ユ キ ツ ゲ   5 





 南へ、南へとギンコは歩いていた。旅慣れた身の、その速い脚。積もった雪を見事に蹴立て、白い煙のように踵でけぶらせながら、南へ、南へ。それはもう逃げるようにだ。「ふゆ」から逃げてギンコは化野の里から遠ざかる。

 お前から逃げてる、とも言い換えられるけどな。

 時に小さく苦笑しながらも、ギンコは歩いている。幾人も旅人を追い抜いて行くから、その一人がからかうように声を上げた。

「にぃさん、そんな急いで南へ行くたぁ、よっぽど寒いのが苦手なのかい」

 無視するまでもないかと、軽く手を上げて愛想を返しながら、無言の心ではこう思う。

 あぁ、そうとも。たいそう苦手だよ。
 寒いのより、あったけぇ温もりが、何よりな。

 留まらずに幾つかの里を越え、ギンコはまた山に踏み入る「ふゆ」の追うのを気に掛けながら、それでもだんだん降る雪は疎らになった。白い白い息の色が淡くなる。落ちた枯葉の霜の色も見られなくなり、雪の名残は、もう遠くに見える青い山肌だけ。その山肌に、夕の色がゆっくりと差してくる。

 振り切ったか、とギンコは身を返して来た道を振り向いた。確かに肌に感じる風も、いくらか柔らかだ。それからぐるりと山の中を見渡し、年寄りのように腰の曲がった大木に目を止める。

 突き出た幹の向こうを覗き込むと、あつらえたような見事な洞。しかも丁度、風の吹き込まぬ方向へ向いている。一晩、やっかいになるぜ、と人間に話しかけるように声を掛け、ギンコはその洞の中へと潜り込んだ。

 そして夜は訪れる。ありったけの布を首やら体やらに巻いて、体温を逃がさないようにしているギンコの目の前を、ふ、と銀の光の蛍が横切った。ギンコは視線で追わず、漂うそれをそのままに薄目を開けている。

 銀の蛍。なんてものは聞いたこともない。こんな水場でもない場所に、こんな季節、居る筈もないと分かっていた。

「やっぱり来てたか」

 ギンコはぽつりと呟いた。言葉と共に零れた息には、白い色が付いていた。

「居るんじゃねえかと思ってたよ。ずっと気配もしてた。付いてきたのか、お前。俺なんかにくっ付いてきたって、何にもいいことないぜ?」

 ユキツゲだ。ほんの一匹だが、見ているだけでこいつは簡単に増える。ギンコが視線で追わないのが分かるのか、銀の光は彼の前を去らずにゆらゆらしている。そうして彼の指先、彼の手の甲、腕へ、肘へと、ゆっくりと辿っていく。

「自分を見ろ、目で追え、意識しろ、ってか? 俺を相手にそんなことを想うなんて、あの男だけで充分だ」

 それに俺は、あいつみたいに、自制もきかなくなるほど、お前に魅せられたりもしない。仮に憑かれたとして、目の前を光で埋められたとして、それを払う方法も知っているから。

 まぁ、だから…少しなら、見てやったって構わないけどな。

「お前が綺麗なのは、紛いようがなく確かだよ」

 ギンコは今度は意識して、銀の光を視線で追った。ふわり、ふわりと漂うのをずっと瞳に映し続けた。すると光は二つに増え、三つ四つとなり、見る間に十に二十にと増えていく。そして気付けば、その姿がはっきり見てとれるほどの大きさに。

 お前はこうして、あいつを魅了したって訳かい?

 六角をして銀色の、美しい蟲達に視野の殆どを埋められてから、ギンコはゆっくりと息を付いた。開いていた目を閉じると、闇色の瞼の裏にも、見事な程のユキツゲの群。くす、と小さく笑って、意識を別へと逸らした。

 もう一つの瞼を半分下ろして、閉じた向こうは、金の川。ごう、と流れる無数の命の音。

 川の向こうとこちらは黒い闇で、いくつか零れ落ちるようにユキツゲが見えたが、それもそこまでだ。溢れかえる金色を前にして、あっと言う間に消えていく。存在感が違うのだ。

 ギンコはこの川を見るたびに思っている。化野にもいつか「これ」を見せられたら、と。

 けれど、そう思っている心さえ、すぐに薄れて消されて、ギンコは何も考えられなくなっていく。繰り返し繰り返し、ずっと、ギンコはこの光景を見てきた。いつか還る場所として。いつか自分を飲み込んで、幾多の罪すら欠片も残さず、跡形もなく消してくれる終わりの川。

 そうであればこその安堵。命ある間は、流れて生きていていいと、思っていられる憩。ごうごうという音だけを聞いて、金の光だけを見て、他の何も見えず、聞こえなくなっている、この時間だけの安らぎを。

『 よ… 』

 しかし、初めて別の何かが聞こえた。

『 …だよ… 』

 また聞こえた。意識すると、まるでユキツゲのように、それは増えた。そしてきらきらと光った。声なのに光るのだ。ギンコの心の奥で、ちかちか、きらきら。目が逸らせない。

『 好き だよ… ギンコ 好きだ… 』

「…ッ…!」

 何か飲み込めぬものでも飲んだような顔をして、ギンコは目を見開いた。視野にユキツゲは居ない。金の川も消えた。そうして彼は、空いていた口を閉じることも出来ず、僅かばかり眉を顰めた。

「お前…」

 嘘だろう、お前…。
 ただの人間の癖に、お前…。
 ただの一個の命の癖に、光脈の上を行く気か…。
 命の流れの存在感よりも、強く、俺を。

 ずる、と木の洞の中でギンコの腰が滑った。呆れ返って、もう一度光脈の気配に浸る気にもなれない。目を開けて見た視野では、増えたユキツゲが雪と同化して、ちらちらと降り始めていた。

 ほらな、やっぱり「ふゆ」は難儀だよ。「ふゆ」以上に「お前」が難儀だ。そしてそんなお前を欲しがる「俺」が、何より難儀で厄介なんだ。

「嘘だと、言えよ…」

 凍えるほど寒い筈なのに、ほんのり温い何かを、胸に感じた。とにかく、少し寝たらすぐに歩き出そう。「ふゆ」の俺から逃れるために。ギンコは無理でも目を閉じた、光る声を聞きながら。

 ギンコ

 ギンコ

 ギン…









 光脈に依存するギンコ。この部分はもっと暗く書くつもりでした。が、何をどうしてこうなったのか、暗く書けなくなってましたですよ。あるぇ…?

 いつか飲まれて消えるからこそ、今はこうして生きていられる、みたいな考え方をしているギンコ。そしてそれを心の拠り所にしているっぽい彼に、化野先生が気付くはずだったのが、展開的に超無理に! またいつかトライしたいテーマですねぇ。

 ラストシーンで「…ッ…!」ってなってるギンコは何気に間抜けで気に入ってます。先生を侮るなかれ、ですなー。



12/12/09