ユ キ ツ ゲ 2
よくない風邪をひいたらしい
これはすぐに人に移る風邪だから
暫し一人にしておいてくれまいか
なぁに、よく養生して治したら
俺の方から顔を出すよ
化野はそう言って自分の家から人を遠ざけようとした。あの光るものが、他へ移るものなのかどうかは分からないが、そうしなければ不安だったし、自分が何か得体の知らぬものを目に映しているのを、知られるのがどうしてか怖かった。
隣家のものは、具合の悪そうな化野を酷く心配して、日に一度は縁側に食べ物を届けると言い、彼はそれへ仕方なく頷いてみせる。夕になり、飯と汁物と焼き魚が、一枚の盆にのせて運ばれてきた。化野は障子を少しだけ開け、そこへ置いてくれるように言い…。
「す…、すまんなぁ、助かるよ」
そう言いながら、逃げるように視線を逸らす。割烹着を来た女の姿、夕日に照らされて足元から延びる彼女の影の中に、あの白く光るものが見る見る零れ出したのだ。
目を逸らし反射的に目を瞑ってまた思い知った。影の中に、あの白いものはいるのだ。人の影の中、己の影の中、瞼を閉じた暗がりも影だ。夜が来れば、そこら中を埋め尽くす闇も、すべては影。
そんな気にはなれなかったが、折角届けて貰ったのだから、と、化野は夕餉の膳を何とか平らげ、茶碗を洗おうとして、また慄いた。火を灯さぬ土間の隅の暗がりに、ちらちらと光るあの白いもの。がちゃ、と盆をそこらに置き、化野は慌てて囲炉裏の火を行燈に移した。
火を灯すと明かりが生まれ、それと同時に影をも作る。影にはあの白いものたちが居る。見ないように見ないようにと化野は行燈の強い光だけを凝視した。瞬きすら惜しみ、目が痛むほどに強く見つめた。
蟲。あれは、蟲か…? なら、どうしたらいい?
どうすれば消えるんだ。放っといてもいいのか?
いや、ギンコに文は書いたのだ。来てくれるだろう。
今、きっとここへと、向かっているさ。
心を落ちつけようと、そう思った傍からまた不安になる。そういえば、文にはなんと書いたろう。不安な気持ちを抱えて書いたのを覚えていて、けれど、どんな文面だったのか思い出せない。つい夕べの事だというのに、どうしてだろうか。
あぁ、そう…。そうだ。寒くなったと書いたのだ。お前はどうしているかと書いた。俺は少々風邪気味だ。お前は風邪などひいていないか。何やらもう随分寒くて、こちらは雪の降るのが早そうだ。秋はもうとうに過ぎて、春はまだまだ遠いだろう。
確かそう書いたのだ。そして、大きな火鉢を取り出しに、夜遅く蔵へ入った、と…。そこからやっと、この白い光るものの事。
蔵で不思議なものを見た。見たことも無いほど綺麗で、ちかちか、ちかちかと不思議な白い光で、それを見たあと、目の中にそれが映ったようで、どうにも眠れなくて難儀していると。
あんな文で、ギンコは来るだろうか。あの時はもう蟲に憑かれたのかもと思っていて、あんなに不安で焦って書いたのに、その書いた中身はそんなだった。どうしてだろう。何故、助けてくれ、と書かなかったのか。
心配を掛けまいとしたのか? いいや、違うのだ。どれだけ不安を露わに書いても、お前は来ないかもしれないと思ったからだ。だって今は、冬だろう? もう雪の知らせも届く頃だよ、お前、この季節にここへ、一度も来てくれたことはないだろう? お前の言葉を思い出す。
次はいつかって? いや、暮れなんぞにゃ寄らねぇよ。
残り雪のあるうちゃぁ、まだまだ冬だ。
そうさな、早くとも、春の花が幾つか咲いてから。
知り合ってどれだけ経とうと、お前が来るのは、その言葉の通り、春夏秋。冬を見事に削り落とした、残り三つの季節に限られた。そういえば、今に至るまで、一度も理由を聞いてみたことはなかった。
助けてくれ、ギンコ。
お前は来てくれるか?
