終の夜語り
tsui-no-yogatari



… 8






 お前の里を騙そうとした男は、随分ずる賢いヤツだったんだろうが。信じた里人らは、ちっとも悪かねぇさ。人は誰しも、自分の大事なものを守ろうと必死になる。必死なあまり間違うこともあるだろう。間違っていると分かっていて、そのままそちらへ進むこともあるだろう。

 俺かい? 俺は間違ってやいねぇさ。散々汚れ切って、ちっぽけなこの命で、きらきらといつも眩しいお前の命を守れるってんなら、こんなに正しいことはねぇ。

 俺だって不死身じゃねぇし、ここから落ちたらそりゃ死ぬさ。でもな、じっとしてても死んじまうんだ。お前と一緒に飢えて渇いて、そうしてきっと、体力の残ってる俺よりも、お前の方が…先に死ぬ。俺の、見ている前でだ…。

 生き地獄みてぇなそんなもんを、黙って待ってられるわけがねぇだろ?

 波音、風の音、よくよく耳ぃ澄ませて聞くよ。どうしたら無事に下りられて、お前を助けられるのか考える。十そこらっから彷徨い暮らして、壁や屋根の内でなんか、殆ど過ごしてやいねぇ。そういう俺だったらきっと出来る。

 ほんのり光る小さな命たちよ、一見なんの助けにもならねぇようなお前たちも、今なら俺を導いてくれる気がするんだ。暗がりでふわふわと漂う蟲たちを、視野の隅に見ながら、ふ、と笑った。

 化野、お前の夜目が効かねぇで、本当によかったよ。食い入るように、貪るように縋るように、お前の姿を最後に見つめた俺の顔を、俺の目を、お前に見られねぇで済んだ。見えてたらきっと、お前はもっと止めたろうな。

 もう一瞬たりと傍を離れたくねぇ、と、そう思っているのが、多分、お前にも分かっちまっただろうから。

 不思議だ。下へ下へと下りるごと、こんなには居ない筈の蟲が増えてくる。力の無い、ただ光るだけの小さな蟲たちだが、まるで何かに寄せ集められているかのようだった。不思議に思いながらもゆっくりと下りて、やがてはギンコはその理由の一つに気付いたのだ。

 あぁ、微かに漂っているこれは、紛れもない光酒の匂いだ。光脈筋でもねぇのに、一体どうして? 人には微かなこの匂いも、小さな蟲なら浴びるほどに濃く感じるだろう。

 下の方から立ち上ってくるかのような、金色の蟲。その蟲の泉に下りて行くような気持ちになりながら、一歩、一歩とギンコは進む。綺麗だと思った。お前にも、これが見えたらいいのに、と。




「…あっちに家なんかあったっけな」

 井戸を借りに表へ出た時、炭商人のガハチが遠くへ目を眇めつつ言った。今夜は長の家に泊まり、明日から里人たちに混ぜてもらって山に入り、行方の分からない化野を探すつもりでいる。明るくなり始めたら山に入るというから、今は何も出来ないと思っていたのだが。

「あっち? あっちは岩ばかりですから、何も」

 傍にいた長の息子は、ガハチの見ている方を眺めてそう言った。ここから海までは、まだ数件の家があるが、その向こうは岩場と海だけだ。けれどガハチは見ていた方角から視線を逸らさずに、また一歩そちらへ進んで目を凝らす。

「けどよ、灯りが見えるだろ、ほれ」
「…どこに?」
「ほれ、向こうだって。一つ二つ…。なんか揺れてんな、提灯かなんかか知れんが。あ、またもう一つ」

 言っても、息子は顔を顰めるばかりである。散々訝られてようやっとガハチは気付いた。あれは、自分にだけ見えるものだ、つまりは、蟲。光を帯びた蟲の姿。蟲が一つ、一つとゆっくり増えながら、海の方へ漂って行く。

