終の夜語り
tsui-no-yogatari



… 3




 男は、逃げた。少なくとも化野にはそう見えた。はっきりと目があったのに、その視線をあっさりと逸らし、道無き道へと分け入っていく。勿論後を追ったが、視界を遮るものの多い山中、道を無視して移動する相手に、とても追いつける気がしなかった。

 待て、と叫んで訴えても、まるでそんな声など聞こえていないように、相手は少しも足を止めない。
 
 頼む。頼むから、
 ま…待って、くれ…。

 ずる、と泥を踏んだ足が滑った。斜面を滑り落ちて、着物の前身頃は泥まみれになった。視野がおかしい気がしたが、どうやら額かどこかを枝で切って、流れた血が目に入っているらしい。

 追い付くなどとても無理だと分かっていたが、足を止めるのは嫌だった。諦める、なんて、そんな選択肢はどこにもない。額の血を着物の袖で拭って、下草に捕まりながら顔をあげると、辛うじて表情の見える距離に、あの男が立ち止まって彼を見下ろしていた。

「おや? 化野先生ではありませんか? こんなところでそんななりをして、どうなさいました」

 大きな声で、しかしあくまで穏やかな物言いで、男はやはり微かに笑んでいる。

「そこまで下りて手をお貸ししたいが、生憎こちらも急いでいるのですよ。隣里まで抜けて、近くの里が今、蟲の危険に曝されていることを、説明せねばなりませんのでな」

 化野は縋るような顔をした。待ってくれ。それは、ギンコの事か? ギンコのせいでうちの里に蟲が増え、それで近くの里にまで害が及びかねないと、そんな話をしに行くつもりなのか。

「いったい…なんの、根拠が、あって…ッ」
「根拠ときましたか。では御覧になればいい、丁度ここに動かぬ証拠がある。これを見れば貴方だとて、すぐにも考えを改める筈」
「何…」

 そう言って、男は化野の傍まで斜面を下ってきた。そうして手を差し伸べて化野の腕を掴み、容赦のない力でぐいぐいと登らせた。

「何処だ。何処にそんな…」
「そら、この向こうをよく御覧なさい。蟲が見えないあなたでも、はっきりと分かるこれを見れば」

 言いながら、強い力で最後に思い切り化野の腕を引き、そうして男は、自分の前を通り過ぎた彼の背を、満身の力を込めて突いたのである。縋るもののひとつすらない、切り立った崖へと向けて…!

「わ、ぁ…っ、あぁッッ」

 がら、がら、と、大きな重いものが岩肌を滑り落ちていく音。数回何かにぶつかって、柔らかいものが潰れるような異音を立て、それでも勢いが止まらず転がり落ちて、遥か遠くの海面へと、ぼちゃん…と。

 そこに残った男は、きちりと着込んだ着物を片手で着崩し、ついさっきまでとは別人のように、腹黒く笑う。

「あぁ、せいせいしたぜ。里に受け入れられた流しの蟲師だと? その蟲師を芯から信用した里の医家だと? そんなもなぁ、ちょいと突けば脆いもんだなぁっ! 蟲の怖さを知ってても、見えるものの一人もいねぇ里なんざ、そんなイイ鴨、お人よしの蟲師一人に任せとくなぁ、もったいねぇや」

 さんざぱら俺が騙して、甘い汁吸い尽くしてやらぁ…、と。

 そんなふうに、毒々しく喋る声を聞いているものなどは、ここにはいない。誰一人すら居なかった。




 さ…

 さむい

 寒、い…

 何も見えなかった。暗がり、というのも、おこがましいような、闇。真っ黒で、ねっとりと重く、濡れた感触の暗闇。音は聞こえる。遠く聞こえるこれは、波の音? それから葉擦れの音。ぴゅうぴゅうと吹き付ける、風の音も。

