紅 鴉    三








「まだ居てくれていいのに」

 その言葉を聞きながら、紅烏は背中に木箱を背負う。久々に野宿じゃない夜で、人らしい食い物が食えて、そのうえ風呂まで貰って、こんな贅沢味わっていちゃぁ、この先の暮らしが辛くならぁ。そんなふうに紅烏が言うと、化野は困ったふうに無言になった。

 ほらなぁ、ずっと居ていい、とは言わないんだろ。でもギンコになら、その言葉を何度だって言ってるんだろ。生憎あいつは俺よりもっと、一つ里に居られない身だけどな。


 イイ気味…ダ…。


 心の奥に浮かんだ醜い思いに、紅烏は歯を食い縛る。何で俺だけと、どうしても思ってしまう。あいつも俺も同じ罪を背負ってる筈なのに、ギンコがそうで、俺はこんなか。ずっと死ぬまでこんなか。明るい日向から逃げるように、山中で鴉とだけ慣れ合う一生で。

「ギ…ギンコが来たら、よろしく言ってくれ。お前がどうして暮してるか分かって、嬉しかったと。俺も達者でやっていると、あんたから告げてくれるかい」
「あぁ、勿論だ。コウさんも、また近くへ来たら寄ってくれ」

 コウさん、じゃねぇよ。コウウだよ。でもどうせあんたは俺の名なんて、三日も立ちゃあ忘れるんだろう? 本当の名を忘れられるぐらいなら、聞き間違いの名の方がまだマシだ。

 紅烏はまた、いつもの暮らしへと戻って行くしかない。常に人里を避け、陰の多い山中ばかりを歩き、黒い鳥たちを集めては、話し掛けて孤独を紛らわす。餓えれば地蔵の供え物を頂戴したり、それもなければ、人家で盗みを働くこともある。

 時々は優しい人がいて、痩せた紅烏に何か食べ物を巡んでくれる事もあったが、それを有り難いと思う気持ちよりも、妬ましい、どうして俺はこっち側で、そちら側じゃないんだと思うばかりだ。

「なぁ、お前らも。そんな黒い不吉な姿より、綺麗な姿がよかったと思うんだろうな。真っ白とか、もっと色鮮やかなのとか、幾らでもいるのに、どうしてこんなのなんだと思うんだろうな」

 紅烏がそう話し掛けると、傍の枝にとまった鴉が、かぁ、と鳴いた。そうだな、と言ったのか、そんなことはないと言ったのか、本当は紅烏にだって分からないけれど、分かったふりして彼は笑った。

「…そうだな、俺も辛いけどお前らも大変だ。なんで自分だけこんなだ、って思いながら、それでもちゃぁんと生きてるんだもんなぁ。だったら俺も、なんとか生きてく……」

 山道から外れた繁みの中で、そんなふうに呟いた紅烏の視線の先を…。ずっと先の道を、白いものがちらりと横切った。明るい日の光を浴びて、その光を柔く反射しながらだった。見えたのは一瞬だったけれど、紅烏には分かった。


 ギンコ …

 
 屈んでいた身を起こし、紅烏はその姿を目で追う。草木の向こうに見え隠れしながら、ギンコの姿は幾度も彼の目に映った。別に裕福そうでもなんでもない姿なのに、満ち足りて、嬉しげにしているように思えてならなかった。

 お前、今からあの里に行くのか?

 あの先生んとこに行って、立派で綺麗な着物を着せてもらって、あったかくて贅沢な食い物を食わして貰うんだろ。それから風呂にも入って、柔らけぇ布団に寝て、あの先生に心から喜んで貰うのかい。

 もっと来てくれ、ずっと居てくれ、と、あの先生に言われて、里の人たちからも言われて、極楽みてぇな思いをするんだな。俺が死んでも貰えねぇいいものを、当たり前みたいに、お前だけが、沢山貰うんだよなぁ。

「ぁ…、あ゛…」

 くぐもった声が喉から滲み出て、布で覆った下の右目が酷く痛んで、紅烏はその布を頭から毟り取った。今、そうすることが、何を意味するのか、本当はよく分かっていたのに、考えなかった。

 闇から黒を切り取ったような、不吉な姿の鳥たちが、濁った声で散々に鳴く。枝が撓るほどに沢山、一つの木に寄り集まった鴉達が、紅烏の目を見て、一斉に飛び立っていく。その羽音は、嵐の日の濁流のようだった。何もかもを、逆巻く音の中に飲み込んで、その音が遠くへと消えるまで、紅烏はそこにじっと立っていた。


 後悔は、いつだって何かが起こる先に、出来るものでは…

 …ないのだ。


 

 遠くの、風の音、か…?

