紅 鴉    六






 今宵の山の、闇は濃い。

 暗がりに滲む笑い顔のような、だけれど泣いている紅烏の顔。ギンコに向けて、狂ったように叫んだあとは、化野へと、笑んだ響きの悲しい声を。

「なぁ、せんせぇ…帰ろうぜ…? もういいだろう、そいつのことなんか。次は俺だって、さっき言ってくれたじゃぁねぇか…。大事にしてくれるって…。なぁ、せんせぇ…」

 ばさ、ばさり。黒い塊が枝から落ちてくる。紅烏の傍に、彼の体をかすめて。その足元に、重なるようにして落ちている。まだ息のある鴉もいるのに、紅烏は足元など見ていず、下手をすると踏み拉き、邪魔なもののように、蹴り…。

「わかった…。でもその前に、ギンコをここから出してくれ。医家として、診んわけにはいかん、俺は…」

 ギンコをこのままにして帰るなど、そんなことは出来ない。言い掛けた言葉に被さるように、ギンコの苦しげな声が言う。

「あだし…。俺、は…、だいじょうぶ、だから…。コウ、を…」
 
 声が途切れ、壁の向こうに寄りかかっていた体が、ずる、と下に滑る。そんな音がして、化野の心臓は跳ねた。

「ギンコっ?! ギンコっ。どうしたんだ返事をしろっ」
「……だい、じょ……」

 それきり、もう声が聞こえない。化野は狂ったように、小屋の戸を叩いた。閂に手を掛け、そこに巻かれた縄に爪を立て、無駄と分かりつつ足掻き、そうしながら叫んだ。

「ギンコっ、ギンコッ!」

 返事はもう無くて、化野は紅烏へと叫ぶ。

「…コウっ、さっきの約束は反故だ…っ。俺は、こいつ以外のやつを想うなんて出来ないっ。ましてやギンコにこんなことをするヤツなどっ。目を潰すというなら俺の目を潰せ…っ。誰かを死なすんなら、まず俺から殺すがいい…っ!」

 その一瞬、何か空洞をでも見据えているような目で、紅烏は表情を変えなかった。その後、じわじわと顔を歪め、食い縛った歯の隙間から濁った声を零し、彼は…。

「ぁ…ぁ…。あ゛ぁ…っ。ぁあ゛ッ!」

 唐突に、紅烏は濁った嗚咽を放った。両手で顔を覆い、その指の間からは黒いどろどろとしたものが、零れてくるのが見える。まるで、彼へと叫んだ化野の声が、矢となって紅烏に突き立ったかのようだった。そして、耳を裂くような、鴉の声が。

 ぎゃぁあ、ぎゃぁぁあ…ッ

 山に木霊していた無数の鴉たちの声も、より一層狂ったように大きくなり、枝に止まっていた一羽が、バサバサと羽ばたいて化野の方へと真っ直ぐに…。鋭い爪が化野の顔へと向けられて。化野は、黒く尖ったその爪を見ていた。

 …いいさ、お前を守るためなら、本望…だ 

 呟いた声は、多分、誰にも聞こえてはいない。けれど、見開いた化野の目を潰すものはいなかった。その命をとるものもいなかった。誰かがその時、何かを繰り返し叫んでいた。

 化野へと真っ直ぐに飛んできた鴉は、寸前で逸れて、どこかへ飛び去って行く。他の鴉の声は、一切がその一瞬に掻き消え、黒く敷き詰められた鳥たちの屍に抱かれるようにして、紅烏が倒れ伏していた。

 駆け寄り、うつ伏せの体を起こせば、赤い穴だった眼窩は、そこにあるものをえぐり出したように、何もない空洞。

 化野はその懐を探り、小刀を見つけ出して、小屋の閂の縄を切り、戸を開けた。ギンコは入口の傍で倒れ、気を失っていた。もしかしたら、ギンコの目も紅烏のように、と、そう思い震えて覗き込んだが、涙の跡が頬にあるばかりで、どうともなっていなかった。

