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別に、死んだって構やしない。
今まで生きてきて、何度も、何十回も思ったよ。ただいつもの繰り返しで旅をしている時、今にも死にそうに飢えている時、やべぇことの只中で一瞬後の闇を意識した時。そう思うんだ。死ぬのか、ここでか、それもいい。別に未練はありゃしねぇ。
でもなぁ、化野、たった今、俺は生きていたいと思ってるよ。こんな危なっかしいことしてるってのに、腕に、手に、指に満身の力を込めて、こんなとこにぶら下がってるってのになぁ。
びゅうびゅうと吹き付けるこの風をさ、だって、たった今、お前も浴びてるかもしれねぇんだろ。ごつごつと痛ぇこの岩でさ、今、俺があちこち痛ぇ以上に、お前が傷ついてるかもしれねぇんだ。死んでる場合じゃ、ねぇんだよ。
木箱の中から縄を取り出して、在りあう木の幹に縛った。それを数回引っ張って、それでもう俺は崖を下りてんだ。長さが足りんのか、って? 知らねぇよ。誰か助けを呼んだらって? 言ってられるか!
愚かだなぁ、愚かだなぁ、本当の馬鹿だ、思慮が足りねぇ。急いで焦って何になる? も少し考えたらどうなんだ? その方が、いい知恵も出るだろうにさ、そうじゃないのか? でも。あぁ、でも。もう一時たりと動かずにいられねぇよ。
ここへ来るまでこんなに時間を浪費して、やっと見つけたお前の「息吹」。近くへ行って、そこにいると確かめたくて、生きてるんだってわかりたくて、その為だったら何でも出来る。
時々生えてる松の幹に、ちっぽけな虫のように縋って、少しでも下が見えねぇかと身を乗り出す。岩にへばり付いた松は案外根付きが脆くて、迂闊に重みを掛けると、岩肌から剥がれて丸ごと落ちそうだ。それでも化野がこれらの松のどれかに、引っ掛かってやしないかと思う。
いつの間にか、もう夜が来てた。視野は灯り一つない暗がり、夜目が効いたって、これほど暗けりゃ妨げになる。見下ろしても、見下ろしても闇で、奈落へ落ちていくような気がした。
あだしの…
唇が愛しいその形に動く。声はなくて息の音だけ。まじないのように、何度も何度も。あだしの、あだしの、あだしの。お前に会いたい。神様、なんぞ、いるかどうかも分かんねえのに、いるならどうかと、そうまで思う。
それ一つしか望まないから。大して何にも持ってやしねぇけど、そのどれを投げ捨てても構わねぇから、どうか、どうか。
ずる、と足を置いてた土が崩れた。大きく体が傾いで、見上げたすぐ上で、縄が尖った岩に擦れてた。今切れたら落ちる。ぶら下がってるこの身を、ほんの少しでも軽くするしかないんだと分かる。
ギンコは浅い息を吐きながら、木箱を背からずらして外した。それでも暫しは逡巡する。中に入ってるものが頭をよぎった。薬の類、手当ての道具、食べ物、水、必要なものはいくらでも入ってる。それでも落ちるよりはマシと、目を閉じて手を離した。
がらりがらりと岩にぶつかりながら、転がって、遥か彼方まで転がり落ちていく音が続いた。今いる場所の高さがおぼろげに分かる。落ちたら死ぬな、と思った。死んだら会えない。だから、これでよかったんだ。
でも、そんなにまでして守った縄は、それから暫く下りたあと、長さが無くなって放棄するしかなくなった。絶望的な思いで縄の端を見つめ、笑いまで込み上げつつそこから手を離した。笑うとか、こんな場面でどうかしてるよなぁ、化野、そう思うだろ。お前…どこだよ…?