「…お、長、呼んでくれ。いや! 里のみんなぁ呼んできてくれっ」

 ガハチは叫んだ。ここで蟲が見えるのは自分だけだ。この里には何度も来ているが、あんなのは初めて見る。見ているうちにも、光は少しずつ増え、ぼんやりと闇を照らしているのだ。もしかしたらこれは、知らせ、か。淡い光たち。今、動かなければ。朝になったら、きっともう見えない。 
 
 声を掛けられた人々の行動は早かった。まだ寝ていなかったものは勿論、寝入っていたものも皆飛び起きて、集まってきて浜へ近付き、ガハチの指さす方を見る。

「何も見えねぇが…」
「あぁ、だから今は、見えてねぇってことが大事なんだ。あれは蟲だ。あんたらギンコさんに手紙を書いたんだろう。でも返事はねぇんだろ? そういう知らせを無視するような人じゃねぇんだよ。だったら、今、一人で先生を探してる筈だろ…?!」
 
 もしかしたらあれは、蟲を寄せるギンコが、
 あの方角に居るという「蟲の知らせ」なのではないか。

 一度そう思ったら、居ても立ってもいられない。ガハチの知っているギンコは、自分に寄ってくる蟲を散らそうと、会うたびに苦労していた。蟲煙草か、それと同じ香りの香をけして絶やさず、例え具合が悪かろうと、一つ所には長居せず。そんなギンコが故意にか、偶然にか、蟲を寄せているとしたら。

「あの明かりについて行きてぇ。あっちにゃあ何があるって? 海と岩場と? 暗くて危ねぇかもしんねぇけど、すぐ行けねぇか」

「あっちは岩が凄くって、途中から深い淵だが」
「山側から行くのも難しい。崖んなってる上、山道もこないだ派手に崩れた」
「…けど! あの辺りは探せてねぇってことだよな。だったらもしかして本当に…っ」

 必死の顔をするガハチに、最初に頷いたのは一人の女だ。傍にいた男たちも言った。

「あたし、家からもっと灯りを持ってくる。松明も作るよっ」
「…よし! 行ってみよう、行けば何かいい知恵がわくかもしれん」
「そうだな、行けるとこまででも行こう。ガハチさん、疲れてるだろうけど、蟲の見えるあんたが頼りだ、案内してくれるかい?」

 そして真っ暗な中を、沢山の灯りで闇を開くようにして、里人たちはそちらへ向かう。先頭は炭商人のガハチだ、か細い蟲の明かりを見つめて進む彼が、慣れぬ岩場でふらつくと、両側から漁師がしっかりと支えた。

「なぁに、どうしても行けねぇようだったら、今度は山側から行く手もあらぁ。そん時ゃ山に慣れた男らが、あんたを支えるよ。蟲の様子はどうだい? 朝んなったら見えなくなっちまうんだろ?」
「…あぁ、ますます増えてる。どこかを目指してるみてぇだ、こんなのは初めて見たよ」

 ガハチの言葉に皆が彼を見る。どこか不思議な表情で、何もないように見える闇の中を、必死で見ている彼の顔を。中のひとりが、ぽつりと聞いた。

「…蟲ってさ、怖くねぇのかい?」
「怖いのもたまにいる、でもなぁ…」

 彼が一度言葉を切った時、そこにいた皆はそっと耳を欹てた。彼らにとって、ギンコ以外には初めての、蟲の見えるものの話だ。

「何もしねぇヤツもいるし。全部を怖がってたら生きてけねぇだろ。見えてもよく知らなかったら怖いし、ここの人らみてぇに、見えなかったらもっと怖いだろうけど、この里にゃギンコさんがよく来てるだろ? だから、変なのが来てたら教えてくれんだろし、患っても治してくれんだから、余所の里よりゃ安心だろうさ」

