… 10
ギンコはまだ、はっきりと覚めてはいなかった。けれど耳には、波音が繰り返し響いている。
ざざん、と、一つ。
此処にいてはならないのだと。
ざざ、と、一つ。
どこよりも此処が好きだ、と。
ざざん、ざざ。
ざざん、ざざ。
繰り返す。
真逆の想いを綴りながら、
波は寄せて、また還す。
その瞼が震えて、ふ、と開き、翡翠色の片眼が、床から高い天井を見上げた。どこ、だろう、と、ぼんやり思って、真上を見上げているだけでも、くたりと疲れる首に抗わず、軽く顔を横へ傾けた。
「……っ…」
途端に見えたのは、隣室に横たわっている…。
「…ぁ゛」
声はろくに出なかった。目だけは裂けるほど見開いて見た。白っぽい着物を着て、布団に横になっている「彼」の姿。瞼は閉じていて、着物の袷の中に白い包帯が幾重に巻かれ、袖から零れた腕にも包帯。頭にもだ。
枕のあて方が悪いのか、それとも、そのようにずれてしまったのか、やや不自然に斜めへ傾くその顔が、まるで。
… 死 ……
同じ家の中の何処かから、誰かの話し声が聞こえ、びく、とギンコの体が震えた。首は声のした方を向こうとするのに、眼差しは釘で打ち付けられたように、化野の姿から離せない。
落ち着け、違う。そんな訳がない。
大丈夫だ、ちゃんと、助けられた、筈。
だって、ほら、覚えているだろう。あの男はずっと、自分が助けられている間にも、ギンコは、ギンコは無事か、ギンコは、と、愚かしいことを叫び続けていたじゃないか。
そう思うのに、それでも視線が外せない。化野の体の上に布団が半分捲られて、胸の上まで掛けられていないのは、そこの骨が折れているからだ。負担の無いようにしてあるのだ。それで、ギンコは目を凝らした。ゆっくりと上下する胸を、確かにはっきりと見て、ようやっと強張っていた体から力が抜けていく。
生き、て…る…。
けれど、化野は酷い顔色だった。青いとか白いとかじゃない、もっと弱っているものの顔の色だ。胸や腕や、頭の包帯。包帯の巻かれていないところにも、あちこち擦り傷や打ち身の跡が見えた。何より、飢えと乾きと寒さとで、生死の境に触れるほどの目にあったのだ。
「ギンコさん? 気付いてたのかい、あぁ、よかった」
ついさっきも聞こえた声が、もっと傍で聞こえ、横からひょい、と男の顔が覗いた。見覚えのある顔だと言うのは分かる。でもすぐには誰だか分からなかった。
「あれ? 俺をお忘れかい、炭商人だよ。たまぁに先生の文も運んでる、ガハチ」
「あ…ぁ…」
ギンコの目が、一瞬だけ自分へ向いて、また化野へと戻って行くのに気付いたのだろう。ガハチは大きく笑って教えてくれた。
「化野先生なら大丈夫、つい明け方までは意識があったんだ。あんたの怪我の心配ばかりしてて、隣里から医家がついたと聞いた途端に、すとんと気ぃ失ったんだよ。つったって、疲れ過ぎて深く眠ってるだけなんだって、医家の爺さんが言ってたけどな」
「……そう、か」
それを教えてくれたことだけで、ギンコはガハチに一生感謝したいくらいだった。そうして彼は、呪縛でも解けたように、すい、と化野から視線を逸らし、顔を顰めながら身を起こす。ガハチは起きるなと言ったが、ただでは聞きそうもない。止む無く大声を出して、人を呼んだ。
声を聞いて入ってきたのは、里長と里長の息子と嫁。三人はギンコの布団の横で、畳に付くほど頭を下げた。疑って悪かった。里の大事な先生があんたのお蔭で助かった。これからも遠慮なく立ち寄ってくれ、と、重ねて語るその声に、嘘寒い気持ちがわいてたまらなかった。
でも、それらすべてが、
俺がこの里に関わらなければ、
起らなかったことだよ。
里長は、体がすっかり癒えるまで、自分の家に滞在してくれるように言っている。せめても客人としてのもてなしを受けて欲しいと。そうでなければ気持ちが済まないと。そんなもてなしを受ける気はなかったが、仮初にだけ、ギンコは頷いたのである。
あちらこちらに怪我をしている身で、体も疲れ切ってまともには動かない。顔を顰めながらだが、それでも人の手など借りずに起き上がり、ギンコはただの一度も化野の方を見ずに、その家を出た。