いい加減、気持ちが萎えそうだ。翼のある鳥が羨ましい。空をふわふわと漂う蟲が、羨ましい。でも、鳥でも蟲でも、お前を見つけた後で、助けてやれなきゃ意味がねぇよな。
ギンコはまた笑う。狂気の沙汰だ、と自分で思った。
寒い冷たい風を体に浴びながら、乾いた唇でギンコを呼んだ。でも声が出た気がしなかった。その程度も出来なくなったかと、静かに自覚する。空腹も過ぎれば腹も鳴らなくなるらしい。痛みもいつからか分からなくなった。飢えてるは飢えてるよ、ギンコ、お前に飢えてる。
そうだよ、こんなにも。
ひと目会ったらそれで、もういいのに、
ってな、そんなことを思うくらいにさ。
薄っすらと開いた目に、ちかちかと光る星が見える。星にしては光り方がぼんやりとしてて、妙に大きく広がって見えるのは、多分俺の目が、もうすっかりかすんでいるからだろうよ。
ものも見えなくなると、おかしなことを考えてばかりいる。思い浮かべるお前の顔が変に近くてさ。ばくばくと心臓が速くなるんだよ。どうせ幻だからって、変なことをしたりはしないぞ。それがどんなに望んでることだってな? 見損なうもんじゃないよ、ギンコ。
だけど、こんなに間近に思う、お前の顔かたちは、幻だって酷いくらいに綺麗だ。睫とか、瞳の色とか、ゆら、と風に揺れる前髪。滅多に無いような、その肌の色も。
「ギンコ…」
声がやっと零れた。ほんの微かな小さな声だ。
「……だよ…」
禁忌としてた言葉が、ほろ、と、砂のように、前半分が崩れて落ちた。
俺は、俺がいなくなったって、俺のあの里がお前の居場所であり続けるように、心から願ってたのになぁ。誤解を解くために、随分頑張ったんだが、俺なんぞでは、それを成し遂げられなかったんだな。
そうだ、ここで死んで魂になったら、あの男をどこまでだって追い駆けて行って、夢で散々責めてやろうか。眠れなくなって、どこか神経をやられて、悪さをしようなんて思えないようにしてやろうか。あれは嘘だったんだと、里へ戻って長にも皆にも、詫びて回るくらい後悔させてな。
死んだらそうする。きっとそうする。
そうだよ、俺は死んだって、
お前を守るよ。だって…
友、なんだから。
友、以上のものなんだから。
あぁ、そろそろ絶望しちまいそうだな。
何日目だろう、今。
ガラ、と一瞬何かが音立てた気がした。岩だったら危険だと、そう思う感情さえも、まともに化野の脳裏には浮かばなかった。ぼんやりと音のした方へ顔を向け、下の方から聞こえている筈の、波音が切れ切れだと気付いた。「聞こえ」まで損なわれつつあるのか。
死にかけたことなどこれまでに無いが、こんなふうなのか、と思う。それだと確かに不安だろう。目も耳も機能があやしくなり、心の臓がまだ鼓動しているのに、世界から切り離される感じがする。今まで何人も、悼みながら見送ったことのある患者の最期をぼんやり思った。
そんな時に掛けてやる言葉を、俺は今までどうしていただろう。やっぱりロクな医家じゃなかったかな、と、淋しい気がした。だから長にも里人にも、信用して貰えなかったのか。結局俺が撒いた種なのか。
力無く目を閉じている化野の頬に、その時、ひた、と何かが触れた。ひいやりと冷たく、雨でも降ってきて頬を濡らしたかと思い、瞼を暫し震わせてからやっと開く。
何か、声が聞こえた気がした。
それがギンコの声のような気がした。
化野、と名を呼ばれた気がした。
うっすらと目を開いたままで、その目がゆっくりと横を向き、それだけでは何も見えないので、やがては首ごと動かした。見たことも無い顔が、唐突に目に映って、それが随分近くて、像がぼやけるほど近くて、化野は顔をしかめた。
違う、見たことも無い顔、じゃなくて、
これは。見たことがある顔の、
見たことが無い表情、と、いうのだ。
あぁ、という形に化野の唇が動いた。よく来たな、と、その形に動いた。あまりにもいつも通りの言葉の形に。見たことがない表情のギンコは、もっと見たことが無い顔になった。くしゃ、と歪んで、泣き出す寸前の子供のような顔だった。
夢、か。
化野はやっと声を出してそう言って、ギンコはそれへ答えて、こう言った。
悪夢より、怖かった。
続
ほぼ動きの無い、つうか、変化の無い情景で、たんたんと心理ばかり書いてしまった。人は窮地に陥って、そのままの状況が長く続くと、どうなってしまうもんなのでしょう。生憎、じゃなくて、幸いにして? 惑はそんな窮地に陥ったことがないです。
せいぜい、つるーーーー、と車のタイヤが滑って、ぎゃーーーーっ、これで止まらなかったら対向車にぶつかるぶつかるーーーっ、ていう数秒とか。激しい腹痛で、30分ばかり体を二つに折って今までで一番痛ぇーーーってトイレでなってるとか。そのくらい?
例えが酷ぇな。化野とギンコに叱られそうだよ。たはははは。窮地にゃ陥りたくないが、陥ったら絶対ちゃんと覚えておいて執筆の糧にするだろう惑さんです。いやいやいや、誤解すんなよ窮地っ、陥りたくはないったらぁ〜w
2013/01/27