 勿論、ちゃんと息もしている。背中で腕を縛った縄を切り、取り払い、化野は出来る限り加減しながら、それでも強くギンコの体を抱き締めた。重ねた胸で感じ取れる鼓動が、この世で何よりも嬉しいものに、思えた。 

    

 
 鳥の囀る声が聞こえる。風と波の音も…。
 
 眩しさに呻きながら、目を開けて見た視野には、淡い木目の天井が、ぼんやり。寝かされた布団は上等で、着せられた着物も綺麗で、頭に巻かれた布は自分で見えないが、きっとこれ以上ないほどの、清潔な包帯。

 けれど、心は酷く空虚だった。

 もう一度強く目を閉じた視野に見えるのは、どろりと澱んだ暗がり。木々の枝から、次々に落ちてくる鴉たちが見える。ばさり、どさりと、地面に音が響いていた。苦しげに鳴き、乱れるように羽ばたき、飛ぶことも出来ずに次々落ちて、死んでいった鴉たち。

 片方の目玉はもう、失ってしまったと分かるのに、両方の目から涙が滲むのが分かった。今更泣くなんて、それだけでも八つ裂きにされそうな、非道いことをした…。

 俺は全部を失っちまった。最後の一つが鴉たちだったってのに、得られる筈の無いもんを欲しがって、自分の仲間を殺したんだ。きっと全部、殺しちまった。あぁ、そうか、今俺が生きてるのは、あの先生とギンコの復讐なのか。苦しんで生きろ、と…。今まで以上に地を這いずって、恨まれ、厭われ生きて行けとでも。

「おぉ、やっと気付いたのか」

 前と何も変わっていないような、これはあの先生の声。耳を疑った。そんな筈はないと。

「まったく、無茶をするもんだ」

 これは、ギンコの声だ。疲れたような響きだが、それでも何も変わらない。いっそ罵って欲しいと、心の中で思った。

 だってもうギンコは俺を友とは思わないだろう。先生はただ、医家の仕事だから診ただけだろう。誰も進んで俺のことなど。返事もせずに、ただ残る片目を開けずにいて、そうしたら、誰かが俺の腕を尖ったものでつついた。

 痛かった。まだ人がましく、痛みを感じる気持ちがあるのかと、そんなことをぼんやり思う。また先生の声がした。

「大丈夫そうなら、ゆっくり目を開けてみてくれ。頬も傷ついてるから、ちょっと引き攣れる感じがするとは思うが、ちゃんと見えるかどうか教えてほしい。左はどうしようもないが、右はなんとか…」

 次にまたギンコの声。

「化野に聞いた時は、酷ぇと思ったよ。まったく、酷いことをするってな」
「………」

 罵るにしては、優しい響きだ。きっと聞き間違いだろう。

「…覚えてねぇかい。お前、鴉たちの暴走を止めるのに、自分で自分の目を抉ったんだぜ」

 信じられないことを聞いた気がした。あんなことをしておきながら、今更どうして、自分が、そんな。償いのつもりか。なんとかそれで許される気でか。そんなことは無駄なのに。

「ったく、やるにしたって左だけでいいものを、右までちっと、眼球に傷が入ってるとさ。…ま、見えにくくはなってても、なんとか見えるだろうって、ここな医家先生の診断だがね」

 そして、ギンコは言ったのだ。またきっと聞き間違いだと思った。そんな言葉が、夢の中でなく、聞ける筈がないと。

「とにかく、生きててくれてよかったよ。あんた、あの時と同じことを叫んだろ。逃げろ、逃げろってさ。覚えてないかい? それで思ったんだ、コウは変わってねぇんだなって」
「…お…覚えて…るさ…」

 何を言われたのか、一瞬分からなかったが、それでも遠い記憶が、ひたひたと戻る。あぁ、あれは全部俺のせいだった。俺のせいであんなことになったのに、お前は諦めたみたいで逃げそうになくて、とにかく逃げて欲しくて、叫んだんだ。逃げろ、逃げろ、走れ…!

