終の夜語り
tsui-no-yogatari



… 4





 里にあんたを悪く言う男が来た。
 蟲師を名乗り、あんたの体質のことを言い出して、
 災いの元だと触れ回ったのだ。
 すまない、正直に言うが、聞いた話を真に受けて、
 里の多くものが一度はあんたを疑った。

 疑いを晴らすためにか、化野先生は、
 一人でそいつを追って山中へ入っていったきり、
 一日経っても里に戻らない。隣里へ抜けた様子もないし、
 皆で山中を探したが、どこにも姿が無いんだ。
 山はついこの間の嵐で荒れてもいる。
 何か良からぬことがあったのではと、
 里人全員、居ても立ってもいられん気持ちだ。

 今一度、われらに力を貸してはくれんだろうか。
 藁にも縋る気持ちでこの文を綴っている。
 先生はこの里に無くてはならない人だ。
 どうかよろしく頼みたい。  里、一同
 


 脳裏をぐるぐると巡っているのは、一度きりしか読んでいない手紙の文面。その一度きりで目に焼き付いた。その上、詳細に書かれていないことまでも、察しがついてしまう。

 蟲師を名乗る男。それだけでは何も分からない筈。なのにその男がどんな意図で、どんなことを触れ回ったか、どうしてそれを皆が真に受けたか、分かってしまうのだ。そうして里人の疑いを、ギンコは尤もだと思ってしまう。不安に思って当たり前。寧ろその疑いは、ある意味、正しい。


 そうだよ、お前の里を、俺は常に危険に曝している。
 この先も何もねぇ、なんて、言えやしねぇんだ。
 なのに大丈夫って顔して、あんなに入り浸ってた。
 つまり、俺は正に「災いの元」なのだ。

 でも今だけは、それすらも些末だと思わせてくれ。
 お前は、どこでどうしているんだ、化野…。


 小さな山ひとつ、とは言っても狭くはない。道なりに歩いて見つかるものなら、とうに見つかっているだろうし、手がかりなどそれ以上はないのだと分かる。

 手紙の文面にもあった、山は荒れている、と。激しい嵐が直撃したのだろう。あちこちで木が薙ぎ倒されて道を塞ぎ、それを乗り越えたと思えば、今度は道が大きく崩れて、濡れた土を曝した急斜面になっている。ギンコはひとりで、そんな山中をもうどれだけ彷徨ったか。ふみを受け取ってから、既に丸二日。この山へ入って半日が過ぎようとしている。

 当てなどない無いに等しい。多分、件の蟲師の逃げるのを、化野は必死で追い駆けたのだろう。相手はきっと、最初から「道」になど拘らず、旅慣れた脚に任せて化野を振り回し、疲れさせ、やがては撒いて立ち去ったのか、それとも…。

 恐ろしい想像を、頭を振って追い出しても、時の流れは止められない。

「…あぁ、夜が…来ちまう」

 夜目が効くとは言え、昼間と同じに見えるわけじゃない。それに、夜になれば、ぐっと寒くなる。化野がこの山のどこかに居て、家へ帰れないような状況ならば、山の夜の気温一つが正に命取りだ。

「化野…」

 お前にもしも万が一のことがあったら、どう償えばいい…? お前を頼みと、あんなにも慕っている里人達に、そしてお前自身に、俺は、どう償えば。

 ふと見ると、暮れかけた空に淡い色した月が浮き立っていた。黒い影になりつつある木々の枝に、絡め取られるように見えながら、消えそうなその月の姿が。あの日、波打ち際で見た月のようだ、と、今思うべきではないことをどこかで思って目を逸らし、偶然にギンコは気付いたのだ。

 視線をずらして見た遠くの斜面、青々とした笹の葉のひと群。それが泥をなすりつけられたように、茶色く汚れて一筋、丁度人間一人の幅ぐらい。まるで誰かが、その斜面の上の方で足を滑らせて、笹を体で倒しながら滑り落ちて行ったかのような。ギンコは何かに突き動かされるように、草を掻き分け、泥で足を滑らせながらそこへと近付いた。

 そして、見つけたのだ。見間違う筈のないその布地。草露にしっとりと濡れてはいたが、それでもまだ色が褪せて見えるような、褪せた藍色の。それは着物の切れ端だった。尖った枝に引っ掛かって、その部分だけ裂き取られている。

 這うような格好のまま、ギンコは斜面の下へと目を凝らした。だが、滑り落ちて行ったような後は、少し先ではっきりと止まっている。勿論、化野の姿は無い。うわ言のように、ギンコは化野の名を呟いた。

「あだしの…」

 これは、お前の「跡」か?
 そうなんだろう? やっと見つけた。
 もっと…もっと見せてくれ。
 他にも、何か…。

 まるで狂人。四肢を付いて泥の上を這い。狂ったように辺りを見回し、手を這わせて土に触れ、泥を撫で、草を掴み。

 やがては滑り落ちた印から少し離れた横の方、草履の跡をギンコは見つけた。まろぶように乱れた足跡と、もう一つは変に歩き慣れたような、木の根の上をしっかりと分かって踏み締めてある、別の足跡。

 どくん、どくんと心臓が激しく打ち鳴らされている。ここに確かに化野が居たのだ。化野と、その蟲師を名乗った男とが。そうして二人は、どうしてか共にこの斜面を登っている。足跡がはっきりとそれを示していて、ギンコは必死でそれを辿っていく。ほんの少しだけ登った先は、これ以上歩む場所すら無い行きどまり。

 酷く激しかったギンコの息遣いが、その時、ふと止まった。見開いた目は、足跡を見つめている。化野のものと、蟲師の男のもの。それが、斜面を最後まで上り切った場所で、一方の足跡だけがふっつりと消えていた。

 その後、危なげない方の足跡だけが、斜面の途中までを逆に戻って、元々の道の方、山の麓の方を目指してついていた。
 
「あ…」

 あだ、し… の…?

