紅 鴉    四






 闇の中で紅烏の赤い目が、どろりと濁った色になる。ギンコは目を開けられず、その目を見ることが出来なかった。ただ、苦痛は増し、意識は途切れていく。ざざ、と木々が鳴っていた。

 なぁ、ギンコ。
 もう貰い過ぎたぐらいだろ?
 どうせ抱え切れやしねぇんだから、
 残りは俺に、くれりゃあいいよ。




 雨戸を閉めている途中だった。垣根の外で、ぱきり、と枝を踏む音がして、化野は無意識に声を放つ。

「ギンコかっ?」

 開け直した雨戸の向こうに、立っていたのは紅烏、だった。頭へ撒いた布は、薄汚れて古びたあの布のまま、それが乱れて解けかけ、肩や首のあたりに纏わりついている。

「…悪いねぇ、こんな…時分に」

 聞き取り難く掠れた声で、紅烏は言った。うっすらと、笑いが口元にある。

「先生。気が変わったんで、やっぱり目を見てくれねぇか」
「あ、あぁ、勿論、診るが。じゃあ…上がっ…いや、そこへ座ってくれ」

 上がれ、と言う言葉が、どうしてか喉奥に引っ掛かった気がした。何か、警告に近いもののような気がして、奥の間まで通さず、縁側へと座らせ、手当ての道具とぬるま湯と、清潔な布を持ってくる。紅烏は体を斜めにして、化野のしていることをずっと見ていた。

 目の前に膝を付き、薬箱を開け、ぬるま湯に布を浸すその手や、指を。そして自分を見る眼差しを、間近からじっと、真っ直ぐに。

「丸二日はたったが、その間ずっとここいらに…?」
「あぁ…。俺は人里が苦手なもんでね。山ん中で野宿しながら、これからどうすっかなぁ、って思ってたのさ。俺なんかのこと、受け入れてくれる場所なんか」

「どうして、こんな」

 紅烏の言葉を遮るように、化野がそう言った。彼の頭に巻き付けられていた布を、丁寧に解いていた手が止まっている。

 解いた布は黒く染まっていた。けれど血の変色した色ではないようには、最初から思えていた。露わになった紅烏の片目は、閉じられておらず開いたまま、赤い澱んだ血溜まりのように見えるのだ。こんなものは、見たことが無かった。

「酷いかい」

 いっそ楽しげに、紅烏は言った。声には明らかな笑みが含まれている。

「ついさっき、随分無茶をしたもんでなぁ」
「…それは、いかんな」

 何かがおかしいと、異様な空気を感じながら、化野は医家として出来る限りのことをする。傷なのかどうか分からないままでも、紅烏の目を濯ぎ、膿んで滲んでくるようなものを拭き取る。赤いものを拭き取っている筈なのに、布は黒い色で汚れた。

「俺で出来るだけのことはするが、これは…病や怪我とは違うように見える。…もしや、蟲の影響とか…」
「あぁ、蟲なぁ。よく分かるな、先生。その通りさ」
「…治療は」
「してねぇよ。こぉんな小せぇガキのときから、ずっと俺の目に住んでる蟲さ。追い出せやしねぇし、それに、ここっきゃ行き場のねぇ蟲だぜ。可哀想だろ、誰かが受け入れてやんなきゃぁ」

 淡々と、やっぱり笑いながらそう言った、紅烏の目元に触れながら、案じているような、優しい化野の声の響き。

「…言ってることはわかる。分かるが」
「分かるかい? それじゃぁ先生。あんた、他に行くとこのねぇ俺を、あんたのとこに置いてくれるか? あいつにそうするみてぇに、これからは俺を大事にしてくれるかい? もう来れねぇギンコの代わりにさ」

