現の夢   1 




 昔、俺を連れて歩いていたある蟲師が言っていた話。

 草はらの真ん中や、山道から逸れた草の中で、じっと動かない兎がいて、それをお前が見たとするだろ? そしたらお前、どうするね。あぁ、まぁそうだろ? 喰いてぇから掴まえにいくよな?

 まずまず逃げちまうだろうと思いながら、もしかしたら足かなんか怪我して動けねぇかもしれねぇし、そしたら晩には美味い兎が喰えるんだ。無駄足でもなんでも、きっと行くわな。

 だがな、そいつは危ねぇ罠だ。いやぁ、蟲にはそのつもりはねぇさ。蟲はただその兎を捕まえて養分にしてるだけのこった。けどそこへわざわざ行って、うっかり手なぞ伸べてみりゃいい。そしたら今度はお前が『餌』さ。

 逃げる兎の背を眺めつつ、お前は二度と、うつつへは戻れやしねぇんだよ…。




 山中で、ギンコは不快そうに額を押さえながら起き上がった。酷い頭痛だ。あんな嫌な奴の夢を見たのも、きっとそのせいなんだろう。何人もの蟲師や、蟲師紛いの奴に連れ歩かれたもんだが、その中でも後ろから数えてすぐの酷ぇ奴だったと覚えている。

 覚えていたくもないのに、覚えているのだ。

 折角、もうすぐ化野の里で、昨夜はいい気分で寝たっていうのに、夢に出てまで嫌な奴だ。などと、心で散々に悪態を付き、ギンコは気を取り直し、足を速めてその里に入った。

 と、化野の家へと向かう坂道を、二人の里人が下ってくる。二人して魚の入ったざるを持っているが、ギンコを見ると、ぱっと顔を明るくして声を掛けてきたのだ。

「おぉ、そこを来るのはギンコさんじゃないか?」
「ほんとだ、やぁ暫くぶりだね、ギンコさん。生憎だが先生は留守してるよ。まぁ、もう戻ると思うけど」
「あ? 往診かなんかか?」

 ギンコはほんのちょっと、がっかりしながらそう言った。

「薬草採りに行ってるとさ。縁側にそう書き付けが置いてあった。折角魚を持ってきたんだけど、腐らせちゃあれだから持って帰るとこだ。それともギンコさんがさばくかい?」

 ひょい、と覗くと、ざるの中は大きな魚の山だ。よっぽど大量に獲れたらしいが、魚をさばくのは得手じゃない。そのまま焼いて噛り付くには、多過ぎるしどれも大きすぎる。ギンコの顔を見ていた漁師たちは、ははは、と笑って彼と擦れ違う。

「さばいて塩漬けにして後で持ってくよ。今夜食べる分も、それなりにしとくから、先生が戻ったらそう言っといてくれ」

 ギンコはまた歩き出しながら、夕餉を今から楽しみにする。だからここの里に来るのは好きだ。行くたび受け入れて貰えて、美味い飯に酒、何の心配も無く安心して眠れる寝床、それに…。

 それに、この里には、あの家には化野がいる。いつ来ても、心から喜んで迎えてくれるあの男が。喜ぶどころではなく、どうしてもっとこれないのかと、こんなに焦がれているのに、と、酔うたびに絡んでくるくらい、ギンコを想ってくれている化野が。

 薬草採りか、どこら辺で採るのか、そういや前に聞いたっけな。ギンコはそう思って、化野の家には入らずに、歩いている道をそのまま進んで山へと入った。すぐにも会いたい想いを抱いて、家で待つより迎えに行こうと思ったのだ。

 そして、山に入った一瞬に何かを感じて、ギンコは息を詰める。あいつが家に戻ってないのは、本当に薬草採りだけの理由か? それとも、何かが…。不吉の象徴のように、夢で聞いたあの声が、ギンコの耳に響いた。

『今度はお前が「餌」さ…』




「ん?」

 腰にくくりつけた小さな籠を傾けて、摘み採った薬草をそこへと放り入れる。そんな仕草を繰り返し、いつの間にか随分時間が経っていたらしい。それに気付いたとき、化野は草の中に小さな耳を見つけていた。

「兎か。…どうした? お前、怪我でもしたか?」

 ほんのあと数歩で手が届くところに、蹲っている様子の兎。人に慣れぬ野の兎が、こんなに近くへ人を寄せて、それでも動かないときたら、死んでいるか怪我しているか、二つに一つと決まっている。黒い丸い目が、真っ直ぐ化野の方へ向いていて、その可愛らしさに化野は背を屈めた。

 何処となく弱って見える兎。逃げられないどころか、弱って動くことも出来ないのかもしれない。連れて帰って手当てしてやって、治るまで面倒をみて、それから山に放してやれればいいよな、と、化野はそんなことを考えて…。

