ユ キ ツ ゲ 4
ゆっくり、ゆっくりと。化野の目がギンコの姿へと焦点を結ぶ。ギンコは化野の顔を真っ直ぐに見つめていた。酷く困ったような、少し辛そうな顔をして、瞬きもせずに見つめていた。
「…見えたか、俺の顔」
「………あぁ…。見えた。本物、だよな?」
ゆら、と揺れる手が差し伸べられて、ギンコの頬に触れ、髪を撫でた。化野はそこに確かにギンコがいるのを、しつこいくらい確かめて、それから随分狼狽して手を引っ込めた。
「わ、わ…っ、すま…」
「また『すまん』か? 詫びるようなことじゃないだろ? ただ触っただけだってのに」
ギンコは化野の綿入れを取って、その寝巻の着物を着た背に掛けてやり、それから腕を伸ばして庭の方を指さした。この寒さだと言うのに、障子と雨戸が大きく開け放たれていて、宵闇に飲まれた庭の風景が見える。
そしてその墨色の濃淡風景の中に、あの美しい蟲たちが、散りばめられていたのである。ギンコは化野の体を引っ張って、縁側に足を出して並んで座ってから言った。
「なぁ、凄ぇなぁ、綺麗だと思わねぇか。お前がずっと見てたのはこれなんだろう?」
ひとつひとつが美しい花のような、不思議な六角の形をした銀の粒。煌々、きらきらと不思議な光を放つ生き物たち。呼吸をするように、一つずつでゆっくりと回りながら、ちか、ちか、と、星が瞬くように光る、光る。
雪の造形は本来こんなにも美しい。あまりにも小さくて、人の目には移らぬその姿を、蟲たちが雪の代わりになって見せてくれているような…。
だが、ふと見ると、化野は少し怯えた顔をしていた。美しくて目を逸らすことは出来ないが、また前のように、これらが自分の視野を、埋め尽くしてしまうのではないかと思っているのだろう。
「き、綺麗だが…」
「大丈夫だ、もう、お前の目ん中に満ちてきたりはしねぇから」
「で、でも今度は、お前に憑いたりとか…っ」
その怖れだってあるだろうに、ギンコは平気でそれらを見ている。
「俺はお前と違って、払い方を心得ているから」
それとも、見えなくなっちまったふりをして、暫しここへ居座ってやろうか。雪景色の中でお前の傍にいられるだなんて、中々ありゃしねぇよ、一生に一度かも知れぬと。
けれど、そんなのはこれからもずっと、彼の中の禁忌だ。その願いを叶えることが、跳ね返って自分の痛みになるだけ。
「雪が、降ってきた…」
ギンコが言う。その唇から白い息を吐きながら、寒そうにして。闇の中にいるユキツゲと混じるように、本物の雪がしんしんと降っていた。
「…本当だ。『ふゆ』なんだな」
雪がくれば、これからはまたぐっと寒くなる。結局は蔵に置いたままの、あの火鉢の出番となるんだ。取って来にゃあ、とそう思い、ふと何かに思い当たって、化野は消えそうに小さな声で言った。
「蔵に…大きな火鉢があるんだが」
「持って来いってか? いいぜ、お前まだ風邪引いてんだし、そのの綿入れ、ちゃんと袖通しとけよ。ちょっと待ってな」
ギンコはそう言って、化野の草履を履き、雪の降る中、首をすくめて蔵へと行く。夜目の効く彼には行燈などいらないから、階段の手前に置かれた火鉢が見えた。その横に置かれた小さな箱の蓋が、横にずり落ちていて中身が見える。
広げて見なくてもわかる。それは綿入れだ、化野が今来ているのと同じ柄の、まだ一度も着ていないような、真新しい。暫しそれを眺めてから、ギンコはそれには気付かなかったような顔で黙って蓋をして、大きな火鉢を両腕で持ち上げた。
少々危なっかしい足取りをして、よたよたとそれを運んでいくと、縁側で膝立ちになった化野が、少し残念そうな顔をして項垂れた。あれを着て出て行きゃぁ、きっと花の咲くような笑顔になったんだろうなぁ。見たかったよ、化野。それも己の痛みとなるが。
「持ってきてやったぜ、どこへ置くんだ?」
「あ、え…と、じゃあひとまず布団敷いた部屋へでも」
そう言って振り向いて、ようやっと化野は気付いたのだ。ぴったりと寄せた二つの布団。なんだ? どういう意味だ、これは。誰がしたんだ。俺じゃ、ない。
「ここでいいかー?」
「え…っ、あ、うん、そっ、そこで」
くす、とギンコの笑う声がした。視線を庭へ戻せば、随分と冷えているらしい。引っ切り無しにふる雪は、下草の生えた庭の地面にも、垣根の枝の上にも積もっていた。ユキツゲの姿はその白さに紛れるように、もう殆ど見えない。否、見えないのではなく、もう消えてしまったのだ。
雪に吸われて、その中へ一つになって、目に映すことも出来ぬような、小さな小さな核へと戻り、降り積もる雪の中で、またいつか目覚める時を待って眠る。またいつか、誰かが自分たちを見つめてくれる時までは。
「綺麗だったな、お前のお蔭で見れたよ、化野」
大きな火鉢に火を入れながら、ギンコはそう言った。
