… 9
もっとなりふり構わずに、止めればよかったのか。嫌だと叫んで、駄目だと喚いて、危なかろうと何だろうと、しがみついて止めるべきだったのか。俺を助けようとしてお前が死ぬなら、いっそここで二人死んだって、構いやしないんだと何故言わなかったんだ。
喚き出したいに、声が出ない。身を乗り出して、お前の姿が見ていたいのに、体が動かない。風の音も、遠い波音も邪魔だった。息をする音も、心臓の鼓動も煩かった。それらに紛れて、お前の立てる音がちっとも聞こえてこない。
もしも、お前が落ちたら。
もしも、手を滑らせたら、
足場が崩れたら、強い風が吹いて飛ばされたら。
お前が、もしも…。
もしもそうなら、俺も、逝く…。
俺がお前の後を追ったら、あの世でも来世でも出会わないと言ったな。そんなものを自分勝手に決められてなるものか、お前が嫌がって逃げて行っても、どこまでも追い縋って、また絆を結んでやるさ。だって、俺は、お前を、こんなにも。
好き、なんだよ。
そんなことを激しく思っているからだろうか。吹き付ける風は冷たくなど無かった。寧ろ投げ出している足の方から徐々に上へと、温かなものが満ちていくような気がした。
目には見えない何かで包まれていることを、化野は知らない。それは満ち溢れる、小さきものたちの命だった。
そうしてギンコはそれを見つめながら、慎重に、慎重に下りて行く。海の波が岩に弾けるごと、その蟲たちは増えた。空気中を漂いながら集まるものたちもいる。
漂う光酒の匂いを、最初不思議だと思ったが、なんということはない、つまりはギンコの投げ捨てた木箱のせいだ。調達したばかりで、幾つかの小瓶に入れて持ち歩いていたのが、木箱が壊れるか何かして割れて飛び散って、振り撒かれた。
光脈筋でもないこんな土地で、こんなにも強い光酒の匂いがすれば、蟲どもそりゃあ、狂喜して寄り集まる。ましてや嵐で山も海も荒れた後、蟲たちも弱っていただろうから、尚のこと。
厄介なのが寄らなきゃいいが、と、そんなことまで考えて、金色の蟲がくれる光の中を、また一歩、とギンコは下へと降りていく。
もうどれだけ下っただろう。やがて、全体重の掛かった腕が酷く痺れて、風が強くて寒いのか、無茶を強いてる体が暑いのか、よく分からなくなって、ギンコは岩に額をつけた。休むとかえって視野がぐらつき、無理でも動こうと息を詰めて…。
その、時だった。
「居たぞぉーーーーーーッ」
人の声が聞こえたのだ。それは太い男の声だった。やや遠くからだったが、確かにはっきりと。
「あそこだ、確かに居るっ、岩棚の上だ…ッ」
「…無事かっ、せんせぇーっ」
ギンコは振り向いて、後ろを見ようとした。後ろで、しかもまだ少し遠い、下を。波の揺れる水面をだ。だけれど何も見えなかった。自分の周りには丁度松の木が茂っていて。
あぁ、助けだ。助けが来た。化野を。あいつを、助けに来てくれた里人の声が。これでもう大丈夫。岩に縋り付いていたギンコの指が緩んだ。尖った岩に掛けていた足から力が抜けた。もう、いいのだ、と、そう思って。
そうしたら、今度は上から声が降ってきた。酷く擦れた弱弱しい声で、それでも必死で叫んでいた。
「ギっ、ギンコが…。ギンコがいるんだ…っ、ここからもっと下に! 探してくれ、俺は後でいいから…ッ。頼む…っ、頼むからっ、頼むから…っ」
「…なっ…」
馬、っ鹿か…っ。あいつ…ッ。
本当にそう思った。自分が正に死にかけているのに、俺のことなんか、忘れておけ、と。思った瞬間に手が滑って、ギンコは松の枝に縋り付いた。ぶら下がった格好で、波間に揺れる舟だか何だか分からないものが、やっと見えた。
海に慣れた若い漁師達が数人乗っている。そのうちの一人が松明で波を広く照らして確かめ、他の二人が縄を体に巻いて飛び込んだ。荒れる海面に翻弄されながらも、必死で泳いで岩場に上がり、縄をしっかりとそこらに結び付ける。
「おーいっ。おーいっ! 見えるかッ」
大きな声で誰かを呼びながら舟の上の一人がまた大きく松明を振る。男は山中の何処かで、同じように松明が振られる灯りを見つけた。山の側から、なんとか近付こうとしている里人達の灯りだ。声は届かないがそれでも多分、通じ合えている。
「おい、そこっ、ギンコさんじゃッ」
「おおっ、居たぞっ、ギンコさんも居たぞーーーっ」
「近いぞっ、まずギンコさんからだ、ギンコさんをっ」
