ユ キ ツ ゲ   3 




 深い闇に、光の粒を詰め込んだような視野を、為す術も無く眺めながら、化野はギンコの立てる物音を聞いている。部屋が寒い、と、半ば叱るように言われ、どうすることも出来ずに「すまん」と詫びると、畳の床を軋ませて乱暴に歩き回る気配がした。

 物音と同時に、居場所を変えながらの呆れたような声が届く。蟲を払うより、この寒さをどうにかする方が急ぐということだろうか。
 
「ったく、何で囲炉裏の火が消えてんだよ、青い顔していやがって…。風邪? 風邪引いてるんなら尚更だ、蟲患いよっか先に、風邪こじらせてどうかなっちまうとこだぞ、お前」

 火箸で囲炉裏の灰を掻く音がする。燃え残っていた炭の上に、紙かなんかを丸めて置き、その上に枝を積み上げているのだろう。白いものしか見えない視野で、それでも光源が動いた気がしたのは、蝋燭を寄せて囲炉裏に火を入れたせいか。

 やがては、ぱち、と微かな音がして、ずっと火の気の無かった家の中に、ようやっと温かな気配が広がって行く。腕を掴まれ、引きずられるように少し動けば、冷えた体に熱いくらいの空気が当たった。だが、熱いと感じたのはその一瞬だけだ。温もりが彼を押し包むように、やんわりと周囲を巡る。

 そうか、寒いと、人は不安になるのか。視野は何も変わっていないのに、こうして温かいと、それだけで気持ちが楽になっていく。あぁ、と短く嘆息した化野に言い聞かせるように、ギンコがやんわり言葉を放った。

「なぁ、ものを見れねぇからって、寒いまんまでいる奴があるか? 火は危ねぇと思ってたんだろうが、それならそれで、もっと重ねて何か着るとか、布団に潜っとくとかしねぇかよ?」
「あぁ…そう言えばそうだ…。考えなかった…」

 赤々と燃える炎を目の上に映したまま、実際には何も見ることが出来ず、化野の声は力無い。ギンコはまた溜息を吐いて、そんな彼の姿を眺めながら言ってやった。

「そんなしょ気んなよ。俺も文献でしか知らないが、それほど危ねえ蟲じゃないんだ、こいつは。放っといても、そのうち勝手に離れる類のヤツだし、抜けた後に体に障りがあるなんていう話も聞いたことがねぇ」
「そ…そう、なのか?」

 聞いてさぞや喜び、安堵するかと思ったのに、化野の声は不安そうに揺らいでいる。見えない目には頼れず、それでもギンコの居る方向を探して、どこを向いたらいいの迷っているようだ。

「こっちだ、ここだよ、化野」

 ギンコは腰を浮かせ、あと少しで膝が触れるほど近くへ座り直した。距離が近いのは化野の目が見えていないせいで、彼を安堵させるためと、もう一つの理由がある。

 目が合わねぇと、なんだか楽だな。ギンコは小さく笑っていた。

「俺はここだ」

 片手を取って膝に触れさせてやると、手探りの仕草でギンコの大腿をまさぐり、化野はぎょっとしたように手を引っ込める。

「す、すまん」
「あ?」

 狼狽えて、囲炉裏から離れる方向へ後ずさるので、またギンコは化野の片腕を掴んだ。

「何が、すまん、だ?」
「い、いや…その。つまり、そんな大したことでもないのに俺がふみなど出したせいで、お前はわざわざこんなところまで」
「別に…。割と近くにいたんだ。早かったろう」

 鎖で道筋をつけてある虚穴を一つ、強引に通り抜けてきたことなど、教える意味はない。そんなに焦って急いで来たことも、蟲払いのために揃え過ぎるほど用意してきたことも、それが無駄になったことも、言葉にするつもりはない。

「得体の知れねえもんがいきなり見えるようになって、他のものが一切見られなくなった、なんてのは結構『大したこと』だと思うぜ?」
「…うん、すまん」
「また『すまん』か」

 さっきから、詫びてばかりだ、この男は。蟲を払って不安を取り除き、すぐでもものが見えるようにしてやった方が親切か? この蟲は酷く綺麗な見目の蟲らしいが、それでも異質なものには違いがない。愛でる余裕もあればこそ、だ。

「じゃあ、とっとと払っちまうかい? そのままじゃ医家の仕事にゃならねぇし、ただ過ごすだけでも色々難儀だっただろ。ちゃんと眠れなかったみてぇだし、それに、見えるってこと自体、気味が悪かったようだしな」
「……」

