紅 鴉 二
後悔、なんてのは、どうしたって何かが起こる先に出来るものじゃねぇ。そんなことは考えりゃ分かることだったのに、俺とギンコは、餓えに負けてその遣り方に手を付けた。そうして悪いことに、何度もそれはうまくいった。
行って病を治すたび、笑顔になって喜ばれ、屋根や壁がちゃんとあるところに泊まり、心尽くし食いものまで出して貰えて、いいことをしているような気にすらなった。でも、そう感じてたのは俺だけだった。ギンコは毎回嫌がった。もう止そう。嫌だ。どうしてもって言うなら、今度で最後に…。
美味いものやあったかい寝床、その良さを分かっていながら、なんでと思った。みんな嬉しそうにしてる、感謝もして貰える。なのになんで嫌がるんだ。
餓えて飢えて病になって、それでも誰にも助けて貰えず、ずっと苦しんできた俺らなのに、やっと感謝される側になった「今」を、手放すなんて考えられない。ずっとこうしてやっていきたい。
けれど、それは半年程度しか続かなかった。
しかも、考え付く限り、一番酷い形で終わった。すべてが明るみに出たその里で、里人皆が俺らを憎んだ。棒切れで打たれ、石を投げられ、捕まったら殺されるほどの恨みを向けられた。俺は必死で走って逃げたが、一緒に逃げる筈のギンコは、どうしてかあまり走らなかった。
ぱたぱたと緩く走って、すぐに太い男の手に掴まり、張り飛ばされてぐったりと倒れるのが見えたんだ。それを見て、俺の中の何かが、ぶちりと音を立てて、切れた。
コウウって名前は、紅色の鴉っていう意味だ。なんでそんな名を付けられたと思う? 生まれてすぐから持ってた名前を、わざわざその名に付け替えられたんだ。次から次から鴉ばかりを寄せちまう俺に、似合いの名だってそう言われてな。
何で「紅」と付くかは、その日まで俺自身も知らなかった。
「ギンコ…ぉ…っ。逃げろ、走れ…っ! 早くッ」
俺は叫んだ。叫んで、心の奥ではこう思ってた。こんな酷い目にばかりあって、憎まれて恨まれて死んじまうくらいなら、憎悪されたままでだって、どんなことをしてでも、生きてやる。
目の前半分が、いきなり真っ赤になった。右側だった。どろどろと世界が溶けていくように見えて、その瞬間、自分の力だけで何かを壊せることに気付いた。濁って赤い視野を、黒い沢山のものが覆って、その黒いものたちは里人達に襲いかかっていった。
何だあの、赤い片目…っ!
逃げ惑いながら、そう、誰かが叫んでいたっけ。
体を起こしたギンコが、泣きながら何かを言っていたけど、黒い…黒い鴉の群が、ぎゃあぎゃあと鳴き騒いでいて、それ以外何も聞こえなかった。自分が何かを叫んだ声も、何も…。
ふ、っと意識が途切れ、気付いたら暗い蔵のようなところに押し込められていて、ギンコは傍に居なかった。そこは、とうに滅びて人の居なくなった山間の里の、誰にも使われていない蔵。俺は餓えて死ぬ寸前に、なんとか窓の格子を壊して外へ出た。そうして草でも土でも何でも喰って、ぼろぼろの姿でそれでも生き延びた。
俺をそこに閉じ込めた奴らの里が、今どうなっているか知らない。二度とその傍にも近寄らなかったからだ。ギンコがどうなったかも、ずっと知らなかった。でも自分と同じような目にあっていても、何とか生きてて欲しいとは思ってた。
苦しい思いしたって、酷い目にあったって、憎まれてたって死んだら終わりだ。あの時、お前が逃げようとしてなかったのは、もう諦めかけてたからなんだろう? そんな目ぇすんじゃねえよ、生きてようぜ、ギンコ。そうすりゃあんときみたいに、たまにゃぁいい思いも出来るさ、きっと。
一生地を這って生きる虫もいる。ただ生きてるだけで疎まれる蟲もいる。だから憎まれたって、俺らも生きて…生きててよぉ、俺らを憎んだやつらに、まだまだ死んでねぇよ…って、こうして生き延びてるんだって、見せつけ、て……
「…コウさん、随分あんたに懐いてるんだなぁ、その鴉」
唐突に声を掛けられて、びく、と紅烏の体が跳ねた。目の前に置かれていた湯飲みが倒れ、真新しい畳に入れたばかりの茶が染み込んでいく。
「あぁ、いいよ」
手早く拭いて、化野は新しい茶をすぐに入れた。治療を終えた鴉には、朝餉の残りを少し出してやっていた。芋や大根の煮たものに、焼いた魚の切れ端。自分にも出して欲しいと、つい紅烏が思うほど、それはちゃんとした食べ物で。
「あ、鴉に先に馳走してから言うのも何だが、もしも空腹ならあんたにも何か」
「……いや、いらねぇよ…」
「遠慮なんかせんでも」