あぁ。馬鹿な。俺のことなんか、どうだって。もう、この手ぇ、離してやろうか。見てる前で派手に落っこちて、化野だけを助けに行けるように、してやろうか。元々もう、限界なんかとっくに越えてんだよ。
「あぁ…っ。落ちたッ」
叫ぶ声が弾けて、そうして、急な岩場の斜面をギンコは落ちて、落ちて、尖った岩に打ち付けられる…寸前に、ぎりぎりで抱き止められた。まろぶように駆け寄った里の男が、自分の体を張って抱き止めたのである。
「…俺の、こと、なん、か…」
そう言った声など聞いてもいないように、里の男は大声で叫んだ。
「取った、取ったぞーーーっ、ギンコさんは無事だぞーーーっ」
取った、って、獲物か、俺は…。抱き止めたまま叫ぶ声が、耳をつんざく様に大きくて、きっとその言葉は、化野の耳にも届いただろうと、ギンコはそう思った。
その後は半分以上、意識が飛んでたような気がする。ただ波音と風の音と、のせられた筏のような舟みたいなものの揺らぎを感じ、化野救出の全幕を、皆の力強い声だけではっきりとギンコは聞いていた。
合図はすべてが見える波の上から灯りで伝え、山の上と、切り立った岩場、その両方からじわじわと、里人たちは化野の元へ近付いた。里のありったけを集めた縄やら網やら。縄が足りなくなりそうだったら、人々は手をしっかりと握って、自分らが綱の代わりになろうとさえした。
古着やなんかを巻いた薪で、急いで作った松明の沢山の太い灯り。それへ混じる蟲たちの命の光。一体、幾人が関わっているのかと、恐ろしくなるほどの沢山の人の声、声、声。
頑張れ、頑張れと、もう少しだ、と。
それは自分らの里の、ただ一人の大事な医家を助けるための声だったろうし、同時に里の仲間を救うための声でもある。でもギンコは、錯覚と分かっていながら、じんわりと目じりに滲む涙を感じた。違うって、俺はついでだって、分かってるよ。
すげぇな、お前。
思われてるな、お前。
だから言ったろ。
お前は生きるべきなんだ。
気付いたのは、自分の家の自分の床の中でだった。ぼんやりと天井を見て、最初に思ったのは、薬棚の中の風邪薬が残り少なくなっていることだった。あと、炭もそろそろ買いたさなきゃぁ、と。
その時ひょい、と、いつもの炭商人のガハチの姿が縁側に見えたから、化野はごくごく普通に声を掛けようとした、が、声が出ない。
「…が、は…、ぁ、あ゜……?」
「せ、先生気付いた…っっ」
顔を向けたのとは逆の傍に、誰かが座っていたらしい。唐突にそんな声が聞こえて、その途端、家のあっちからもこっちからも、いろんな顔が覗いたのだ。
「あぁ、大丈夫かいっ、まだ起きちゃぁ…」
「水、いや、白湯がいいよ、早く白湯っ」
「それとっ、すぐ知らせねぇとっ」
ギ ン コ さ ん に …
聞いたと同時に、どくん、と、心臓が跳ねた気がした。瞬間、視野が黒と白に目まぐるしく反転したのだ。息が詰まって、声どころか呼吸が出来なくなる。自分に何が起こっていたのかを、その時やっと、化野は思い出したのだった。
「あぁっ、先生っ」
「駄目だよぉっ」
心と体がうまく繋がってないみたいに、がたがたの四肢で、化野はそれでも布団から這い出て、さらに這って、障子に指で穴を散々開けながらも、立ち上がれずに、必死で。それを、はっきりと言って止めたのは、ガハチだった。
「先生。ギンコさんに会いたいんだろ。ずっと俺が、無理でもって言って、引き留めてたからな!」
やっぱり、な。
くしゃくしゃにした顔で、化野は思っていた。炭商人に心で礼を言いながら、あんまりだと心でギンコを責めていた。
分かるぞ、ギンコ、
俺が目を覚ます前に、
お前は、ここを去ろうと、
…してた。
続
ごめんなさい、この回で終わるとか、大ウソでした。下手?をすると、あと二話あります。端折っちまおうと思ったところを、結構しっかり書いてしまった私は、はっきり言って、ノベルに振り回されている。でも先生を助けようとするみんなの声に、涙ぐんでしまった気持ちが、分かるように書けているだろうか。
つまり彼は、この里が好きなんです。最後にしたくないんです。そして先生のように、自分もここで必要とされたい。あーぁ、こんなところに説明書いてるようじゃあ、駄目ですね。ものを書く人間としては。でも今回、ノッて書けたんで自分なりに満足。
よろしければ、もう少しお付き合いくださいませ。
13/03/24