 言われた言葉に、一瞬化野の思考が止まった。そんなことを、俺はいつ言っただろうか。ギンコの言葉は何かを諦めたように聞こえた。

 雪の結晶を見るようで、綺麗で不思議で、俺は朝になるまで、それを飽きもせずに眺めていたんだ。それから数日かけて視野を奪われ、眠ることも出来ず疲れ切って、ギンコが来るまでは、自分がどうなるか分からなくて怖かった。

 でも、怖いけれど綺麗だと思う気持ちに変わりはなかったのだ。怯えながらもずっと惹かれていた。これがギンコの見ている世界かと、息をするのも忘れそうな心地だった。

「き、気味が、悪くなどない」
「でも、お前さっき、こんなものが見えているのを、里の皆には知られたくないと」
「あぁ、そうか…。うん」

 そうだ、確かにそうは言った。そしてギンコに「怖いんだろう」と言われて頷いて、すまん、と彼に詫びたのだ。でもそれは、蟲を気味悪がったせいじゃない。ギンコが常に見ているものを自分も見て、それを嫌だなどと言うわけがないじゃないか。誤解されたかと焦って、するりと詫びてしまっただけだ。

「違うんだ。見えたのは嬉しかったんだ。見惚れたよ、綺麗で」
「…なら、よかったけどな」

 ギンコの言葉の前の空白に滲んだ。小さな安堵と笑った息遣い。火箸で灰を掻く音。ぱち、と火の爆ぜる音。化野の視野の白に、赤々とした揺らぎが、一瞬だけ淡く映る。目の中の結晶が、ゆら、と震えた。一つずつの緩い回転が不規則になった。

「ただ、里の皆に知られると、怖がると思っただけなんだ」
「お前らしい」

 またギンコは笑ったようだった。声や息にはこんなにも笑みが滲むのか。姿を見たくて堪らなくなった。折角こうして傍にいるのに、見えるのは白く光る視野だけなんて。その時、ちら、と一瞬、視野の中に別の色が見えた気がしたのだ。白い重なりが解けてその向こうに何かが…。

 あぁ、もしかしたら、これは。

「ギ、ギンコ」
「どうした? 何か変わったか?」
「うん、蟲が抜けていきそうなのかもしれない」
「…へぇ、じゃあもっとやってみりゃいい、もっと」

 もっと、とは、何を? 不思議に思って傾げた首の、そのすぐ傍の髪に誰かが触れた。誰かとはギンコしかいない。ギンコが化野の髪を、悪戯するみたいに弄る。

「な、何してるんだ、ギンコ」
「何って何も? 蟲が無事に抜けたら、俺は早々に発つけどな」
「え…っ?」
「だって、今は…冬、だからさ。いつも言ってるだろ」

 俺は、冬はここにゃあ来ねぇ。

 冬の足音が遠くから聞こえ出したら、逃げるようにここから遠ざかる。北風の厳しい季節、雪のチラつく頃。海原が灰色の重たい色である間。勿論意識して、遠く、遠くを歩いているさ。やがては春が訪れて温かくなり、花も一つ二つと綻ぶ。寒いやら、人恋しいなどと、簡単には思えなくなってから、ようやっと進路を変えて、俺は何かのついでのように、ここへ来るんだ。

 ギンコは見るからに落胆している化野を、慰めるようにこう言った。

「なぁ、教えてくれ、どんなふうだ? 化野。俺は実は、その蟲を見たことがねぇんだよ。憑かれたものの話も聞いたこともねぇ。どうやら全部がお前の目の中らしく、今だって俺はちらとも見てねぇんだよな。是非とも話してくんねぇか」
「…い、いいぞっ。話してもっ。障りがないんなら、払うのはその後でいい…!」

 何やら随分勢い込んで、化野は言ったのだ。

「話してやるが、も、ものは相談だ」
「相談?」
「よくよくちゃんと話したいので、一晩、ここに泊まっていってくれ」

 おっと、そう来たか。敵もさる者であるらしい。そうまで言って引き留めたいとは、お前も中々酔狂が過ぎる。仕方なく応じてやると、見る間に紅潮した化野の頬が、まるで小さな子供のようだった。それで隠してるつもりとは、笑えるぜ?