「珍しい蟲なんだ。誰かに強く意識してもらって、ずっとその目に映していてもらわなきゃ、実体化できねぇような弱い蟲だ」
本当に、綺麗だった。雪が降ると分かっていても、見るためにここに居座っちまうほどの、美しい蟲だった。返事がないので、ギンコは化野の隣に来て、そこへ膝を付いて、項垂れ通しの化野の顔を覗き込む。
「…顔、赤いぞ。熱が出てきちまったんじゃねえのか? どら」
ひたり、と額に手を当てられて、化野はさらに狼狽する。ギンコの手を振り払い、立ち上がろうとして着物の裾を踏ん付けて、畳に手をついてしまいながらも、必死で布団の方へ行く。
自分の寝ていた方の敷布団を掴み、ぐい、と離すように引こうとするが、妙に頑固な抵抗にあう。離させるものか、とギンコがその布団を上から踏んでいたのだ。
「往生際が悪ぃな、先生」
ギンコは片手で二人分の布団を器用にまくり、化野の腕を強く引いた。布団の上に両膝が落ちて、酷く近くから声が聞こえた。
「俺はとっくに覚悟の上だよ」
淡々と、ギンコは言うのだ。痛むと分かっていて、覚悟はしてあるのだと。胸を重ね、両腕を化野の背中に回したまま、その耳朶に唇を近寄せて。
「折角『ふゆ』にここに居るんだ。お前と一緒に雪が見てぇ。でも、風邪気味のお前に、寒い思いはさせたくねぇ。そしたら、二人でお互いを、温め合うより他ねぇんじゃねぇのか…って」
何も言わないまま、じたばたと、化野の体はもがいていた。鼓動が凄い。息遣いが滅茶苦茶で、このまんまどうにかなっちまうんじゃないかと思うほどだった。
「観念しろや」
「でも」
「冬に俺を呼んだ、お前の落ち度だ」
「っ、よ、呼んでないよ」
「呼んだだろ」
声に出して呼んでなくても、ずっとずっと、常に呼んでいた癖に。蔵にしまわれたあの綿入れは何だ? どうして仕立てさせたんだ。俺の為のものだと思ったのが、ただの自惚れだとでもいうか。
「……ギンコ」
「ん?」
長い沈黙の後の呼びかけ。そしてまた、呆れるほどの長い沈黙。もう知ってるから、分かってるから、気軽に言って構わないぜ。素気無い態度なんかしねぇから。
「…す…… だよ…」
聞こえねぇなぁ。唇が凍えてんのか? しょうがねぇな。
「好き、だよ…」
今度は聞こえた。胸にさくり、と、抜けない棘みたいに。奥まで奥まで、刺さっていったよ。俺は随分ずるいから、返事なんかはしてやらない。こうして冬に駆け付けたのが答えだなんて、とんだ逃げ口上だ。こんなずるい男に惚れたお前が、気の毒だ。
「もしも、また、あの蟲が見えたら、今夜の事を思い出せ」
一つ布団の中で、しっかりと体を合わせながらギンコは化野に言った。腕の力はもう抜けていたが、今は化野の腕が、ギンコの背を抱いて離さない。何日も寝てねぇくせに、なんて力だ。いい加減寝ちまえよ、この馬鹿正直。あれほど嫌がっていたものを、一度自分に許したらこの通り。
「今夜の?」
「あぁ、そうだ。そうしたらお前の心の中が、きっと俺の事ばっかりになって、ユキツゲの居場所はほんのこれっぽっちも無くなるだろ。お前、さっきもそうやってあの蟲を払ったんだ」
「そう、だったんだ」
雪はもう視野の全てを覆っていて、庭の風景が、ユキツゲに埋め尽くされた視界に似ていた。きっとこんななのだろうか、と、そう思いながらギンコは白い息を吐いている。
寒さの中で欲しがる温もりは、それが得られなければ得られないほど、あまりに切なく恋しい。今夜のあの囁きと、この温かさとが、心のどこか片隅にある以上、冬はきっと、今までよりもずっと辛いのだ。とっくに覚悟の上だ、なんて、よくぞ言えたものだよな。
「寒くねぇか?」
「…いや」
ふるふると首を振る、その髪が肌に触れて切ない。
「じゃあ、寝ちまうとするか」
寝た振りになるに決まってるけど、それはお互い言いっこなしだ。ずっとこの温もりを心に刻んで、朝になるまで薄目を開けて、共に楽しむ「ふゆ」の夜。ちらちらと降る白も、しんしん冷える空気も、互いの鼓動も息遣いも。
「起きたら発つぜ」
「…うん」
ふるふると首を振る。頷いた筈の声と真逆の本音。ギンコは化野の体に回した腕から力を抜いた。
「だから『ふゆ』は、嫌なんだ」
続
もうラストまですぐなんですが、後日談も少し書くと思うので、ここで「続」としましたよ。
好きならばどの季節も傍に居たい本音。好きだから常に別れが辛いもの本当。寒さを消すには温もり。淋しさを癒すには恋しい相手。ずっとその温もりを、ずっとその恋しい相手を、抱き締めていられるのなら、冬こそ会いたいに違いはありませんよね。
観念したと言いながら、傍を離れた後、一層の孤独に震えるだろうギンコが愛しいのです。揃いの綿入れなんか、可愛いことをしてくれんなよ。この馬鹿野郎め、ですww
12/11/25