「だって、逃げて、お前だけでも助かって欲しかったから」

 やっと開いた視野に、何か黒いものが居た。小さな黒い丸い目で、じっと俺を見ているのは、見慣れた黒い鳥だった。頭に怪我の名残が、まだ少し。そいつは「がぁ」とひと声鳴いて、俺の耳やら鼻やらを、随分そうっと静かにつついた。

 お前だけでも…助かって…。

 見えなくなった左の目からも、無事だった右の目からも、ぼろぼろと涙が零れた。



 
 そしてそれから、三日が過ぎて、ギンコは縁側で言ったのだ。廊下を挟んだすぐ傍の部屋で、まだ横になって養生している紅烏の耳に、その言葉が届く。それへ返事をしている化野の声も。

「さてと、そろそろ発つよ、俺は」
「やっぱりか? だろうと思っていた」
「まぁな、例の蟲は離れたんで目はすっかりいいけど、余計な蟲は寄ってきてるし、いつもの通りで、しょうがない」

 ギンコはちらり、紅烏を見て、寝た振りしているのをわかったうえで。あいつを頼むな、とそう言った。それへ返事の、化野の言葉。

「あぁ、勿論だとも。お前の友なんだからな」

 黙って居られなくて、紅烏が必死に身を起こす。その胸に止まって、どうも寝ていたらしい鴉が、ぴっくりしたように飛び立って、庭の木の上に下りた。

「こらこら、まだ起きるな。眩暈がする筈だぞ」

 また穏やかな化野の声。

「またな、コウ」

 僅かに振り向いた、ギンコの笑み顔、静かな言葉。「コウ」と、変わらずに呼ぶ声が胸に沁みる。紅烏は言った。泣きそうな気持で。

「お前、怖くねぇのか、お前の大事な大事な先生に、俺がまた何かしたらとか」
「…怖かねぇなぁ。こないだも言ったろ、あんたは変わってないからさ。とにかく、さっさとなおせよ、怪我と…その僻みっぽいところもだぜ?」

 そう言って、ギンコはすぐに背を向けて、化野と紅烏とに手を振り、坂を下って旅へと発って行ったのだった。暫しその背中を眺めてから、化野は紅烏に茶を入れた。すぐそばに膝を付いて、湯呑みを差し出す化野の顔を、まじまじと眺めて紅烏が問う。

「先生は、恨んでねぇのかい…?」
「…ん? 何が? あぁ、そうだ、ギンコが発ったら、頼みたいことがあったんだがな」
「お、俺で出来る事だったら、何でもっ、何でも言ってくれ!」

 償いをさせて貰えるなら、どんなことでも。辛いことでも、苦しいことでも、なんだって…!

「あんたは子供の頃のギンコを知ってるんだろう。教えてくれないかなぁ、知りたいんだよ、ちょっとしたことでもいいから」

 身を乗り出すようにしてそう問われ、紅烏は呆け、そして軽く吹き出した。びっくりして、拍子抜けして、それからやっぱり羨ましかった。それでもそれは、ほんの少しだけだ。自分も案外恵まれているのだと、今は自然に思えているから。

 庭木にとまって鴉が鳴いた。高い空で、別の鴉が返事をする。死なせてしまった鴉たちを、弔わなければと思った。取り返しがつかないことでも、出来るだけの償いはするのだ。許して貰えなくても、変わりなく。

 それからまた、這ってでも生きていく。自分で自分なりの「幸」を見つけて、この世の隅っこでいいから、生きていこうと、思った。






 






 
 あら、あと一話あるかなーと思ったのに終わってしまった。あるぇ? まぁ、いいか、書き漏らしていることはないように思います。コウの本当の名前は、コウという音で「幸」。コウウ(紅烏)ってのは、彼を疎んじた人たちが勝手に付けた呼び名ですね。

 彼はギンコと一緒に居る時「お前は俺のこと『コウ』って呼んでくれよ」って言ってたんだと思います。あまりに卑屈になり過ぎて、その名前すら忘れていたのが、悲しいと思いますよ。

 もっとどす黒いラストを思っていたんだが、そうはならんかった。コウのことが気に入ったせいと…やっぱりバッドエンドは少し苦手でなんです〜。たまに書くけどw それでは読んで下さいまして、ありがとうございましたっ。
 

13/08/16