 そうして化野は、隣家が届けてくれた夕餉をギンコと共に平らげ、済まながりつつも後片付けまでさせ、勿体をつけるようにやっと話をし始める。




 あれは暗がりに、
 不思議な光り方をする、
 銀の粒のような。

 化野はそれらの姿のことを、懸命に言い表そうとしてそう言った。とても綺麗だった。今までそんな光を見たことが無かった。思わず食い入るように見つめた視線の先で、段々とはっきり大きく見え始め、雪の結晶のような美しい六角をしているのまでが、細かく見えるようになってきた。

 それはずっと、きらきら光っていた。その雪の結晶はひとつひとつがゆっくりと回っているんだ。最初は闇色の中に、散りばめられるように。そしてどんどん数が増えて、重なり合うようにして闇を消していった。冬のさなか、一面に積もった雪に朝日が当たって、眩しく光るのに似ている。

 それしか見えなくなった今も、そのまま回っているぞ。ただ、あんまり数が増えて重なっているから、回っているのもはっきり分からなくなってるよ。

 ギンコは化野が横になった布団の隣に自分も身を伸べて、焦点のあっていない化野の目を見ながら聞いている。化野の目の前には蝋燭の明かり、それが頬に映って明かりが揺れていた。

「綺麗なんだ、本当に綺麗なんだ。このまま目が見えなくなっちまうんなら困るが、そうでないならもう少し見ていたいくらいだが…でもなぁ」
「でも?」
「…お前の姿が見えないのが、俺は、そろそろ淋しいよ」

 そりゃあ正直過ぎだよ。ギンコはそう思った。だって、お前は隠してるつもりなんだろう。言うつもりなんかない癖に。俺がとうに気付いているそのことを。

 眼差しも気配も気付かれぬように、ギンコは息を殺して化野の顔を眺めていた。俺だって言うつもりはねぇんだ。だからお前が見えるようになる前に、とっとと旅に戻るつもりだったのにな。お前がああして引き止めるからだ。引き止められ、それを振り切らないで、俺がこうして居座っているせいだ。

「なぁ、ギンコ」

 化野はぽつん、と、ギンコの名前を呼ぶ。

「なんだよ」
「お前は、どうして、来てくれたんだ?」
「蟲に憑かれちまったんで、来いとお前から、ふみが」

 見えないくせに、化野は正確にギンコの方を向く。

「そんなことは書いてない」
「…そうだっけ?」

 実際そのふみは見てないのだ、本人が書いてないというのなら、書いていないのかも知れない。虚守がくれた走り書きにも「『来い』とあった」などと書かれていたわけじゃなかった。

「いや、けどな、どうやら蟲に憑かれたらしくて、眠れずにいると分かったら、そりゃ俺だって」
「お前、冬は来ないと言ってたのに」

 そうか、言いたいのは、お前の聞きたいのはそこか。やっぱり振り切って発つべきだった。それを俺に言わせる気なら、お前が先に言うのが筋じゃねぇのかい。

 ギンコは黙っていた。寝たふりでもしてやろうかと思って、黙って化野の顔を眺めていた。わざとらしくても構うものか。先に言わされるのはごめんだからな。化野はどうやら全神経を集中して、ギンコの気配を窺っている。ギンコの気配だけを。

 あ、こりゃ、やべぇかな。

 ギンコがそう思った途端、部屋に満たされた闇の中のあちこちに、きらきらと光るものが見えてきたのだった。


その蟲の名前をユキツゲという。
見られることで力を得て、
分裂するように無数に増える。
放っといてもじきに離れるが、
払うには、その姿を「見ない」こと。
目に映しても心に「映さぬ」ことだ。

 
 見事なまでに、それはほんの一瞬。闇のところどころに、銀粉を零すように、ぽつ、ぽつ、と。それがだんだん大きくなって、ひとつひとつがよく見えて、美しい雪の結晶の形に。あぁ、確かにこりゃあ綺麗だ。見惚れても仕方あるまい。これを見るのをやめて、急いでここを離れるなんて、出来ないくらいに美しい。

 ユキツゲはその名の通り、雪の訪れを告げる蟲だ。今夜は雪になるだろう。ギンコは小さく吐息をし、一度温い布団から抜け出して、己のそれを化野の布団の方へと寄せた。

「こりゃあ今夜は冷える。…寒くなるよ、化野」

 



 




 
 どうも誘い受けのギンコになりそ…v ま、たまにはいいでしょうよ。自分が言うことになるのなら、それより先に化野に言わせてやる! などと、おかしなこだわりのギンコであるらしい。幸せそうで何よりですが、ずっと前から気付いていたとか、それ、幸せ過ぎだろ?!
 
 ま、たまにはいいでしょ。おや、二回言いましたよ?


12/11/18