「ギンコさん…っ」
里長たちと共に、ゆっくりと坂を下っていくギンコに、後ろから追い駆けていたガハチが言った。それは刺さる一言だった。何よりも、今のギンコを縛る声である。
「無理でもここに居た方がいいんじゃないのかい? あの先生は誰より直ぐな人だ。何かあっても俺は止めねぇ。いいかい、それでも」
ギンコは軽く目を見開きも、項垂れながらもはっきりとガハチを睨んだ。知ったように、とその目が言っていた。ただのちょっと気に入った里じゃない。何となく気が合うだけの友じゃないんだ。自分の気持ちなんかばらばらに千切って捨ててでも、それでも、それでもいいほどの…。
あぁ、それでも。
だから。
怖くて堪らない。
このまますぐには去れなくなった。
お前はきっと、
酷い無茶をするに、決まってるから。
そう思っているのが、己が願望を隠した建前でないと、言い切れもせずに。
「……わかったよ…」
と、ギンコは言う。ガハチは、化野が目を覚ましたら呼びに行くから、と、大きな声をギンコの背中に投げかけた。
「ギン……コ…っ…」
何の言葉も無く現れた姿に、化野は布団の中で身をもがいた。起き上がろうとしているのだが、ちっとも体の自由が利かない。無理をするとすぐに息が詰まる。
「せんせいっ、駄目だよ無茶しちゃあ…っ」
里の女が慌てて駆け寄ってきて、化野の体を支えるのだが、起こして欲しいと訴えても、その願いは聞き届けては貰えないのだ。そうっとまた横にされ、まるで重病人の扱いだが、里に生還した後で、また意識を手放した化野のことが、誰もかれも心配なのだ。
化野は仕方なく、床の中から視線を向けたが、ギンコは縁側に立ったまま、化野の方を見ずにまだ黙って横を向いている。
「…ギンコ……」
化野の声は擦れていた。今も、この里にいてくれたギンコの姿を見て、胸に迫るものがあるのだ。
あぁ、ギンコ、ギンコ。お前も確かに死なずに、いてくれたんだな。崖から突き落とされた一瞬も、崖の途中で目を覚まし、寒さと飢えで弱っていく時も、ずっと死ぬのが怖かったが、それよりも、もっともっと、お前が居なくなるのが怖かった。
「ギ…」
「どういうつもりだったんだ…」
変わらず横を向いたまま、ギンコがぽつりとそう言った。見れば向けられた横顔は、あまりに硬く強張っていて、不機嫌そうに見えていた。
「どういう…って…?」
「あんなことをしてもらって、俺が嬉しいとでも」
「ギンコ、俺は」
言い掛けた言葉を遮るように、大きなため息をギンコは吐いた。迷惑そうにしている横顔を見るまでも無く、彼が何を言いたいのか、本当は化野にも分かっていた。俺なんかの為に、そんなことはするな、とギンコは言っているのだ。里を思うが故なら分かるが、俺の事で命などかけるな、と。
もしかしたら、死んだかもしれないと思った。
そうでなくとも、怪我をしたかもしれない。
その怪我は命に関わるようなものかもしれず、
更には居場所すら分からなくなるなんて。
生きた心地がしない、なんて、割によく聞く言葉だが、ああいう時にこそ、この言葉は使うものだろう。その程苦しかった。叫びだしたいほど、そのまま気が触れるのじゃないかと思うほどの。ギンコは何度も思ったのだ、自分さえ、お前に関わらずにいたなら、と。
「俺はな…」
「お粥が出来たよ、せんせ、粥ってより重湯みたいなもんだけど、ちょっとずつ食べたらいいよねぇ」
ギンコが何かを言い掛けた時、茶碗と箸と湯呑みののった盆を持ち、隣家の女が部屋に入ってきた。きりきりと張っていた緊張の糸が、ほんの少し弛んで化野はこう言った。
「あ、すこし冷めたら食べるから、そこ、置い…」
「…俺が食わしてやるよ、先生」
ふ、と笑みすら含んだその声にこそ、ギンコの感情が滲んでいた。それが「怒り」なのだと、化野もやっと気付いたのである。
続
次回で終わるかどうかも不安になってきました。本当にヘタレですまないっ。ギンコの想いが難しくって、探す旅に出ていたら文が伸びた(書きながら探すからだっ)。えぇ、ガハチさんgjだと思います。
そして里長かなり必死。いえ、本心からだと思います。うむ。それではまた次回。
13/04/09