終の夜語り
tsui-no-yogatari



… 7






 今のを取り消せ。そう言った。何のことだか分かった筈なのに、ギンコはわざと笑って分からない振りをしている。

「何怒ってんだか知らねぇけど、今、そんな場合じゃ…」
「今がどんな場合だろうと、自分で自分のことを勝手だとか、危険な存在だとか言うな。疑う者がいるからなんだって言うんだ? そんなものは、俺が何度でも晴らしてやる…! だから…」

 あぁ、だから、もう来ない、なんて、言わないでくれ。

「化野」

 ぽつり、とギンコが言った。自分の腕を掴む化野の、その冷え切った手の甲に触れて、やんわりとそこから外し、指と指とを緩く絡めた。仮に気持ちの通じ合った恋人同士なら、こんなこともするのだろうか。甘い仕草に慄いて、もぎ離そうとした指が、さらに深く絡め取られる。

 長い間の禁忌へ、ギンコの方から静かに近付く。指と指とで触れるだけ、たったそれだけのことも、しない、と言下に決めていたのは、お互い分かっている筈なのに。

「なぁ…嫌なのは重々承知だ。けど、異常事態なんだから、このくらい大目に見とけ。…指が冷たい。こうしてても温もってこねぇ。お前さ、もう…随分体温が下がってるよ。だからかえって、あんま寒くねぇだろ? 嵌めたばっかの肩も、胸の骨が折れてんのも、すぐに痛ぇのを忘れるだろ? 医家なんだから、どういうことだか、分かるよな…?」
「……」

 違うよ。嫌なんじゃ、ないよ…?
 寧ろ、いつもいつも、したくて堪らないから、
 駄目だ、と、禁じて居るんだよ…?

 たった今の問い掛けで、重要なのはそこじゃない。分かっていたけど考えるのを放棄している。なのにギンコは容赦がなかった。いつもそうだ。隠してること、忘れたいこと、恐ろしいこと、そういう色々を、目ぇ逸らしてる場合じゃないって、突き付けるのはギンコの方。

「大怪我したまんま、こんな吹きっ曝しで殆ど飲まず食わずの、丸々三日。大丈夫な筈ねぇんだよ。分かるか? 化野」

 お前は既に『ぎりぎり』なんだ。

 言われて、心臓が嫌な鼓動を打ち始めた。けれどそれも、弱弱しい鼓動でしかなかった。ギンコの方を見られずに、化野はじっと、何もない暗がりを見つめていた。決意と願いを、心の奥でゆっくり反芻する。

 もしもお前が疑われたら、その疑いは俺が晴らすのだ。俺の居る俺の里を、ずっとお前の帰れる場所にしておく。だから怖がらず、これからも訪ねて来てくれ。それが心からの俺の願い。

 …けれど、そんな願いは、
 ここで死なずに生き続けられてからでないと、
 意味などありはしないのだ。

「もう直、夜が明ける…」

 ギンコはそう言って、酷く淡々と化野に説明をし始めた。先の見えない化野の願いと違って、痛いほど現実的な言葉ばかりだった。

 岩の割れ目の奥の、染み出してくる水のこと。さっき化野の口に含ませた、食べられる草の根のこと。もしも僅かでも雨が降ったら、着ているものに浸みさせて、一滴でも飲み水を確保するんだ。夜になったら凍えないように、風上には少しでも背を向けて耐えるようにしろ。最後の最後には土くれだって、食えば僅かなりと命を長らえさせてくれる。
 
 それから万が一、海に人の乗った舟が見えたら。その時もまだ声が出せたら、叫び過ぎて死んじまうくらいの気持ちで、叫べ…!

