紅 鴉    五






 どんなにしても開かない戸の外で、鴉の声が引っ切り無しだ。しかも普通の鳴き方じゃない。ギャア、ギャアと、どこか苦しげに鳴き続いていて、時折なにかが落ちるような音がする。

 ばさばさと、狂ったように羽ばたく音と、細かな枝が折れる音とがして、その後、木々の間にどさりと何かが落ちる。

 ギンコの目はズキズキと熱を持って、痛くて痛くて堪らない。ずっと戸に肩を打ち付けていたが、そうすることも出来なくなって、どさ、と床に体を転がした。背中を丸め、後ろに括られた腕をどうしようも出来ず、痛む目の傍の額を、無意味に床に擦り付ける。

「ぅう、あ゛…」

 化野、俺の目はもうすぐ見えなくなる。目が見えなくなって、お前の姿が記憶の中にしかなくなったら、その姿を俺は、段々忘れるんだろうか…。あぁ、声が、聞きてぇ。声と記憶を、心ん中でひとつでも多く結び付けときゃ、また声を聞いた時、頭の中じゃ、ちゃんとお前が見えるんじゃないかな。

 視野を失くしたら、化野の姿だけじゃなく、何もかも見えなくなる。蟲が見えなくなるんだ。そんなふうになっても会いに来ていいなんて筈はないけど、今は考えない。このままここで飢え死にする可能性も、考えない。

 ばさばさ、どさり。また外の山の中で、鴉が一羽地に落ちた。なぁ、コウ…? お前にとって、鴉は仲間なんだろうに。こんなことになってて、後で自分を憎んだりしないのか?

 

 胸を破りそうな心臓の音、喉を焼きそうな息の音。そんな音を聞きつつ歩く化野を、紅烏が見下ろしながら言った。
 
「少し、話を聞かそうか、先生」

 暗い山中を散々歩いて、化野は何度も転んだ。行燈も提灯も持っていない。足元は勿論、目の前も良く見えないまま、紅烏の声に答えたとも思えないことを、化野は言う。

「ギンコはっ、どこにいるんだ。何があったんだ…っ」
「何って、あんまし良くねぇことかなぁ。今頃、苦しくてのた打ち回ってるかもしんねぇよ、それとも苦し過ぎて意識がねぇか」
「…なんでっ、あんたがそれを知ってるんだ…?」

 根拠もないのに疑うのは良くない。紅烏のしたことなのだと、分かりもしないのに、そう決めるなど駄目だ。思いながら、闇の向こうに見える紅烏の笑い顔を憎みたくなる。ギンコはあんたの友人の筈なのに、そんなことをどうして笑って言うんだよ。どうしてそんなに、楽しげな顔をしてるんだ。

「そんな怖い顔すんなよ。昔の話をしようか、先生、なぁ?」


 俺は蟲に憑かれて里を追われた、駆け出しの蟲師で、
 ギンコは蟲を寄せるんで、どこ行っても疎まれるガキ。
 似た境遇だったから、俺らは一緒に旅してたんだ。
 ある時、俺がさ、具合が悪くて腹も減ってて、
 死にそうになったんで、蟲払いの仕事をしたんだよな。
 ギンコが良くないタチの蟲を体に寄せてさ、
 それを体の弱い病人とか赤ん坊とかに憑けて、
 そんで俺が行って、うまいことそれを払う。
 褒められてさぁ、飯や寝床が貰えて楽な仕事だよ。


「そ、それをギンコが、進んで…?」

 思わず、化野は口を挟んだ。まさか、と思ったが、頭から嘘だとは思わなかった。人間は、極限まで餓えた時、犯してはならない道徳を忘れる。子供だったなら尚のことだ。紅烏はそれへは返事をしなかった。

「……でも結局バレてさ、死ぬほど殴られて意識が飛んで。ギンコともそれっきり。先生に話聞いて、さっき偶然本人に会うまで、生きてるかどうかも知らなかった。元気そうだったなぁ、幸せそうだったよ、おかしなことになぁ」

  
 だって、最初から、俺らは外れもんなんだ。
 日の翳った、じめじめ暗いとこで生きてく巡り合わせで。
 なのに、ギンコは明るいとこに出れたって言うだろ?
 そんで一人だけ、面白おかしく生きてるって言うだろ?
 そんなのはずるいんだって。いい思いのし過ぎだって。
 だから俺が、こっから先を貰うことにしたのさ。 


「…何を、言ってるんだ…?」
「何って。さっきも言ったろ? これからギンコの代わりに、あんたは俺を大事にすんのさ。あいつのこと待つみたいに、布団や喰いもん用意して、俺が来たら嬉しそうに出迎えて、きれいな風呂を使わしてくれて、里人みんなにも、これからは俺がギンコの代わりだって言ってくれてよぉ…」
「俺が、そんなことをするわけが…っ!」

 土を掴んで、傍らの枝を掴んで、化野は立ち上り、紅烏へと掴みかかった。古くて汚い着物の襟を掴んで揺さ振って、後ろの木の幹へと、紅烏の背を打ち付けた。二度、三度と紅烏はされるままになっていて、そのあとにいやりと笑ったのだ。

 伸ばした腕で化野の襟を、仕返すように掴んで、顔を寄せ…。

「いいのかい? ギンコの命は俺の手ん中だ。あいつが一個きりの目を失くすか、命ごと失くすか、ただ、立場だけ俺に譲るか、どれかを選ぶのは先生でもあいつでもねぇよ、俺だけだよ」

 告げられた途端、化野は顔を歪めて泣きそうな眼をした。千切れそうな理性が、それでも不思議なことを思っていた。

 コウ…。
 あんたは正気で、
 そんなふうにしてもらえると思ってるのか?
 してもらえたとして、
 そんな暮らしが、ずっと続くと思うのか?
 あんたは、本当は何もかも分かっていて…。