俺の為に、冬でも構わずここへ…。
そうだったんだ。俺は「それ」を言うのが、怖かった。
行燈を置いて、化野は固く目を閉じ、瞼の上を手で覆った。白い雪の結晶が、音もなく黒い視野に広がり、彼の見る暗がりを埋め尽くした。ちか、ちか、と。ゆっくり一つずつ、回りながら、ちかちか、ちかちか。痛いほど。
眩しい…
眩しくて堪らない。
昼間、目を開けて過ごしていても、物の陰や薄暗がりにはそれが見える。目を閉じれば瞼の裏に見え、日が落ちれば夜の隅々、視野のあちらこちらから、ちらちらちかちかと「それ」が現れて彼を悩ませるのだ。
夜が更けて闇が濃くなればなるほど、その光はあまりにも強く、眼球を刺すように鋭くなった。
「…痛、い」
本当は、痛みとは違うのかもしれないが、あまりに辛くてそう思う。
「くるし…い…」
息までうまく吐けていないように思える。辛ければ人は弱るのだ。体も、心も弱って恐怖する。俺はこのまま、どうなってしまうのだろうかと。
四日目、まだ夜よりはマシだった真昼の視野をも「それら」が浸食し始めた。どれだけ日差しがあろうと、強い日差しのあたらぬ影の中からその日向へと「それ」は、じわじわと広がって行った。
五日目に、化野の視野は一欠けらの残りも無く「それら」で埋め尽くされた。あれほど美しいと思えていた「それ」は変わらず美しいままで、それゆえ一層、恐ろしい。ふみには書けなかった言葉が、心の中で行き場を探して彷徨っている。

助けてくれ
ギンコ
ここへきてくれ
ギンコ…
「無事か、化野…っ」
その五日目の夕、ギンコが化野の家を訪れた。投げ捨てるような勢いで縁側に木箱を下ろし、ここへ来る前に用意してきた様々を、板の間の上にぶちまける。実のところ、ギンコにこの状況や、化野に憑いた蟲の種類が特定出来ていたわけではない。
眠れずにいる、ということと、今の季節とこの里の環境と、様々を己が知識と照らして、可能性の高い順にあたりをつけただけのことだ。無駄になるのも承知の上で、二、三種の蟲に処置できるだけのものを携えてきたが、その品々の殆どすべてが無駄になったと分かった。
「化野、お前、暗がりで光る雪の結晶を見ただろう」
「…っ…の、声…。ギ…ギン、コ…?」
化野は床に置いた枕に、横向きに頭を置いて蹲り、目の前に大きな蝋燭を一本灯していた。薄い晒で目を覆って、その下では恐らく目を開いている。薄目を開け、その目の前で炎を灯し、煌々としたその光を見ながら、化野は蟲の放つ光を軽減させていたのである。
闇の中にある光は、刃物のように眩い。
一方、光の傍にある光は、比べれば柔らかだ。
「…あぁ、俺だよ。蟲のことなんざ知らねぇくせに、中々の対処だな。そうしてりゃちらちらするのが弱まって、少しは休まるだろ。人を遠ざけてんのは何でだ? 里のもんが心配していた。心配いらないと言ってはおいたが」
「う、移るかと」
「移らねぇよ、それから?」
澱みなく、ギンコは問うた。問われてほろりと、化野の言葉が零れ落ちる。それを聞いて、そうと分かっていたように、ギンコは短く溜息を吐いた。
「…無理もねぇ…。怖いだろ…?」
「うん…。すまん…ギンコ」
どうして自分が詫びたのか、化野には分かっていなかった。酷いことを言ってしまったような気がして、心臓の鼓動ばかりが騒いでいた。だから今更のように、こんなことを呟く。
「き…来てくれたんだな…、ギンコ…」
「当たり前だ」
心配で、などとギンコは言わなかった。冬なのに、とは化野は言わなかった。
「眠りを奪って、数日程度でヒトを衰弱させる蟲もいる。人間てのはある一定以上の休息が取れなきゃぁ、死ぬこともあるんだ。知ってるだろう、医家先生」
そしてギンコは化野の体に手を添えて起き上がらせ、彼の目元を隠している晒を解いた。この晒はものを見ないようにするためじゃない。閉じた瞼で外の光を遮らぬよう、目を開けたまま、少しでも休むための工夫である。目を閉じて闇を作れば、ユキツゲが更に光を放つだけだ。
「俺が、見えるか?」
「見えない。白く光るものが目の前を覆ってて、その一つずつが光りながら、回っている。ずっとこうだ、あれから、ずっと」
「なら、こうすれば…?」
薄っすら開いている化野の両目を、ギンコが手のひらで覆う。化野はギンコのその手を払いのけ、痛い、と言った。
「い…ッ! さ、刺すようだ、痛くて」
「痛ぇのはまやかしだ。人間てのは辛けりゃ辛いほど、強く目を閉じるからな。閉じて瞼の下の闇が作られりゃ、そこはその蟲の棲みやすい寝床となる」
化野の目が、明かりを探して彷徨うのを見ながら、ギンコは言った。
「『それ』は見られることで力を得る蟲だ。払う方法は一つ。『そいつら』を暫し『見ない』こと」
見えない視野でギンコの声のする方を向いて、化野は苦しげに唇を戦慄かせた。そんな、一体どうやって? 目を閉じていてさえ目の中に見え、瞼開いていても既に「それ」しか視野に見えぬものを、どうやれば、見ずに済むものか。
「心に、映すなと、言ってんだ」
続
うちのギンコは、化野に「冬に来ない」理由を告げていません。というか、きっとそれをはっきり言うなんてことはないと思ったんです。ただいつもはぐらかす様に「次は春にな」なんて言って背を向けてるんだよね。
気にしていないつもりで、そんなことを実は気にしていた化野先生でした。好きなヤツのことは、何だって気になるのさー。
そして化野がギンコに詫びを言っている理由…。なんでしょうね。答えはラストまでに分かりますよ〜。あぁ、書くの忘れないようにしなくちゃ(えっ)。
※追記 こいもさんに描いて頂いた絵を、挿絵として挟んでみましたー。
わーいわーい、惑さん大興奮っ。ここが一番しっくりきたのですが、
これで合ってるでしょうかねっ。
12/11/14