 何度か、化野が口を挟もうとしたが、そのたびに痛む腕を揺すられて、黙るしかなくされた。ギンコが何をしようとしているのか、言われる前からありありと分かって、それを止めたくてしょうがなくて…。けれど、止めてもお前は行くだろう。

「生きろよ」

 と、ギンコは言うのだ。使うかどうかも分からない一本きりの小刀を、化野の片手にしっかりと握らせて、それから軽く身を乗り出し、真剣な顔で真っ暗な眼下を見下ろして。

「や、やめてくれ。行くな…! 落ちたら…っ」

 落ちたら死んでしまう。
 お前が死んだら、
 俺は、もう二度と、
 お前には会えなくなる。

「そうだなぁ」

 ギンコは笑った。もう絡めていた指は解いていたが、今はまだ真横に居て、互いの肩を少しずつ触れさせ、そんな間近から真っ直ぐに化野を見つめる。

「でも、ここでこうしてたって、心中するだけだぜ…?」

 心中も悪くない、などと、思う気持ちは千切って風に散らすのだ。どちらか死ぬなら、俺が死ぬ。死んで海に浮いたって、その骸で里まで流れ、海流の向きを見せることで、お前の居場所を里人に気付かせてやるさ。

 死んだって守る。屍となった体一つで。
 或いは、体から離れた魂だけででも。

 それは死を覚悟した化野が思ったことと、重なるように一つだ。お前は「友」以上のものだから。自分の命より、遥かに大切な存在だから。

「止めんなよ。無茶したら、お前が落ちるぜ?」

 そう言って、ギンコは体を反転させて、岩に手を掛け下り始める。縛り付けられたように体が動かず、化野は震えながら、段々と下がっていくギンコの顔を見つめていた。あと少しで視野に見えなくなるその時、ギンコは言った。

「なぁ? もしかしたらこれが最後かもしれないぜ?」

 互いの言葉が互いの心に届く、最後の…。

「何か言うことがあるかい、化野」

 いっそ揶揄するような言い方で、ギンコは言葉を欲しがった。笑っている目の奥の、真摯な願い。暗がりでもその目は、辛うじて濃い緑に見え気がする。

「ギ…」

 震える唇も、見つめる眼差しも、鼓動も息も血潮の一滴すらも、すべてで声無く本心を告げながら、化野はこう言った。

「…先に死んだら、追うからな」
「はは…。もしもお前が本気でそうしたら、あの世でも来世でも、俺は二度と、お前とは出会わないぜ」
「な…」

 なんで、どうして? 渦巻くように脳裏で問いながら、本当は分かっていた。出会ったことで俺を不幸にすると、この後に及んでまだお前は言うんだな。けれどそれも、強く、強く、想うが故のことなのだと。

「ギンコ」

 化野はギンコの名を呟いた。

「ギンコ」

「ギンコ」

 繰り返し繰り返し呟いた。願いを込めて、想いを込めて、呼び続けた。なんだよ、と、うるさそうに返事をもらうその時が、どうかまた来るように。




 文を託された炭商人は元々がギンコの知り合いで、化野とも懇意だったから、掻い摘んでだが事情を説明されていた。商いなんぞはもうそっちのけで、脚がもげるんじゃないかというほどつ、走って走って、有り得ないほど早く虚守に文を託した。

 馴染みの医家先生と蟲師の一大事を、役目は終わったなどと言って、それきり気にならない筈はなく、ろくに休まず取って返して、また海沿いの里に戻ってきた。

 長の家に転がるように駆け込んで、文は自分の出来る場所まで確かに届けたことを告げ、へたり込んで水を一杯貰って飲んでから、男はこう言った。

「今まで、そういう話はせなんだが、実は俺は『蟲』の見える体質なんだ。先生が追ってったのは蟲師なんだろう。今、山で先生を探してんのは、蟲を寄せて歩いてるギンコなんだろう? 探すのを手伝わせてくれ!」


 余所者の俺でもいいんなら。
 蟲なんかの見える俺のことを、
 信用してくれるんならさ。







 



 


 短くてごめんですー。しかしこれだけ書くのに物凄くかかったんですよー。何でだろう〜。四時間半ぶっ通しとか、びっくり。ストーリーはなんかドキドキはらはらながら、やっといい方向になった…のだろうか。次回も頑張ります!

13/03/02