紅 鴉    一







「あぁ、よく眠れたかい」
 
 その男は頭に布を巻きながら、頭上に向かってそう言った。片目を覆うように、布は斜めに巻き付けられていく。

「久々にいい夢を見たよ。昔一緒に旅してたやつの夢さ。あいつもなんとか生きてりゃいいな」

 男の声に返事をするものはいない。なのに男はからりと笑って、やっぱり頭上に向けて言う。親しい相手に言うような気安い言葉だ。上に見えるのは木々の枝ばかりで、他には鳥ぐらいしか見当たらなかった。

「あぁ、そう思うかい? お前らは優しいなぁ」

 木で出来た四角い箱を背負い、木々の間を慣れた足取りで歩いて、その山をゆっくりと下りて行く。山を抜けたら海里だろう。夕べは風が強くて、海鳴りが聞こえたし潮の香りが少ししていた。

「そら、ひとつ向こうに山が見えるだろ? あそこでまた落ち合おうぜ」
 
 男が言うと、遥か頭上で沢山の羽音がした。木々の枝に遮られ、もともと少なかった日差しが、さらに陰って暗くなる。飛び立ったのは数十羽もの黒い鳥、鴉たちだ。濁った声で騒がしく鳴きながら、鴉たちは次々に飛び去って行った。

 一方男は歩みを止めずに下りて行く。居なくなった筈の鴉の声が、暫し後にまた一つ聞こえた。か細いその鳴き声は、男の懐からだった。

「…なんだい、出てぇってか? しょうがねぇな」

 少し膨れた胸元から、ひょこりと黒い嘴が出る。何やら痩せた鴉で、頭のところの毛が少し毟られ、赤く血の色が見えていた。

「おめぇも皆と一緒に行きてぇか? まだ混ざったぱっかで受け入れて貰えてねぇうちは我慢しな。おめぇも鴉、奴らも鴉、一緒に居てぇのは分かるけどよ」

 ちゃあんと今に仲間に入れっからな、と、指先で鴉の首を撫でながらの声が、無造作だが優しい。鴉の頭の怪我は案外深くて、少しばかり膿んでもいた。薬かなんかがいるだろうが、鳥の薬は勿論、人間の薬すら持ち合わせがない。

 正直、男は人里が苦手だった。里人などはもっと嫌いだ。出来れば避けてゆきたいが、それでも怪我をしたこいつのためには、寄らねばと思っているところだった。気が進まないまま、山道をゆっくり歩いていると、後ろから早い足取りで誰かが近付いてきて、男は無意識に険しい目になった。

 近付いてきたその人間が、ふ、と顔を上げる。男よりも幾分若い顔で、彼が脇へ退いてその男に追い抜かれる時、薬湯の匂いがほのかに香った。もしや、医家なのか。

「あんた…」
「ん? おや、お連れが怪我かい? こりゃちいと膿んでるなぁ」

 まだ男が何も言わぬうちから、藍の着物のその男は言った。遠慮なしにもっと近付いて、すい、と伸ばした指で、彼の懐に抱かれている鴉に触れる。怖がらせない様にか、頭の傷のところを慎重にそろりと撫でたのだ。

「旅のお人だろうが、今からうちに寄って行けるかい。俺はこの先の海里の医家で、化野と言う。あんたの頭のそれも、診た方がよけりゃ診るが?」

 どういうつもりかと思った。けれど、懐から頭だけ出している鴉が、男が返事するより先に、ひと声「がぁ」と鳴いた。

「そうかい、寄れるかね」

 化野と名乗った医家は、嬉しげに笑う。そうして男へ向いて尋ねた。

「あんたは名前は?」
「俺は…コウウ、ってんだよ」

 あかいからす、と書いて、紅烏。

「コウ? そうか。なら、コウ、さんも一緒に」
「…あぁ、でも俺のは怪我じゃないんだ。こいつのだけ診てくれりゃ」

 聞き間違えられたのを、もう一度名乗ろうとは思わなかった。人に名を呼ばれるなど、嬉しくもないし、どうせ長続きすることではない。

 案内されたその家は、中々に大きな家だった。里に一軒の医家ならばそれなりに裕福なのだろう。気楽なもんだ、と早速考えが捻じ曲がる。

 まぁ楽にしててくれ、などと言い置いて、医家はぬるま湯を少しばかり用意してきた。鴉の頭の傷をそのぬるま湯でそっと濯ぎ、白い布で優しく拭くと、嫌がるのへ穏やかに話し掛けつつ、塗り薬を塗る。

「さ、ここへ少しさっきの薬を包んでおいた。日に一度つけてやるといい。化膿止めと痛み止めだから」
「…金はねぇぞ」
「金? あぁ、治療の? 俺は人間の医家だからなぁ、鳥の治療にいかほど頂いていいか分からなくてな、いらんよ」

 何でもないように化野は言って、広げていた薬やなんかを片付けている。そうして視線を紅烏へはやらずに、何気なく尋ねてきた。

「不躾ですまないが、あんた、生業は? 実はそれと似た木箱を背負って、年中旅して歩く友人が居てね。ギンコと言うが。
もしやあんたも蟲師じゃないかと思って」

「ギ…ギン、コ?」

 それは、あのギンコ、か?

