… 6
汚れて、青ざめて、やつれた顔を見て思った。裂けた着物で、泥まみれで、ぼろぼろの格好を見て思った。俺の命はお前の命の為にある。俺はお前を生かすために、今こうして生きている。きっとその為に、この世に生を受けたのだ。
「どこか、痛むか?」
いっそ平坦な声でギンコは聞いた。化野もうっすらと微笑みさえして、淡々と己が体の事を話した。
「うん。…胸の右側の骨がどうやら折れて、左の肩は外れているんだ。両手のひらが擦り傷だらけだなぁ」
「そうか。何日たったか、分かるか?」
「……いや…」
「月の形を覚えてないか?」
月、落ちた最初の夜、どんな月を見たかと問われた。
「じゅ、十三夜…だったか…」
「なら三日だ。今日は十六夜だからな。…あぁ、この窪みは松が生えてた窪みのようだぜ。お前が落ちてきた衝撃で、その松が根こそぎ剥がれて落ちてったんだろう。そうやって出来た窪みにお前はいるんだ。運がよかった」
多分、二重三重の意味で運がいい、化野の代わりに落ちて行った松。その松が、派手な音を立てながら転がり落ちて、最後に海面を打つ音までを、件の蟲師は聞いただろう。それでそれ以上追い打ちをかけなかった。ああした連中は物の考え方が陰湿だから、そうでなければ上から岩を落とすくらいのことはしてのける。
そしてもう一つ。ここに松が生えていたということは、つまり、木が生える為に必要な土と、僅かばかりでも水分がある筈だ、ということ。暗がりの中でギンコはあちこちへ手を伸ばした。吹きっさらしの割に、触れた土はやはり濡れている。
深い岩の割れ目を見つけて、その奥へ強く片手を入れると、袖口がじわ、と濡れてきさえした。ほんの少しだけれど、水の染みた袖口を、ギンコは化野の口元に差し付ける。
「ほら、吸えよ。水だ」
余程渇いていたのだろう。唇より先に震える舌が差し出され、薄暗がりでそれを見たギンコが、自嘲するように顔を顰める。まるで、幼子が乳を吸う姿のようだ。無防備で、一心にそれを求めていて、嬉しげにうっすら笑む目が…。
こんな時だと言うのに、よく眩めるものだと思う。ここで終いかもしれないというのに、だ。
「よく、頑張ったな、化野。もう大丈夫、とか、言ってやれねぇとこが、情けねぇけど。胸、痛いのはどこらへんだ? 肩が外れてんのはこっち側だったな。あぁ、手のひら、酷ぇな、こりゃ」
無遠慮に見えて酷く静かにあちこちを触られる。ギンコの体が、狭い空間でもう少し近付いてきて、化野はこの岩の窪みが、思ったより広いことに気付いた。少なくとも男が二人身を寄せていられる。それでも、すぐ傍でギンコが身を乗り出したのを見た時は、恐怖で体が竦み上がった。
「ギ…っ…」
「大丈夫だ。落ち着け。ここに松の太い根っこが残っててな、それを捕まえてりゃ落ちたりしねぇから。まずはお前のその肩、何とかしなきゃな」
「…ど、どう…」
「嵌めるのさ。三日も外れたままってのは、ちっとあんましよくねぇだろ?」
目を見開いて、化野はギンコを見た。月と星しか光源の無い中で、友の顔がよく見えるのは、彼の肌が白いからだろう。風に乱される髪は変わらず綺麗だった。
「着物、肌蹴るぜ、寒いだろうけど、勘弁しろよ」
土から突き出た松の根に片手で掴まり、残るもう一方の手で、ギンコは化野の着物の合わせ目を大きく広げさせた。どう外れているのか確かめてから、片手は松の根、もう一方の手は岩の割れ目に掛けて、片膝を化野の、外れた肩の上に軽くのせる。
「どうやろうとしてるか、分かるか?」
「…そりゃ、な。随分と荒療治」
「意識吹っ飛びそうになるだろうけど、頼むから暴れんなよ…?」
「あぁ、分かってるさ…」