 ガハチは蟲の光を眺めながら、ずっと前の事を思い出している。向かいの湾から、この里をじっと眺めているギンコの背中を、そうしてその隣へ並んで、何気なく覗き込んだ彼の眼差しを。

「俺さ、前に、勘違いしてたことがあんだよ」
「勘違い?」
「おぅ、ギンコさんはてっきり、ここのもんだと思ってたんだ。だってこの里の見える場所で会うとさ、あの人いっつも、自分の古里を見てるみてぇな面、してんだもんよ。帰ってきたなぁって、面さ」

 言ってから、ほんの少し恨むような顔をして、ガハチは後ろの皆を振り向いた。今度の経緯を聞いた時、まるで自分の事のように痛んだ胸は今も少し痛いのだ。

「なぁ…。余所もんの俺が言ったって意味ねぇだろけど、あの人、いい人だよ。ほんとにいい人なんだよ…。たまに会うだけの俺が、駆けずり回って文を運んで、ろくすっぽ休みもしねぇでこんな岩場を歩いてる。そうしてぇって思うぐらい、いい人なんだよ」
「………」

 誰も、何も言えなかった。何も言わずに、松明を今までよりも高く掲げ、必死で岩場を歩いた。前へ前へと進んでいくと、時折波が足元に掛かり、風も切るように冷たかったが、そんなことを気にするものはもういなかった。

 やがて、それ以上は進めなくなり、これからどうするか話し合おうと身を寄せ合った時、中の一人が波の中から何かを拾い上げた。それは小さな瓶だった。瓶が漂っていた周りには、割れた木の板が幾つも。抽斗のようなものもある。

「なぁ…これ…」
「…板に、抽斗、だな」
「あそこにも浮いてるぞ。これって…まさか…」
「ギンコさんの木箱…」

 ばらばらになったそれを見て、不吉に思わなかったものはない。声無く立ち竦んで、怖い想像を口にも出来なくなった。

「こんな、壊れて…こ、これって…」

 これを背負ったギンコが、崖から落ちたんじゃあ、ないのか、と。海へ落ちて、波になぶられこんなふうになったんじゃ、と。

「お、落ちたとは…限らんじゃろが…っ…」

 いきなりどこかから声がした。長の声だった。まさかこんな岩場を後ろから追ってきたのかと、驚いて見回すと、少し離れた波の上に、その姿があったのだ。

 長と長の息子と、漁師一人が乗っているのは、二隻の小舟に木の板を渡し、それを縄で縛って固定した、筏に似たもの。舟の底には重石を乗せて、多少の波でも覆ったりしないようにしてあって。

「思い出したんじゃ…! 若い頃、嵐の波で小舟を壊され、この先の岩場に取り残されたわしを、里の若いもんらが、こうして助けに来てくれたで!」
「す、凄いぞ、これならこの向こうまで行ける…!」

 長はそこで手を貸されながら、自分から岩場に降り立った。もっとも舟の扱いに長けた若いものと場所を代わって、後を託しながらこうも言った。

「山の方からも皆が向かってるで! ありったけの縄を持って、道を作りながらじゃで、時間はかかるかもしれんが」
「お、長…っ!」
「まだまだ、若いもんには、負けておられんっ!」




 そうしてギンコも化野も、助けに来た沢山の人々の声を、ふたり別れ別れになった夜のうちに耳にしたのだ。もうここで終いか、と、何度も思った夜の、呆気ないほどの幕引きである。











 終、ではありませんよ。寧ろここからが本番で、今までのはプロローグ。って…それは無いか…汗。それにしてもまったく化野が出なくて、ギンコもちょっとだけというこんな話を、五時間も書いていた私のヘタレ度って、もう罪になるくらいの酷いもんです。

 わぁぁぁぁぁぁぁぁぁん、っごめんなさいっ。七周年とか、看板引っ込めたんで許して下さい。ひぃぃぃぃ。そして残りは恐らく一話ですー。炭商人主役の回でございました…。



13/03/17