 ギンコは手を伸べる。既に散々汚れた指で、化野のものであろう足跡に触れる。崖のようになったぎりぎりの場所、最後に付いた片方きりの足跡に。

 声も出やしなかった。ただただ四肢をついて、その険しい崖の下を見下ろした。ゴツゴツと尖って突き出た岩肌。そのところどころに、へばりつくように生えている木が、視界を遮り遠くまでは見えない。

 やがてギンコは背なから木箱を下ろし、抽斗のひとつから小瓶を出して、中の蟲を一匹だけ手のひらに零して、温かな息を吹きかけた。二度、三度と吹きかけると、小さな小さなその蟲は、蛍のような淡い色を灯し、段々とその光を強くしていく。

「手ぇ。貸してくれるか…?」

 探したいんだ、大事なあの「命」を。もう手遅れかもしれない。今更かもしれないが、それでも出来るだけのことを、俺はまだしていないから。

 立ち上がり、ギンコはその小さな光る蟲を軽く崖の下の方へ向けて放った。蟲はゆっくりと弧を描いて落ちて、地面に触れると、そこで十幾つもの小さな強い光になって散って、さらに崖の下へ落ちて行った。

 ギンコは崖から精一杯身を乗り出して、その光達を目で追って、追って、それら小さな一つ一つが、段々と光を薄れさせて見えなくなっていくのを見ていた。その中で、ほんの幾つかが再び僅かに光を増す。

 岩を伝う蛇か蜥蜴か、或いは鼠のたぐいでもいたか。極、淡くだけ光を取り戻したものは、昆虫に近付いただけかもしれない。あの蟲は、生き物の息吹に触れると、それを感じ取って光る蟲なのだ。害も何もない、ただそれだけの大人しい蟲。

 その光の一つ一つが段々と消えてしまうのを、ギンコは瞬きもせずにじっと見ていて、最後には何も見えなくなり、駄目か、と、そう思った時だった。光が、見えた。さっきギンコが息を吹き掛けた時よりも、ずっと弱いものの、はっきりとあの蟲の一粒が、強い光を放っていたのだ。

「…ぁあ……」

 そこに居るのか? 化野。
 生きて、そこに居てくれるのか?

 

 
 まだ、どうやら生きている。そんなことを思いながら、化野は薄っすらと目を開けていた。あれから何度目の夜が来るのだろう。今訪れようとしている夜空は、何度目の夜空だ? たった二度目のような気もするし、もう五、六度見たような気もしていた。

 仮に六夜も過ぎたていら、さすがの俺でも生きてはいまいから、多分そこまでではないだろうよ。などと、うっすら笑って、化野は片手をそろりと横へ伸ばす。そうして手に触れた草を千切って、月明かりでよくよく見てから口に運んだ。毒草ではないのなら、ひとまず喰っておこうと、そんな気持ちで咀嚼する。僅かに宿る草の露も馳走だ。

 吹きっさらしのこんな場所では、昼間も辛いが夜はまた格段だった。日差しがあるだけで、あたりがはっきりと見えるだけで、人は随分と安心するものらしい。たから、昼の間は少しは思えるのだ。
 
 きっと、誰かが見つけてくれる。
 まさかこのままでは、終わるまい。

 或いは、他力本願にそう思うだけではなくて、この崖の途中の狭いくぼみの中、少しでも体を捻って周りを見回し、己で己を救う手だてを考えたり、それを実行しようとしたりもした。だが、掴まって上って行けるような蔦や蔓や、掴んでも簡単に抜けてしまわないような草とか、そういうものは見つからないし伸ばした手にも触れなかった。

 治す手立てがなくて肩は抜けたまま、胸の骨の折れたあたりも、常にしくしくと痛んでいる。目を閉じて、遥か下で弾ける波の音を聞きながら、化野は大切な相手を思った。


 俺は、馬鹿をやったか? ギンコ。
 お前ならなんて言うんだろうなぁ。
 ここへ来て、俺を見て、
 言いたいことを言ってみてくれ。
 助けて欲しいっていうんじゃないんだよ。
 ただ、お前の声が聞きたくて、
 お前の顔が見たくて堪らないのだ。

 なんてな、言わないだけで、
 それもいつものことだが。 
 

 また化野は淡い微睡みの中に落ちて行った。眠らない方がいい、体温が下がってしまうから。それは分かっているが、それでも睡魔は容赦がない。

 眠る化野の唇の傍に、ゆら、と、その時何かが揺れた。それは彼の息に触れて、青白い小さな光の色を変え、強い光を放ち始めた。












 難産シリーズ。頑張ってまーーーすっ。外出から帰宅して、まだ寒い室内で、化野先生のこの描写を書いているとマジ寒いです。ぶるぶる…っ。

 惑さん、昨日夜更かしして、二時過ぎてから寝たんだなー。でも病院行く日だったから八時半に起きたさ。待合室で舟を漕ぐとか//// はーずかぴーーーっ。あぁ、本文台無しの馬鹿なコメント書いちゃってる。えへv ごみんねv


13/01/12