化野は自由の効く方の手で、自身の着物の襟を口に深く咥え込んだ。そして、目でギンコに合図を送る。任せたよ、と、ギンコには届いた。軽く頷いて、片膝に体の重みを掛けた。ごり…っ、と深い振動が、触れた一点からギンコの背筋を、脳まで駆けていった。自分が痛いような気がした。
すぐに身を屈めて化野の体を包む。痛みで暴れても、狭い窪みから落ちないように。化野の体は、暫しの間がくがく震えていたが、その震えがゆっくり収まって、首ががくりと横へ向く。意識を失ったかと思って、さらに深く抱き締めた。けれど…。
「ギ…ギン…。か、勘弁、し…してくれるか、それ…」
ギンコは飛び離れた。否、そういうわけにいかなかったから、意識の中だけでは飛び離れ、実際にはゆっくり体を起こした。まだ両腕も胸も触れている。化野の鼓動が妙に速くて、あんなにも冷えていた体は少し温もっていた。
「勘弁、って…?」
「……」
知らぬ振りして聞き返すと、間近から睨みつけられる。ギンコは化野の左肩から左腕、肘や手首や指に順番に触れた。そうして指先から少し動かしてみるように言って、安堵したように目を和ませてから、やっと身を離した。それでも肩は互いに少し触れている。
「…なら、こんなことになってんじゃねぇよ。洒落にならんぜ?」
「こんな…。あぁ…」
ようやっと。ようやっとだ。化野はすべての発端を思い出した。里にやってきた見知らぬ蟲師。それに唆されてギンコを疑った里人たち。このままだと、この里はギンコの来られない里になる。そんなのは嫌だと、駄々を捏ねるように、考え無しに蟲師を追って山中へ入った自分。
だって、嫌だったのだ。そんなのは。
俺がこの男を、ギンコを…。
これからもずっとひっそりと、
想い続けていられる里であって欲しくて。
振り返ってみると、あんまりなくらい自分本位で、情けない。
「…すまん……」
「何詫びてんだ、お前」
ギンコは苦笑して言った。染み入るような言葉だった。
「何にせよ、良かったよ」
だってお前は今、こうして生きてる。例えこの後、どうしたらいいかわからなくても。
それからギンコは、そらで何かを読み上げた。里人からギンコへと出したふみだとすぐに分かった。聞けば俺の書いたあの手紙の裏面に、細かい字でびっしりと書かれてあったのだという。
そうか。ギンコヘふみを届ける方法なんて知ってるのは俺だけだ。だからそうするしかなかったのだ。よくぞ気付いてくれた。そして、あぁ、手紙の文面からはっきりと伝わる。疑いはもう、晴れていたのだ。よかった、本当に。
「…大事にされてんなぁ、お前」
ぽつりと言ったギンコの言葉の意味が、一瞬だけだが分からなかった。悔やむような響きに思えて、薄暗がりの中でじっと横顔を見た。ちゃんと目のある方に居られてよかった、などと、そんなことを思って、分かるような言葉が続くのを待ったが、ギンコは何も言わなかった。ただ、岩の割れ目に袖を押し込んで、滲んできた水を、ギンコはまた化野に飲ませた。
ギンコは狭い空間で体を反転させ、何処からか取り出した小刀で浅く土を掘ると、何かの草の根を掘り起こして泥を払う。
「こんなんしかなくて、悪ぃな、荷物全部…捨てちまったんでな。奥歯で噛んでろ、甘い汁が少し出るから」
小刀が偶然手元にあっただけでも吉なのだ。たった一本の刃物と身に着けているものと、狭いこの空間にあるものだけで、あと幾日お前を生かせるだろう。こんなにも、こんなにも大事にされてるお前を、俺のせいで死なさず済ませるには、どうしたらいいのだろうかと、ギンコは思っていた。
あぁ、じき朝になる。そうしたら視野が開けて、何か食えるものが見つかるかもしれない。ここから上るか、下りるか、どちらかを選ぶ材料があるといいのだが。