「そう。ギンコだ。ちょいと目立つ身なりだから、同業なら知っているかもしれんな。髪が白くて」
「……緑の、片目の…」
「あぁそうそう、やっぱり知っているのか。そのギンコはここいらの馴染みでね。うちの里も何度か世話んなったし、年に三、四回は来て行くよ。そんときゃここに寝泊まりしていくんで、そろそろかと思って待っているところなんだ」

 紅烏は曖昧に相槌を打って、どうしてか、ろくに返事をしない。視線がぐるりと化野の家の中を見る。隣の間の押入れの前に、何気なく掛けてある寝間の着物。隅に用意してある一組の布団。待っていると言った、この医家の男の表情を。

 丁度、今朝ギンコを夢に見た。夢の中のギンコはまだ痩せっぽちの、暗い顔をしたガキだった。生きてくのが精いっぱいの暮らしをきっと今もしているものと、紅烏は勝手に思っていたのだ。自分と同じに…。

 紅烏の脳裏には、擦り切れるほど遠い過去の様々が、薄暗い山野と共に映し出されていった。




 知り合ったのはあいつが十二か三、俺が十六だったっけ。あの頃俺は独立したばかりの蟲師だったが、蟲患いに行き当たれずに、行き当たっても下手をやるぱかりで、毎日毎日飢えていた。一緒にいたお前だって、蟲を寄せるだけのただの厄介なガキで…。

 それでも。

 それでも俺らは、ずっと蟲に悩まされてきた同じ痛みを抱えて、なんとか二人でやってこうって思ってた。

 あの日。あの日は酷く寒い日で、俺らは本当にひもじくて。二日も三日も何も食えずに、このままじゃあどうなるかと俺は思ってた。体を壊してたとこで、熱が高くもなってきていて、なんとかしてくれよ、って、ギンコに弱音を吐いたんだ。

 そしたらギンコは長いこと躊躇った後、方法はあるけど、と、そう言った。でも嫌だよなぁ、そんなの。絶対嫌われるもんな、と。

 言ってだけみろよ、と俺は言った。元々、体に巣食った蟲のせいで、小さいころから鴉ばかりを寄せつけて、気味悪がられて里を負われた俺だ。今更、嫌われるかどうかなんて、そんなもの。そうして言いたがらないギンコに、無理に喋らせた。

 聞かなきゃよかったと、
 そんなことはやっぱり駄目だと、
 そう思えたのはずっと先だ。
 取り返しがつかなくなってからだった。

 聞けばギンコは今まで、大人の蟲師にばかり連れ歩かれて、連れ歩いて貰う代わりにさせられていたことがあるという。ちっとも難しいことじゃなく、ただ、本当ならやりたくないことだとギンコは言った。

 あまり良くない蟲を自分に寄り付かせ、それを付けたままで里に入り、どこか一箇所に数日居座る。そうすれば、体の弱い誰かが蟲患いになって、それを俺が、治せばいいのだ、と。

「だ、騙すってことだろ、それ」
「…そうだな、だからしたくない。したくないけど、金とか食べ物は手に入るよ」

 ギンコはそう言って、深く項垂れた。そんなことしちゃ駄目だ、そう言って欲しかったのかもしれなかったが、俺はその時、高い熱や、どうしようもない空腹で、頭がどうにかなっていたのかもしれない。

 一度きりなら。ちゃんとすぐに行って治せば。お礼に金や食べ物を出せるほど、いい暮らしをしてるなら、ちょっとぐらいそれを俺らが貰ったって、いいんじゃ、ないのか…?

「…いいよ、やろう」

 俺は言った。ギンコが少し震えたけど、見ない振りをしてしまったんだ。酷いこと、の、それは始まりだったのに。












 


 
 暗い話になります(またか)が、最初どうしてもコウが暗い奴にならなくて、どうしようかと思いましたよ。今も思ったより暗くなくて、想定している行動を起こしてくれるかどうかが疑問です。ずっと前から書きたかった話で、ちゃんとしたいのに、ああぁぁあああ。

 まぁ、結局行き当たりばったりで行くわけですが。

 今後はすこーし、はらはらする展開になるかと思います(またか)。どうぞ見守ってやって下さいませ。先生頑張れ!(またか)。


13/05/05