「いらねぇ。これからギンコが来るんだろう。だったら、ギンコの為に残しときゃいいよ」
そう言うと、化野はぽかりと口を開けて、それから酷く嬉しそうに笑ったのだ。
「もしかして、ギンコの名や姿を知ってるだけじゃなくて、親しいのか? なんだ、ならそう言ってくれれば。生憎、あいつが今日来るのか明日なのか、もっと先なのか分からんのだがな。そういうことなら是非に泊まっていってくれんか」
にこにこと、本当に嬉しそうな顔。こんな顔を向けて貰えるなぞあの日々のようだと、紅烏が思うほどの濁りの無い笑顔で。紅烏は、視線を軽く外して言った。その笑顔が消えるのを見るのが嫌で。
「だけどよ、こんな汚ぇなりの俺が寝泊まりするなんざ、本当は嫌だろ、あんた」
「あぁ、そうか、気にして貰ってすまんなぁ」
けれど、化野は紅烏の言葉にこう返した。
「確かに、ここは医家の家だからな。風呂へ入って貰った方がありがたい。じゃあさっそく湯を沸かすから、待っていてくれ。俺のでよければ着替えも貸そう」
「……あんたは」
「ん? 何か言ったか、今」
紅烏は言葉を続けずに、曖昧な顔で笑っただけだった。やがては風呂が沸かされ、着替えの着物を渡されて、化野は歓迎の酒肴まで用意し始めた。熱い風呂も洗い立ての着物も、これほどの歓待も、あの時以来だと紅烏は思う。そうしてさっき言い掛けたことを、頭の隅でずっと思っていた。
あんたはギンコじゃなくても、別の余所者でも、大事にするのかい? じゃあ、あんたと先に出会ったのがもしもギンコじゃなくて俺だったら、こうして来るたびに喜んでくれてたのか?
今からでも、もしも、それがひっくり返せるのなら、あんたの「ギンコ」に俺はなれるのかい…?
夜、悪夢を見ていたような気がする。
頭がガンガンと痛んで、その痛みが右の目の奥にずっと響いていた。苦しくて紅烏が呻くと、すぐに間の襖が開いて、手に明かりを持った化野が入ってきた。枕もとに膝を付き、そっと額に手を置いてくれ、汗びっしょりの首元を、ひいやりと濡らした手布で拭いてくれた。
「……無理にとは言わんが、その目を診ようか」
化野はそう言って、紅烏の反応を気にしながら、彼の目元に巻いてある布に触れた。あまり清潔じゃないのに、風呂に入る時も床に入る時も巻いたまま、何か事情があるのはそれだけでも分かる。
「いらねぇ…」
「そう言うとは思ったが。医家として本音を言えば、もっと清潔な布に変えるぐらい、しなければいかんとは思っていた。傷だか病だか知らんが、どちらにしても」
紅烏は化野の言葉を聞きながら、片方だけ露わな左目を、微かに見開いて、唐突に、泣き笑うような顔をしたのだ。きっとまだ、半分夢の中だったからだ。
「あぁ…」
掠れた声も、まるで泣くようだった。仰向けに投げ出した四肢が、地団太を踏む子供のように一瞬だけばたりと騒ぎ、顔をくしゃりと歪めて。
「…そうかぁ、あんたは医家、だったよなぁ…。だからやさしんだな、だから良くしてくれんだなぁ。怪我した鴉と同じかぁ。だったら俺ぁ、ずっと怪我だらけでいてぇ…。そうじゃなけりゃ、もう生きてる限り、俺はよぅ……。あ…っ、いや…」
言い終えてからはっきり目が覚めて、何を自分が言ったか気付いて、紅烏は酷く狼狽した。まるで、小さな餓鬼のように、何にもならないようなことを、こんなふうに口走って。
化野もさすがに驚いたようで、触れようとしていた手を一度引っ込め、そのあと、何も聞かなかったような顔で、隣室からきちんと畳んだ布を持ってきた。
「今解きたくないなら、これを渡しておこう。山中をこちら側から戻れば、あんたが通ってきた道はやがて二手に分かれる。そのもう一方を行くと、綺麗な水の湧く泉があってな。悪くしているところを、そこでなるべく念入りに漱いで、拭いて乾かしてからこの布を巻くといい。布は多めにあるから、三日に一度は替えて、外した布の方は綺麗に洗って次にまた使うようにな」
淡々と、それでも穏やかに優しい口調で言い終えると、化野はすぐに紅烏の傍を離れた。襖に僅かばかりの隙間を残したのは、またうなされたら起こしてくれるつもりなのだろう。あまりに気遣いに満ちていて、紅烏にはそれが苦しかった。
どうしようと手に入らないものならば、それを見続けるのは、ただ辛いだけのことだった。
続
うおーーーーーーー。ギンコが出ないっ。待て次回ぃぃぃぃ。そしてもういい加減聞き飽きたでしょうが、暗い話で以下同文っ。こんな根暗いヤツですが、ちょっと紅烏好きになってきました。でもこいつラストでは、あのその、なんでもないっ。
13/05/26