死なせやしない、と、方法も分からずに思っているんだなどとは、考えないようにしている。俺の命を削ってどうにか出来るなら、きっと迷わずそうするさ。
「ギンコ…?」
化野が彼の名を呼んだ。ギンコは勿論聞こえていて、けれど返事をしなかった。聞こえる息遣いを聞いているのが、不思議と心地よかったからだ。名を呼んだ声に混じる息も、勿論。
「あぁ…」
遅れて返事をすると、ほっとしたように息を告ぐ化野。
今まで求めていたものが、色々と愚かに思えていた。近くにこうしているだけで、同じ世界にこうして生きてるだけで、いいや、俺の居なくなった世界でも、お前が生きていってくれるのなら、それで充分幸せ、だろう? この考え方は、今、ちょっとまずいかな。他人事のように、ギンコの心の奥が震えた。
「なぁ、眠いか? 化野。悪いけど、眠らないようにしててくれるか? 眠ると体温が下がるから」
「なら、何か喋っててくれよ、ギンコ」
「…そうだなぁ…。あぁ、今後のこともあるから、一つ、教えておいてやる」
ギンコは言うのだ。そういう輩は少なくねぇんだ、と。
大体分かるぜ、お前んところで何があったか。休みたいとかなんとか言って上り込んでさ、その家に病人や年寄りがいたら、こっそり懐から蟲を放つ。弱った体に憑き易い蟲をさ。それで見る間に悪化するのへ、実は蟲の気配を感じて自分は来たのだと告げる。
そうして治療してやる振りをしながら、放ったばかりの蟲を回収するって遣り口だ。お前の里は、以前の経験から蟲の怖さを知ってるが、見えるものは一人もいないから、恰好のカモだな。でもこれからもそこで美味い汁を吸うには俺の存在が邪魔だ。俺が来たんじゃ嘘がばれちまうし、信望の厚い医家も出来ればいない方がいい。だから下調べで色々分かったうえで、嵌められたんだろ。
そいつが俺をどう言ったかもわかるぜ? 里の皆が「見えない」のをいいことに、自分勝手に何度も里を訪れるような危険な存在だって言ってただろ? まぁ…ある意味、そいつは嘘じゃねぇけどな。誰か一人でも見えるヤツがいたら、俺もお前の里にはあんまりいかなかったと思うし、一度でも疑われたらさ、多分、もう。
言いながら、胸が凍るみたいに冷えた。その冷たさが徐々に広がる中、腕の一箇所が急に温くなる。
「い…っ、つ!」
いきなり腕の片方を掴まれて、その上、苦痛を訴える声を聞いた。呻いているのは化野で、ギンコの腕を掴んでいるのも勿論化野だった。ついさっきまで肩が外れていた方の腕で、何を無茶な、とギンコは息を吸い込んだ。
「おい…っ、なに…」
「今のを取り消せ」
「…何、言ってんだ?」
薄闇で見た化野の顔は、はっきりと怒っていた。
続
ニコ動画にて、某歌い手様の動画を流しつつ書きました「ミミック」っていう歌ですよ。本文に合っていたのかどうかは謎ですけども。ギンコは化野の元にたどり着いたんですけど、あんまり「もう安心!」っていう状況ではないですよ。
だけど、少しは化野が元気になったので、よかったなぁ、と素直?に思ってしまいました。それにしても、ギンコのサバイバル技術はさすがと言うか…。ダテに自然の中に生きてきてないです。今までどんな目に合ってきただろうとか思ってしまう。
そうしたことのいい教師が、いろいろいたんだと思いますよ。旅人同士の「あの時ゃあぶなかった」談義「死ぬかと思ったけどなんとかこうして生きてら」談義とかも、絶対為になると思うんだわ、うん。漫画で「岳」っての読んでるんだけど、そこで得た知識を極力、この作中で生かさないことがミソですが。笑。
13/02/11