 歌うように、楽しげに、紅烏はそう告げたのだ。一瞬、意味が掴めなかった。

「今、なんと…?」
「…さぁ、なんて言ったろうなぁ。でも、最後にいっぺん、声だけなら聞かせられるよ。聞きてぇだろう」

 もう 来れない。
 最後に いっぺん。

 どちらも不吉過ぎる言葉だった。どういう意味かと、問い質す筈の化野の声が、喉を締められたかに出てこない。紅烏はすくりと立ち上がり、目の前にいる化野の体を吐き転がした。膝に抱えていた薬箱が引っくり返り、縁側から転げ落ちた薬瓶が、庭石にぶつかって、ぱりんと音を鳴らす。

 紅烏はそんな化野の姿を、笑ったままで一瞬見下ろし、そうして山道の方へと逃げた。勿論、化野は後を追う。元々が旅に暮らす紅烏と、夜の山中になど慣れぬ化野のこと、追い縋るのなど殆ど不可能に思えた。けれど紅烏は、化野が転んだりすると足を止め、笑った顔で振り向く。

 紅烏は、逃げるつもりなど無いのだ。でも、足を緩める気になどなれなかった。ギンコが何故、もう来れないのか。何がギンコに起こったのかと、そればかりを必死で考えていた。

 


 ギンコは暗がりの中で、意識を取り戻していた。

 変わらず目が開けることもできず、鼓動するような痛みに苛まれている。横にされたまま身動きしようとして、両腕が背中で一つに縛られていることはすぐに分かった。寝返り打って、手に触れるのは土や草ではない、湿ったような木の床。

 人の匂いは薄く、その代わりに黴たような匂い。多分、どこかの山小屋だろうと思った。叫んだとしても届く耳は近くにあるまい。縛られたうえ、空家に投げ置かれているということか。

 紅烏がしたのだ。そう思いたくはないが、それしか答えはなかった。それどころか蟲の毒で目をやられたのも、紅烏のしたことなのだと。

 どうして、と、純粋に思う。

 目が見えなくても、たった一言の声だけで、お前が分かるほどなのに。それだけ案じていたのに、あの時の、あの不幸を越えて、こうして生きていてくれた、と、ギンコは本音で嬉しかったのに。

 どうして、なんで、こんなことを。

「コウ…」

 と、ギンコは彼の名前を呼ぶ。コウウ、ではなく、コウ、と。お前は違うと言ったが、違わないだろ。お前の方こそ、忘れたのか? お前の本当の名前、親からもらった名前は、コウ、なんだって、言ってたじゃないか。

「い、てぇ…」

 ずきり、ずきり、と目が痛んでいる。ひとつきりの大事な目だ。蟲の毒に侵されて、あとどれだけ治療できずにいたら、永遠に光を失うのか、ギンコには分からない。

「…なんとか、しねぇと」

 幸い、と言えるかどうか、足は縛られてはいなかった。苦労して身を起こし、何も見えない中で立ち上がって、ギンコはその建物の中を歩いた。

 やはり、ごく狭い小屋のようだった。歩くとぎしぎしと板が鳴り、すぐに壁に突き当たる。戸がどこにあるのか、壁の方へ背を向けて、縛られている手で触れて探していく。戸らしきものは簡単に見つかったが、肩で押しても開く気配は無かった。

 ひとつ息を吐き、一、二歩離れて、ギンコはそこへと体をぶつけた。何度も何度も、肩からぶつかり、体当たりで戸を開けようとした。振動が体に響くたび、最初から痛んでいる目に、何かが刺さるかのように痛む。気が遠くなるのなど一度ではなかったが、何もせずになどいられなかった。

 もう一つきりの目を、失うわけに行かないからだ。どこかへ行ってしまう前のあいつが、言っていた言葉は、途切れ途切れにだが聞こえていた。


 貰い過ぎたぐらいだろ?
 俺に、くれりゃあ。

 と。


 何のことなのか、分かる気がしてしまう。化野の顔が脳裏にチラついて、ギンコは小さく、震えた。












 難航しております。だから間をこんなに開けちゃだめなんだってばぁぁぁっ。次回こそ、も少し早く書きますよ。その次回は凄く書き難い部分だと思っております。が…がんばる、ぉ…。


13/07/28