現の夢   3 





 指が痛かった。全身から力が抜けるようで、立ち上がるのも大変だった。空腹は感じなかったけれど、何日も何日も身を縮こまらせていたから、あちこち酷く痛んで、顔をしかめながら化野は山道へと転がり出た。
 
 力が抜けているのは、安堵のせいもあるだろう。深く長く息を付いて、周りの木に掴まりながら家への道をなんとか歩いた。動けないでいる間に彼が見ていた風景は、時期も順序も目茶目茶だったが、現実は?

 捕まった時のままではないようだ。あの時は確か朝方だった。横道にそれたとき、草の露が裾を濡らしたのを覚えているから。でも、今はどうやら夜らしい。灯りも持っていないので足元が危ない。木に掴まるのにも手探りなのだ。

 半日、たったということか? それとも、もっと…何日か? 何日か経っているのなら、里人達は困ったろう。それに、心配して探してくれただろう。詫びと礼とを言わねば。ギンコが来ていなかったかどうかも聞かねば。

 山道を出れば、最初に自分の家がある。見れば灯りが灯っていた。やっぱり皆に心配を掛けたのだ。きっとあれは、ここで彼の帰りを待ってくれている、隣家のものが灯したもの。そして何人かが山や海など、探してくれて…。

 化野は力の入らない四肢をはげまして、庭の方から縁側へ近付いた。半分閉じた雨戸の内に、その時、何かが見えたのだ。ぱたん、と力なく投げ出される白い腕。あぁ、やっと会えた。ひと目で分かる。あれは、ギンコの…。

「ギ、ン…っ…」

 声を掛けようとしたその時、投げ出されたギンコの片手の、その指に、指を絡める他の手が見えた。その着物の袖の藍も見えた。それは、酷く見覚えのある袖だった。

「化野…。お前な…」

 ギンコの声が聞こえる。しっとりと、そして少し困ったように彼の名を呼ぶ声。そしてその声に答える言葉が、聞こえてきたのだ。そこにいるはずも無い『化野』の声が。

「いいだろう、本当に会いたかったんだ。…ギンコ」
「何言ってんだ。こ…の…」

 聞いていた化野の体から、どんどん力が抜けていく。元々立っているのも辛いくらい、疲れているのに。そうか、違うのか。これは疲れのせいじゃないのだ。無力感というやつだ。そして絶望とも言うのだ、これを。何が起こっているのか、やっと化野は気付いた。


 違う ここは…
 俺の戻るべき場所じゃぁ…
 …ない……。


 俺は「俺」が、ちゃんといる場所へ出てしまったのだ。ここでは俺は、異質なもの。だからきっと、こんなに体が重いのだろう。世界が俺を、拒絶しているからだ。

 あんなに会いたかったギンコは、すぐそこにいる。だけれどあれは、俺のギンコじゃないのだ。戻りたいのは、ここじゃない。でも、どうやって戻る? あの黒い蟲は逃げてしまったのだ。土の中から俺が暴いて、逃がしてしまったじゃないか。

 ギンコはちゃんと、元の俺の世界にいるのに、このままで「俺のギンコ」には、もう二度と、会うことはでき…なく…? それに、ここは俺の里であって、けれど俺の里では無い。

 どうしようもない絶望が、化野を一気に飲み込んだ。小さく沢山の星が散りばめられた夜空も、懐かしい夜の里の風景も空気も、そして住み慣れた家も、大切な人の姿や声も、何もかもが消えた。

 残ったのは自分の身一つ。そして柔らかな暗がり。真っ暗な中で、闇だけが心地よいもののように思えて、化野は何も考えずに横たわる。狭い空間じゃないことが、酷く素晴らしく恵まれて思えて、こうなれば体までも、捧げて構わないと…。


「……か、……まえ…っ、……めん、な…!」
「ねむい…」
「…るなよ…、…の…っ」

 煩い。誰だ。化野はそうとしか思わない。

「も…、ね…むらせ…て…」
「…なら…っ、おれをっ」
「…だ、れ?」

 俺って? 誰? 
 胸に何かが満ちる。
 熱いものが流れ込んでくる。

「おれを、そのうでにだいてねむれ…っ」
「ギン、コ…?」

 見開いた目に映ったのは、雪の色と、翡翠の色。翡翠は透明なもので濡れていた。それを見た途端、彼を覆っていた闇は、紙を裂くように簡単に破れて、何処かへ消え去っていったのだ。

「あれ…? ギンコ?」
「……あれ、じゃねぇよ…馬鹿が…」

 見れば、ギンコの手の指は、全てが黒い土で汚れていた。そして傍らの角瓶に、化野も見たあの黒い小さな蟲が、何匹も。

「あぁ、一匹じゃ…なかった、のか…」
「…七匹だ。お前の周りを覆うように土に潜んでいた。全部掴まえたのに、お前が諦めてたんじゃ、助けられるもんも助けられなくなるんだ…っ」
「…なる…ほ…ど」

