『 いのち の ひかり 』 後編
「スイ」
小さな畑に屈んでいた娘が、声を掛けられて立ち上がる。ギンコの方を向いた彼女は、両の目を閉じていた。
「その声、ギンコさん? また、来てくれたの」
「あぁ、とある絵師に、お前さんらのことを聞いたんでね。…目は、いつからだ?」
ガラクに聞いた話から、ギンコには分かっていた。そもそも、スイに目玉をやった時から、或いは、と思ってはいたのだ。何でもないことのように問いかけると、スイは柔らかく笑んだまま、傍らの岩を手で確かめて腰を下ろした。
「あれから、二年ぐらいは良く見えてた。それから段々見えなくなっていって、三年になる前にはすっかり。でもいいの。目の中に入れられた蟲にもやっぱり寿命があって、そう長くは見えていないって、私すぐわかったから」
話しながら、膝に抱えた笊の中のさやえんどうの茎を、スイは上手に折り取っている。
「ビキはがっかりしてたけど、見えなくなったお陰で私、一度は戻った家から出て、またあの蔵で暮らしているのよ。毎日、ビキやビキのお母さんと過ごして、楽しいことばかり」
「そうか」
そこまで聞いた頃、ギンコの姿を見つけたビキが、畑の離れたところから、猛烈な勢いで走ってきた。
「ギ、ギ、ギンコさん…っ。ス、っスイ…スイのっ、目のっ、あ、あのっ」
「いや、落ち着けお前」
ビキはスイが差し出す水を受け取り、ごくごくと飲み干してからこう言った。
「スイの目、また見えるように出来ないのかなっ」
「…何か、方法はあるかもしれんけどな」
「ビキ、私、このままでいい」
静かに遮るスイの声には、少しの揺らぎも無いのだ。生き方を、彼女はきっともう決めている。
「このままがいいの」
「でもっ」
「ビキやビキのお母さんには、迷惑かもしれないけど、もしそうなら、ひとりで暮らすよ」
「そんな話、してないだろっ」
気付けば、ビキの母親も来ていて、スイの傍らに寄り添う。二人を見て、他人にはとても見えないな、と、ギンコは思った。
「迷惑なんかじゃない。もうスイは私の娘よ。この子はしっかりしてるし、ビキよりも一人で出来ることが多いぐらい」
見えるうちから、見えなくなった時のことを思い、ずっと努力してきた姿を傍で見てきた。そうしてずっと家族として、ついていてあげたいと自然と思った。血の繋がりがあるとかないとか、そんなことは忘れてしまっていいほど、小さなことだ。
「本家から少し、援助もして貰えてるもの。助かってることしかないわ。だからスイ、気にせず、私の娘で居てね」
彼女はそう言い終えると、スイの膝にある、さやえんどうの笊を受け取って、遠くに見える家へと戻って行った。スイはまだ何か言いたげにしている空気を分かって、まるで見えているようにそっとビキの手を取る。
「また今度、光の川を見る?」
「う、うん、見たいっ」
「ほんのちょっとの間だけよ。約束、ね」
「うんっ」
ギンコは背中から木箱を下ろし、その上に腰を落ち着けると、目の前の岩に並んで座っている二人を見据えた。
「そのこと、絵師から話は聞いたぞ。スイ、まだあの川を見てるのか? 危険なことなのは分かってるだろうが、ビキもってのはどういうことだ」
「時々よ、ほんの時々、どうしてもあの光が見たくなるの。二つ目の瞼を閉じて、川の傍にいる時だけ、その光でビキの顔が見える。ビキは私とこうやって、手を繋いでいる時、私を通して光が少し見えるみたい。きっとあの日、同じ光を見たからね」
闇だけでなく、光をも共有することで、二人の間の何かがあの日から、ずっと繋がっているのだろうか。
「…なるほどな。くれぐれも、長く見過ぎるなよ。目が見えていようといなかろうと、いいことは無い」
「わかってるよ」
浅いため息をひとつ、ギンコが吐くと同時に、さあっ、と春の心地よい風が吹いた。畑の作物や、周囲の様々な生き物の命が、そこにあるのが分かる。
「そういやお前、スイかビキか両方か知らんが、ガラクに俺の話をしたんだろう。初めて会ったのに、恩人って言われたぞ。何を話したんだ」
ただでも礼を言われるのがむず痒いたちなのに、初対面でそれを言われると、身の置き所に困ってしまう。
「あったことを話しただけよ。一生、感謝してるって」
「…すぐ、見えなくなっちまったのにか?」
「数年でも、もしもたった数日でも、永遠みたいに大切なの」
見えたのは、確かにほんの数年だ。だけれどそういうことじゃない。恩人のその人に、それが伝わらなくとも構わない。あの光よりも、この世を愛しいと思えたこと。傍にある何かを大切だと思えたことは、何にも換え難い宝なのだ。