「よしよし、よし、怖くないぞ。怪我なら治してやれるかもしれんからな。診せてみるといい、こう見えて俺は医家だから、な」

 人の子供に話しかけるようなことを、思わず知らず口走って、自分で自分を笑いそうになる。

「よぉし、よし、いい子だ、こっちへ…。痛…ッ」

 兎に手が触れた、その時。ぱしん、と小さな痛みが手のひらに響いて、化野の体は動けなくなったのだ。

 いや、動けないわけじゃない。ただ「そこからは」動けなくなっていた。まるで、見えない籠をでも、頭からすっぽりと被せられたように、地面に座り込んだ格好のままで、腕を遠くへ伸ばすことも出来ない。訳も分からず戸惑うその目に、よたよたしながら遠ざかる、兎の背中が見えていた。

「なんだ、これは」

 問おうとしても、傍には誰もいない。山道のすぐ脇だから、目の前に道があるが、今は誰の姿も無かった。

「どうしたらいいんだ?」

 彼は一人だ。返事が返るはずも無い。

「俺はもしかして、蟲に捕らわれたのか…?」

 だとしても、頼りのギンコはどこの旅の空なのだろう。

「……おおーいっっ! 誰かっ」

 叫んだが、その声は何か洞の中ででもあるかのように、反響して籠もって聞こえた。この声は、きっと自分以外のものに届いていない。もしかしたら、俺の姿も…?

 そんな恐ろしい想像が頭を掠めた。蟲の作った空間に、もしも捕えられてしまったのなら、それだって有り得ないことではない。

「う、嘘だろう…」

 怖い、と、そう思った。体が震えた。そういえば温度も感じない。目の前の草は風に揺れて見えるのに、肌に風も感じない。山の湿った匂いもしない。

 立ち上がろうとしたら、頭が何かにつかえた。膝立ちがせいぜいらしい。様々な方向へ腕を伸ばそうと試みても、すぐに指先が何かにぶつかる。何やら筒状のもので覆われた感じで、見えない壁に散々触れ、その壁を力いっぱい殴ってみるも、出られそうな気配はなかった。

 そういえば…あの兎は、酷くぐったりしていたんじゃなかったか。今の化野のように捕らわれて、あんなに弱るまで捕えられていたのかもしれなかった。もしも彼が手を伸ばさなければ、餓えて死ぬまであのまま。

 つまり、今、兎の代わりに、こうして捕らわれた俺は…?

「いや、まさか…」

 ははっ、と笑いかけた声が強張っていた。諦めては駄目だと奮い立ち、見えない壁に触れ続けた。逃げる糸口を探さねば、と、化野は必死だった。そうするうちに随分時間が経つ。だが、時間が経ったはずなのに、日の陰った様子はない。

 脚を伸ばすことも出来ず、膝を抱え、見えぬ壁に体を寄り掛け、ぼんやりと山の風景を見ていたら、目の前の山道を誰かが歩いていた。

「あっ、青左…っ。おおいっ」

 よく知った顔に化野は歓喜した。そして名を呼んで叫んだ。

「助けてくれ、ここから出られないんだ、青左ッ」

 青左は背中に籠を背負って、見知らぬ娘と歩いていた。娘の格好からすると、近隣の里から何かを売りに来た行商だろうか。青左の背の籠は娘のものらしい。丸々とした大根と蕪がいくつかずつ入っていた。

「青左…っ! 聞こえないのか、青左ッ」

 青左も、娘も脚を止めない。それどころか化野の方を向きもしない。そうして声を限りに叫ぶ化野は、またもそこに取り残され、知らぬ間に辺りは暗がりだった。

 あぁ、やっぱりか…。

 酷い落胆と共に化野は思っていた。ここに掴まった時から、俺はこの外の世界とは、切り離されたも同然なのだ。だから声は届かない。時間の感覚も明らかにおかしい。ずっと真昼に見えていたのに、気付けばいきなり、ここは夜だ。

 膝立ちになっていたのを、またもそもそと、尻を地面につけ、膝を抱えて、化野は後ろへ寄り掛かった。


 お前、どこにいる?
 頼ってすまんが、どうやらお前でなくば
 どうにもならんらしい…。
 俺がここで、餓えて死なんうちに、
 助けてくれよ…。

 なぁ、ギンコ。






 









 化×ギはやっぱり連載していたいので、また新連載でーすっ。ほぼなんも無いところから、無理にひねり出したので、禿げるかと思ったでーす。いや、違うっ、嘘うそ。

 蟲名から引っ張ってきました。「影囲」です。この蟲名をタイトルにしなかったのは、単に、陰桔梗ってやつを今、連載しているので、「陰」「影」でダブるよなって思ってしまったからですー。…「影囲」って、私、この名前、まだ使ってませんよね?(聞くな)

 まぁ、使うの二度目だとしても、気にしない方向でっっっ。そしてこういうふうに、蟲に閉じ込められる話は、どうしても多くなってしまいますが、大抵、ギンコが捕まるので化野にしてみた(そんな理由か)。

 難しいんですが、これにはいろいろと見どころも作りたいと思ってます。頑張るよ! ではでは、また(サイト内外の)どこかですぐにお会いしましょう〜っっっ♪ ←ハイテンション


11/09/04