページ「LEAVES」の17回目の誕生日です。皆さまのお陰で今日まで頑張ることが出来ています。心よりの感謝を込めまして、お祝いのお話を書きました。前後編でしっかりと書き上がりましたので、続きもどうかお楽しみくださいませ。



2023.02.26