「…わかった。これからはあんたを、ギンコの代わりに大事にする。でも、今まだ俺は、ギンコのことが一番に好きでなぁ。だからせめて、早く会わせてくれないか…」
「ほんとうかっ? 本当に先生、俺を大事にしてくれんのか?美味い飯も寝床も風呂もっ?」
「あぁ、嘘は言わんよ。でもギンコが目を失ったり死んだりしたら、一生あんたを呪うよ、死んでもずっとあんたを呪う」

 淡々と、淡々と告げられた最後の言葉の殆どを、紅烏は聞いてもいない。まるで子供のように嬉しげにして、無邪気に笑い、子供のように化野に抱き付いた。化野はびくりと震え、体を強張らせ、それでもされたまま、軽く紅烏の背なを撫でた。

 一瞬聞こえた嗚咽のような声は、空耳ではないのだろう。紅烏はすぐに化野から離れ、暗がりで殆ど見えない道の先を指差した。

「先生、こんな暗い中こんな山道、疲れたろうなぁ。そこの洞のある木の向こうだよ。木こりか何かが使ってた小屋があって、ギンコはそこにいる」
「…っ、ギンコ…!」

 あぁ、漸く会える。怪我なのか病なのか分からないが、少しでも楽なようにしてやれる。焦って、治療の道具も何もないが、傍で声を掛けてやって、痛むところに触れてやるだけでも、何もできないよりどれだけいいか。

 見えた小屋は小さくて、古くて、今にもぺしゃりと潰れてしまいそうに見えた。まろびながら駆け寄り、化野は扉と思しきところを探し、周囲を回って、枯れた枝だとかなんかを寄せ掛けられて、隠れている扉を見つけた。

 必死でそれを退けると、太い閂が掛かっていて、その閂には荒縄がぐるぐると巻かれ、簡単には外れそうにない。ギンコが苦しんでいると分かっていて、誰が、こんな。紅烏に決まっている。怒りが渦を巻いたが、振り向かずに化野はギンコの名を呼んだ。

「ギンコ…っ。居るのか、ギンコ!!」

 返事は暫しない。胸が潰れそうな思いがした。なんとか手で縄を解くことを試みながら、もう一度呼ぶ。

「ギンコ! 俺だぞ、化野だ。大丈夫か…っ」
「……ぁ…あだしの…」

 か細い声が、聞こえた気がしたが、何やらあたりが煩くてよく聞こえない。その時になってやっと、ずっと聞こえていたものが、化野の耳に入ってきた。それは鴉の声だ。重なり合い、響き合い、延々と続く、濁った泣き声。

 ぎゃあ、ぎゃあ、と、苦しげに。

 それから何かが枝から落ちてきて、土の上にどさりと落ちる音がする。ばさばさと乱れた羽の音が、何かが落ちる音の前には必ず聞こえていた。

 あまりに不気味で、思わず化野は振り向いて、そうして見たのだ。そこにぼう、と立っている紅烏の姿と、その足元に、その後ろにも、無数に落ちている黒い鳥の骸たちを。生きた鳥から命の無い骸へと変わり、一羽、また一羽と、落ちてくる鴉を。

「化野、化野なのか…?」
「あぁ、俺だよ、大丈夫か? 目は? 体は?!」
「…大丈夫だよ、何言ってんだよ。お前こそ…、こんな遅くにこんな山奥来て、何なんだ? さっさと帰れ、家に急患きてるかもしんねぇぞ? 早く、帰れ…っ」

 切れ切れの…声。精一杯、普通の声で言おうとして、ちっとも普通などじゃない、荒い息を合間に挟んだ、擦れた声。

「お前ひとりか? 傍に…誰かいるだろう? 俺のことはいいから、お前は自分のことだけ考えろ。いいか、化野。……なぁ、もう一回、名前、呼んでくれ。呼んだら帰れ…っ」
「…ギンコ、馬鹿、お前こそ自分のっ」

 言い掛けた化野の言葉に、ギンコの声が重なった。

「コウ…っ。いるんだろうっ、早く蟲を止めろっ、その目を覆えっ。でないとお前も、鴉たちと同じことになっちまうっ」

 既に蟲は暴走している。体の小さな鴉たちは、身に巣食う蟲が増えすぎて、それに堪えられなくて死んでいくのだ。大元の蟲の本体を、目に宿らせている紅烏だとて、いつまでも無事な訳はない。ギンコはその蟲に憑かれたばかりだから、命までは取られないかもしれないが…。

 紅烏は鴉たちの骸の傍に、膝をついて座っていた。その周りは黒く覆われ、紅烏の、真っ赤だった眼窩の中も、今や黒く染まり掛けている。

「俺にゃ先生がいるから、大丈夫だよ、ギンコ、お前、相変わらず優しいよなぁ。ほんとに変わってねぇんだなぁ」

 夢でも見ているように、紅烏は言った。

「何言ってんだっ、コウっ。化野は普通の医家だ、蟲患いなんか治せるわけないだろう! 診せるんなら俺にっ」
「うるせぇっ、俺はっ、コウじゃねぇよ…ッ、コウウだ…っ」

 泣き叫ぶような、声だった。















うわぁ、夜読むと、ちょっと怖いかもしれませんね。あと、鴉や鳥の好きな方ごめんなさい。動物が死ぬシーン辛い方ごめんなさい。紅烏も可哀想、ギンコも化野も可哀想っ、ごめんなさいっ。

ってことで、5話ですっ。きっと6話で殆ど決着ついて、7話で終わりますよー。どうしてこう短く書けないんだろうね?



13/08/04