 山中でギンコはそう思った。明日は化野の家に着くから、日暮れまでのんびり歩いたら、今夜は目の前に見えるあの山で、一晩野宿。前の里で宿に泊まって、などと、贅沢するつもりはないし、ここでももう微かに聞こえる波音が、肌の上をさらさらと行き来して、それを感じながら眠りにつくのが、結構気に入っている。

 野宿もそう悪かねぇ。波音を聞きながら、潮の香りを吸い込んで、お前の顔を思い出しつつ眠る、土と草の寝床が好きだ。

 そう思った時、また風の音。さっきよりも大きく、ごう、と何かが逆巻くような。それと同時に、周りの木の枝が、一斉に揺れたのだ。まだ夕方の筈なのに、辺りが急に暗くなり…。

 逃ゲ、ロ…。逃ゲ、ロ…。ハヤ、ク…。

 頭の中に響いたその声は、記憶の中のそれだった。ずっと長いこと思い出さなかった、ある男の顔が、目の前に過った。

 その途端、何か温い雫のようなものが、真上の木の枝から降ってきた。ばさり、ばさり、と、聞こえてきたのは鳥の羽音。その羽音の一度ずつに、雫が降る。ギンコの上に降ってくる。

 蟲の気配に気付いて、ギンコはそれをなるべく浴びない様に、片腕を顔の前にかざしたが、それでも一滴が、彼の目の中に入ってしまった。

「…っ痛…ッ」

 針を刺したような痛み。視野が一気に黒くなって、ギンコの視界は闇で覆われた。手探りで木箱を開け、竹筒の水で漱ごうとしたが、生憎最後のひと口を、ついさっき飲み干したばかりだった。

 恐怖が背筋を這い上がる。元々片方しかない目だ。それを損なえばどうなるか、想像は容易い。這い蹲り、緩い斜面を手で撫で、届く限りの傍の木に触れて、自分の居場所と今の体の向きを確かめた。木箱を背負い、そろそろと道へ出て、何も見えないままにギンコは進んだ。

 幸い慣れた山だから、どう行けば水場へ出るかは体が覚えている。とにかく早く目を洗って、蟲払いの香を焚き、出来る限りのことをせねばと、そう思った。そうやって何とか道を進んでいる時、誰かの足音がして、同時に人の気配を近くに感じた。ギンコは躊躇いなく声を掛ける。

「誰か、そこにいるのか? すまんが、川へ出るのはこっちで合ってるか? 目を怪我したんで、出来たら案内してもらえると」

 話し掛けた相手は無言だった。でも足音は近付いて、腕を取られた。返事はないが、それでも導いてくれているようだったから、ギンコはそのまま少し進みつつ、礼の言葉を口にする。

「すまんね、助かる」
「…いや」

 短く、それだけ聞こえたその声に、ギンコは何かを考えるより先に、相手の名を呟いていた。

「…コウ、か…?」

 呼んだ途端、ぎり、と痛むほど腕を握られた。導く速さが倍になった。目の見えないギンコは、木の根や石に躓いて、転びかけなからも言った。

「コ、コウだろう。違うか。今の声…」
「………」
「俺を覚えてないのか? ギンコだってっ」

 さらに腕に指が食い込んでくる。怒りを感じる強さだ。

「…コウじゃねぇよ……紅烏、だよ」

 地の底から響くような、低いかすれた声が、ようやっとそう返事をした。ギンコは一瞬黙ったが、それでも彼は嬉しげな声で言った。

「コウ…。コウウか。そうか、無事だったんだな、あの時…。随分前になるけど、心配して」
「心配? 名前も間違って覚えてるぐらいの癖に、何が」
「え…。いや、でも……」

 ずきり、ずきりと目は痛んでいる。紅烏の姿を見たくて、無理に開こうとしたが、裂くような痛みが来て到底出来なかった。川に向かって下っている筈が、いつの間にか斜面を登るように歩いていて、ギンコは戸惑う。

「コウウ、川に行きてぇんだ。さっき、目に蟲が入ったんで、それを急いで洗いてぇんだよ、だから」
「…でも、じゃねぇよ。俺は紅烏だよ。不吉な紅い鴉が、俺に付けられた名前だよ。別にどうでもいいか、忘れっちまえる程だったんだもんな、お前にゃぁ…」

 鴉…。それを聞いた時、思い出せなかった蟲のことをギンコは思い出す。自分の目に入ってしまった蟲の雫の事をだった。鴉の翼の中に住み、少しずつ黒い色を喰って、濃縮された墨色の雫を排出する。その色素は毒を含み、生き物の喉に入れば声を奪い、目に浴びれば、視野を潰す、と。

 早く、目を洗わなければ…。

 抗い、掴んだ腕を振り払おうともがくギンコに、紅烏は言ったのである。

「思い出したのかい? そうだよ、お前の浴びたのは、鴉に巣食う蟲の毒だ。俺のかわいいかわいい鴉が、お前に向けて降らせたんだよ。わざとお前に降らせたんだよ」













 超不穏、いつも暗くてごめんなさい。しかしギンコの身の不幸よりも、紅烏の心の歪みの方が、叫ぶような慟哭を私に聞かせます。妬みは人の心の中で、すぐに憎しみに変わる。けれども紅烏の存在を、私は酷いと思えないんです。

 したことは酷いかもしれない、でも彼は、可哀想な人なのだと。待て次回。てか、なんとか続いてくれ次回へ! ←えー。次は内容を忘れる前に、書きたいと思います。



13/07/07