 その言葉を最後に、かくん、と化野は意識を飛ばした。ギンコは彼の体を包むように抱いて、ぽろりと、一粒の涙を零した。




「あれぇ、先生、こんな時間から眠ってんのかい? 珍しいよな。薬草採りにせい出し過ぎたとか?」

 随分と陽気に現れた青左は、化野の寝顔を見て意外そうに首を傾げた。

「折角、大根と蕪を持って来たのに、先生もほんとに間が悪いよなぁ。こっちの野菜はいいとして、その焼き魚は冷めちまうだろうにさぁ」

 青左は何でか、山道で行き合った行商から、野菜を買い過ぎたらしい。売り歩いていたのが若い女で、それが凄く可愛い娘だったので、ついついだと言って笑っている。

 大根と蕪を受け取り、青左が坂を下りて行ってしまうと、ギンコは化野の方へ向き直って、今までだって何度もついた、安堵の息をつくのだ。本当に危なかった。今もこうして、無事に救えたのが信じられないくらいだ。

 影囲いの空間に飲まれると、飲まれたものはその瞬間から、誰にも姿が見えなくなる。中から外へは、声すら届かなくなってしまい、その場所に染み付いた記憶のようなものを見せられながら、少しずつ生気を奪われていくのだ。
 
 何も知らないはずの化野が、地面を掘ろうと考えたのは軌跡に近いことだった。掴まえられて逃げ出す影囲いの一匹を、たまたまそこにいたギンコが見たのも奇跡だ。そうでなくばいくらギンコでも、化野が囚われている場所を特定できなかった。

 一匹を捕らえられそうになって、残る六匹も必死になったのだろう。過去ではなく、しかもその場所でもなく、あの場所から少し離れたこの家の、未来を化野に見せたのだ。そう、あれは未来だった。ほんの少しだけ先の、未来…。

「ん…。ギンコ?」
「起きたのか? 焼き魚と、糠漬けにした魚と、生干せにした魚を貰ったぞ。あと、青左が来て、この蕪と大根をな」
「蕪と…大根…?」

 最近どこかで見たような、と化野は思ったが、そんなことは今はどうでもよかった。魚だってどうでもよかった。何しろ今、ギンコが目の前にいるのだ。

「…ギンコ…っ」

 押し倒すと、ギンコは黙って仰向けになった。でもその目には、酷く呆れた表情が浮かんでいる。

「化野…。お前な…」
「いいだろう、本当に会いたかったんだ。…ギンコ」
「何言ってんだ。こ…の…」

 シャツを捲って胸を吸うと、嫌がる素振りはそのままに、ギンコは声を途切れさせる。

「お前の声、聞こえてたぞ、ギンコ…」
「……あー…忘れる気ぃ、ねぇか?」
「嫌だとも。ずっと覚えておく。死ぬまでずぅっと覚えておくぞ」
「…て、めぇ…」

 いきなりギンコが、普段以上に口汚く言って、化野の額を叩いた。随分といい音がして、さすがに化野も怯んだ。

「死ぬまで、とか、言ってんじゃねぇよ…っ。ついさっき、死にかけだったお前が!」
「あ、す…すまん…」

 でも、嬉しかったんだ。あの時、はっきりと言われたことが。

  
 俺を、その腕に抱いて眠れ。


 あんな言葉、きっと二度と聞けないと思うと、余計に大切で。

「馬鹿。あんなのは…。何でもない……」

 言い掛けた言葉を途中で飲み込んで、ギンコは化野の頭を抱いた。胸に愛撫を受けながら、自分でもあの言葉を忘れようと努力する。あんなことは、思ってはならない願いなのだから。


 馬鹿、お前、諦めんな
 眠るなよ、化野
 眠るなら俺を
 その腕に抱いて

 眠れ …


 諦めるなと言いながら、ギンコはあの時言ったのだ。どうしても救えないのなら、死にゆく化野と共に、自分もここで死ぬと。そんなギンコの思いなど微塵も知らずに、化野はのほほんと言った。

「なぁ、すればきっといい塩梅に腹が空くから、焼き魚と酒でどうだ? ギンコ。蕪と大根は、明日にでも…な?」
「…あぁ、そうだな」

 ギンコはそう言って、今度こそ体の力を抜いた。この腕に抱かれて眠るのではなくて、この腕に抱かれて「愛される」ために。













 いやあー。こんな展開になるとは。もう助かったと思った化野先生が、ますますチンピに…! じゃねぇ、ピンチに陥ってしまうもんで、惑い星はマジで焦りましたー。

 こんなこともあるのね。油断は出来ないよ。しかもギンコ、あの言葉は心中願望だったのか! それも知らなかったよ。君ら、ほんとに驚かしてくれるね。面白かったわ。さんきゅー。って何言ってんだ、の後書きもどきでしたー。

 ありがとうございましたー。



11/09/23