 ようやっと持ちあがった両の瞼。見開いた瞳に映った、いくつもの白い小さな点が、星だと分かるまでまた暫し。

 ここはどこだ、とそう思う。俺は誰なのか、とも一瞬思った。意識が戻ると、じわじわと苦痛が寄せてくる。額が少し痛いのは、どうも切った傷らしい。両手のひらの皮膚が攣ったような感じなのは、そこにも多数の擦り傷か何かがあるせいだろう。

 手のひらや額から出血して、血が足りないから寒いのか? いいやそうじゃないだろう。視野に見える幾つかの星。吹き付けている冷えた風と、聞こえる波音、葉擦れの音。外にいるのだ。海の近くでありながら、山中でもあるような…不思議な…。

 あぁ、寒い…。
 お前は、こんな、寒い思いなどしていまいな…?

 少し、体を動かそうとして途端に呻いた。どうも胸の骨が、幾本かイってるらしい。肩にも激痛。外れているのかもしれなかった。こうしてはおれない。外れているのを嵌めなければ、腱が伸びちまうし、痛みが増すだけだ。そう思って身を起こし掛け、固まった。

 本能か何か知らないが、自身の中の何かが激しく警告を発している。動くな、と。死ぬぞ、と。そうしてようやっとあたりが見えてきて、化野は気付いたのだ。ここは切り立った崖の途中。何かで偶然に出来た、岩のくぼみ、なのだと。
 
 あぁ、ギンコ。

 お前はこんな恐ろしい目になど、
 会ってはいまいな…?
 もしもそうなら、少しはマシだよ。
 例え俺のこの身が、どうなろうと…



 
「その話はもうわかった。分かったが、俺らはちゃんと聞きたいんだよ。何が起こったか、最初から全部聞かせちゃくれんか、長!」

 十何人もで押し掛けられて、そんな言葉で詰め寄られ、それでも長はずっと同じことを言い続けていた。

 里の長は、わしだ。長として里を守らねばならん。
 里を守るために、どうしても必要ならば、
 余所のお人がここへ来るのを、拒むこともある。
 それが里の為、ひいてはここに暮らす皆の為。

 開け放された奥の間では、子供が一人眠っていて、傍らに座った母親が、大事そうにその頭をずっと撫でている。皆の一番前へと進み出ている里の男は、それをじっと眺めてから言った。

「俺らは確かに『蟲』なぞ見えんし『蟲』のことなんかちぃとも分からんよ。だから蟲の見える人が、大丈夫なような顔してたら、それが嘘かもしんなくても、大丈夫だと思うしか他はない。それでこの里はこれまで来たよな」
「あぁ、そうじゃ!」

 自分の言うのがやっと分かって貰えたのかと、長は少し表情を緩めた。そうして畳み掛けるように言う。

「だからずっと、わしらは騙されたままでいて、わしゃあ、あわや大事な孫の命を…」
「だがな! 長っ。それは今回のこともおんなじじゃないのかい?! 今日やってきたあの蟲師の男が言うのだって、俺らに見えてない蟲のことを、嘘を連ねて散々大袈裟に言って、怖い、あぶねぇ、って吹聴してるだけってことも! 聞くけどよ、長、あんたあの男に言われて、薬代、山ほど払ったとかじゃねぇのか?!」

 ぐ、と長は一瞬詰まった。確かに、使ったのが高価な薬だと言われ、息子に取りに行かせて、蔵に蓄えてあった金を殆ど洗いざらい支払った。その一部は、災害などもしもの時の為に、皆から集めて預かっていた金も含まれる。

 だが、たじろぎはしたものの、長は今一度、寝ている孫の方を振り向いて、声を強めて言い放った。

「誰がなんと言おうとっ、あの御人は孫の恩人なんじゃ。わしの目の前で孫が苦しんでるのを治してくれたでっ、わしは信じとる!」

 人と人を掻き分けて、今度は後ろから二人の女が前へ出た。

「だったらっ、あたしはギンコさんを信じるよ、長! 言っとくけど、金なんか一銭も求められなかったし、払ってもないけどね」
「私だってだよっ。ギンコさんが居なかったら、あの子ら今頃生きてないんだ。感謝こそすれ、疑うなんてことっ」