「僕もっ、感謝してますっ。凄くっ」
「そうよ、ギンコさん、ずっと忘れない」
「やめろ。もう行く」
礼には弱い。礼を言われるようなことをしていないと、ギンコは本気で思っているし、自分が他者からの礼を受け取っていい人間だとも思わないのだ。なのに。
「だめ。私が作ったお夕飯、食べて行って。そしたらもう日が落ちるから、一晩泊っていってね。あの蔵の一部を本家に作り直して貰って、よく日の当たる離れにしてあるの。其処にお布団用意するから」
目が見えなくとも、ちゃんと暮らしている。生きていけるのだと、スイはギンコに見せたいのだろう。閉じたままの彼女の瞼を、少しの間眺めてから、ギンコは諦めたように溜息をつくのだった。
「よぉ」
「よお、じゃないだろ。この野郎」
行って戻って、もう梅の季節は済んでいた。蕾の目立つ桜の枝の下を、ひょい、とくぐって庭に足を踏み入れると、医家は不機嫌そうに口をへの字に曲げている。
「ようやっと戻ったか。俺の絵を返せっ」
「まあ、そう急くなって」
絵の入った箱を木箱の中から取り出しながら、ギンコはまた茶を所望する。
「随分日差しがあったかかったんで、喉が渇いた。茶を入れてくれよ、化野。お前が入れてくれた茶は美味い」
「…ったくお前は。また居なくなるんじゃないだろうな! まぁ、いいっ。待ってろ!」
何やら甘えられたような気がして、化野はふわふわとした気持ちになった。こんなギンコは滅多に見ない。何にかいいことでもあったのか。それを今から話してくれるのだろうか。
急いで茶を入れ戻ってくると、ちゃんとギンコは待っていた。そして借りて行った絵は、箱から取り出され広げられている。
「ほれ、お前の絵。喜べ、これは確かに『蟲を描いた絵』だったぞ」
「そうかっ。もしかして描いた絵師に会ってきたのかっ。ど、どんな人物だった。どんな話を聞いてきたんだよ」
蟲煙草の煙をくゆらせながら、ギンコは絵師のガラクのことを化野に話した。前に話した時は詳しくは言わなかった、金の川のことを、彼はもう一度化野に語って聞かせる。化野は、畳の上に広げられている絵を、ずっと見詰めながら聞いていた。
「いつかその川が見たいなぁ」
「見たいか、そんなに」
「あぁ、見たいとも。無理なんだろうけどな…」
焦がれた目をして、落胆の滲む声をして、化野は言うのだ。
「また随分、惚れ込んだもんだ」
何気ない口調でギンコは呟くが、スイも、ビキも、絵師のガラクも、金の川に惹かれてやまない。ギンコもそうだ。美しい、無数の命の流れ。かつては己もそうであったものたち。
「土産があるぜ。気に入るか分からんが」
「おぉ、見せてくれ」
取り出されたもう一つの箱。ギンコはその蓋を開けて、丸められていた絵を開く。地下を流れる、命の光。見ていると、そのまま飲み込まれてしまいそうな、あまりにも美しい絵だった。それを見た化野の目に、ゆっくり微かな涙が滲むのをギンコは見たのだ。
「気に入ったかい」
「…あぁ」
「流れている本物、じゃないけどな」
「いいんだ。充分だ…」
触れようとして伸べられた化野の手が、触れることも出来ず宙で止まっている。その手に俺が、触れたらどうだろうか、とギンコは思うのだ。そして二つ目の瞼を閉じたなら、スイがビキにそうしているように、化野と共に、金の流れが見られたりするのだろうか。
でもなぁ。試して、結局見られなかったら、
これ以上はないぐらいに、しょげかえるんだろうよ。
だから、やめておく。と自分に言い訳しながら、ギンコは何もせずにいた。もしかしたらと思う癖に、それが出来ない自分を、臆病で我儘だなと何処かで思っている。
お前には此方に居て欲しい。
これ以上、
向こうに足を踏み入れられるのが、
俺は怖いのさ。
「美味いな、この茶」
「ん…。あぁ、そりゃ…よかった…」
まったく、見事に上の空で、化野が答える。
海里には、心地よい春の風か吹いていた。空は優しい淡い青。地面からは幾多の草が伸び、葉を広げ、日差しを浴びていた。そのずっとずっと下に流れている命の川。それを化野はその目で見られないけれど、それでもきっと魂の何処かで常に感じてはいるのだろう。
それだけで、嬉しいじゃないか。
あぁ、本当に。
それだけで。
終
ここまで読んで下さいまして、本当にありがとうございました。今日からまた新たな一年を刻みながら、書き続けていきますので、応援、どうぞよろしくお願いします。蟲師、永遠に語り継がれるべき、最高の物語ですよっっ!
2023.02.26