 顔を真っ青にして、ぶるぶると震えながら、長も言いたい言葉を止めなかった。

「そんなら何だ、わしの孫は蟲患いで、死んでもよかったとお前たちは言うつもりかっ。そうなのか、えぇっ!」
「そ、そんなことは…っ」
 
 あぁ、駄目だ。このままでは、この里は壊れる。誰もの脳裏にそんな不安が渦を巻き始めていた。これで長と諍い続け、滅多に来ない旅の蟲師を信じて庇っていて、それで本当にいいのかどうか。

 …先生なら。あぁ、化野先生がここに居たなら、この場でいったいどうするだろう。先生は元々ここの人じゃないから、きっと、出て行っちまう。こんな騒ぎを鎮める為にも、もういいわかったと割り切って、里の平穏の方を選んでくれて身を引いて…。

 なら、あたしらは。
 ならば、俺らは。
 
 ここに生まれてここで死ぬ自分らは、こんなにしてまで、里長に逆らうべきじゃないんだろうか。

「長…」

 と、誰かが何かを言い掛けたその時だった。奥に寝ていた長の孫が、突然むくりと起き上がって、腹ぁ減った、と声を上げたのである。そうして集まった皆の険しい顔を見て一瞬驚き、それからその顔、顔、顔をぐるりと眺め…。

「あのおっかない人は? も、もう…居ない?」
 
 子供の額から落ちた布を、びっくりしたような顔で拾ってから、母親が不思議そうに聞いた。

「おっかない、って。お前、何が怖かったの? あの人、ずっと丁寧だったじゃないか」
「だって、あの人が入ってきてそこに座って、木の箱を開けたときにね、急に息がちっとも出来なくなって、すごく苦しかったから。もう僕、死んじゃうのかな、って思ったからだよ?」
「な…っ」

 何言っとる、とは長は言わなかった。あの御人はお前の命の恩人なんじゃ、とも言わなかった。言えなかったのだ。あまりのことに、動転して。

 どう頑張っても蟲は見えない。いても、いなくても、分からない。悪い蟲を放たれて、それが孫を病にしたのに、善人面して治したふりで、大金を欲しがられても分からない。見えないと言うのは、そういうことだったのだ。何も知らない無邪気な声で、子供は言葉を続けている。

「あだしのせんせぇの喉のお薬、苦くなくって、よくきいて、もうすっかりよくなるかなぁ、って。今日は外に出れるかなぁって、思ってたんだよ? じいちゃん、もうお外出ていい? せんせえにありがとうって、言いに行ってもいーい?」

 暫し黙って、声が震えなくなってから、それでも蚊の鳴くような小さな声で、長は言った。皆に頭を深く深く下げながら。

「あぁ、わしも一緒に行くからなぁ。お前はありがとうを言いに、わしはすまんかったと詫びを言いに、ちゃんと行くぞ。勘弁してもらえるだろうかなぁ。皆も、許してくれるだろうかなぁ」

 その日、その場で、何人もが涙した。嗚咽を堪えられず、項垂れて泣くものも多かった。けれど零れた涙の殆どが、嬉しい澄んだ涙であった。










 あー、よかったよかった。ほっこりいいエンディング。ってここで終わっちゃダメだぁーーーいっ。新年早々、ムカムカムシャクシャ、ドキドキハラハラ、うるうるほろほろ、そんな「終夜」の三話ですんまっっっせん。

 こんなお話に振り回されて下さる、感じ易い素敵な皆さま方を、今年も存分に振り回して振り回してふーりーまーわーしーてーっっっ…。や、あの、ごめんです、闇夜で刺される気満々な惑い星ですが。書いてて楽しかったですよ? 黒っっ。

 先生体も心も痛くてごめんね。
 ギンコさん、登場させなくてごめんね。
 あぅぅ。ほんとごめんねっ。


13/01/01