終の夜語り
tsui-no-yogatari



… 11







 穏やかな目。いっそ優しいとさえ見えるような。ギンコはそんな顔をして、里の女から粥ののった盆を受け取る。女はギンコを気遣う言葉を放ったが、そんなものの一言すら、ギンコの耳には入っていなかった。

 淡々と盆を受け取り、縁側から部屋の中へと入ってくる。畳にその足が擦れる音、音と同時に床に響いている小さな揺れ。ギンコは近付き、盆を床に置いてから、化野の寝ている布団を半分ほど捲って、敷布団に片膝を付いた。

「…っ…」

 そして白い寝間の着物を着た肩に、ギンコの手が触れた瞬間、化野は厭うかのように身を強張らせたのだ。目が、怯えと紙一重の懇願を込めてギンコを見ていた。そうと気付いたギンコが笑った。意地の悪い笑みだった。

「痛いかい? 三日外れてた肩が? それとも骨の折れてる胸がか? でも少しでも体を起こさねぇと、重湯が喉に詰まるかもしんねぇからな。大丈夫、俺が…抱き起こしてやるからさ」
「待っ…、ギン…コ…」

 体は確かに痛む。肩も胸も、酷く。でもそういうことじゃない。化野はもがく様にギンコの胸に手を置き、寄せられた体を引き離そうとした。もうギンコの胸が、化野の半身に触れている。背中と胸とを抱くように、両腕が静かに回されて、そのままさらに引き寄せられるのだ。

 起こすというよりも、抱き締める所作。首筋に、耳元に息がかかる。ギンコはさらに顔を寄せて、化野の耳朶に囁いた。

「そんな震えることねぇだろ? お前から俺に何か出来るような体調じゃねぇんだし」

 でもその逆ならば、今ほど容易く出来る時などないだろう。何をどうされようと、化野は微塵も抗えない。指の一本にすら、満足な力の入れられない、今ならば。

「ギンコ…っ。や…」

 やめてくれ、やめてくれ。必死で閉じ続けてる扉が開いてしまう。それを二度と閉じられなくなったら、どうしたらいいのか。鍵を回すな、箍を外さないでくれ、今が動けなくても、そんなことをしたら今後…。

「…あぁ、こんなあちこち傷ついちまって。頬と額は、そいつを追い掛けながら枝で切ったのか? 手のひらは崖から突き落とされた時だな。肩が外れたのも、胸の骨が折れたのも…。そんな酷い怪我を負って、こんな重病人みてぇな顔色になるようなことしてさ…」

 する、とギンコの指が化野の頬を撫でた。びくり、とまた化野の体が震える。弱弱しい抵抗を感じながら、ギンコは言葉を続けていた。

「馬鹿だな、お前は。…こんなちっぽけな勇気もねぇくせに。命一つ、ぽいと放るようなことしてんじゃねぇよ。『友』から他のものに変わる程度を怖がってて、自分の命を、なんでそんな軽く見てんだよ。もっと怖がれよ。こんな俺のことなんかどうでもいいから、もっと生きることに縋れよ」

 そんなお前に、俺がどんな想いをしたか。

 自分自身を百も呪って、何すらいらぬと慟哭して、この先のほんのちっぽけな運も幸も、すべてを投げ打つと繰り返し誓って、そうやって、やっとお前がこの世に、戻ってきたのだ。あぁ、だから、最後にするのさ。これがこの先のお前の為にも、きっとなるのだ。さぁ、もっとも正しい選択を。

「怖いか? 化野」
 
 ギンコはそう言って、唐突に化野の体を離した。押しやろうとしていたギンコの胸が、ふ、と遠ざかって、化野の体は布団の上に投げ出された。胸と肩に刺さるような激痛が来て、身を捩って呻いて、その捩られる体を、別の形で押さえ込まれた。

 両肩に、じわりと重み。ただのそれだけで身動き一つ出来なくされて、見開いた目に、ギンコの顔が映っていた。仰のいた化野の顔を、じっと真上から覗き込んで、白い髪に囲われたギンコの顔が、淡い影になっていた。

「でも、俺はそれの何倍も怖いんだ。このまま、お前に会いに来続けることが」
「や、やめて、くれ…ギンコ、やめ…」

 何を、止めて欲しいのか。今からしようとしていることか。それとも、たった今、語られようとしていることの方か。

 開け放ったままの縁側を、時折人が行き来している。手当ての道具やら何やらを、遣り取りしている声が聞こえる。汲んだ水の桶を持った誰かが、庭を歩いてもいた。それなのに、ギンコの顔はさらに近付く。息の音が数えられるほど。

「最後だからな」

 そう、ギンコが言った。なんて長い一瞬だろう。

「嫌だ…っ」

 化野が言った。何を嫌がって言った言葉か、考える余裕などない。

「俺は覚えておく。お前は忘れろ」

 何をだ。何を。分かるのが怖い。それでも、そんなのは嫌なのだと、目で告げたのに。

「ギ…、ん…っ」

 触れた感触は、乾いていた。不思議と温度が無かった。

 床に敷かれた布団に、ぐ、と頭を押し付けて、それで逃げられる筈もない。全身が強張って、その強張りで、化野は何かを押さえつけようとしていた。駄目だ、駄目なのだと、尖った警告が痛い部分に繰り返し刺さっている。癒えていない肩に、骨の折れた胸に。

 想いを、秘め続けている心に。魂に。

「…化野、これは罰だよ」

 優しいほどの声でギンコが言って、もう一度唇が寄せられた。淡いままで、二度目はただ深かった。

「そして俺にとっての…   …だ…」

 意識が飛びそうなぐらいの激しい鼓動を聞きながら、ギンコが二度目のそれの後に、なんと言ったかが聞き取れなかった。

 なんの罰だというのか。
 無茶をした罰だ。ギンコを助けようとして、
 自分が死にかけた罰。
 でも、だって、それは、
 誰に何を言われようと、
 今もこの先も、正しいことでしかないのに。
 そうしない自分など、もう自分ですらなくなるのに。



 気付いたら、誰にもどこをも、押さえつけられてなどいなかった。すぐ傍で、まだ重湯の茶碗から白い湯気が立ち上っていた。縁側を行き来する里人たち。庭を過る誰かもいる。里に一人の医家を、もうこの里の一人である彼を、気遣う言葉。よかったねぇ、と交わし合う言葉。化野のことばかりを、みんな言っている。

 誰か、ギンコのことを言ってくれ。
 あぁ、誰か、誰か、どうか頼むから。

 心のどこかで、そんなことを思っていた。もしも二度とあいつが来なければ、いつか里人たちの心の中から、あいつの存在は、淡くなって、かすれて、消えて。

 最初から、そんな男は居なかったみたい、に…?



「せんせぇ…ッ、無茶しちゃ駄目だよぉ!」

 叫ぶ声を聞きながら、自分が何をしているのか分かっていなかった。布団から這い出して、畳に爪を立てて、障子に縋って、縁側から転げ落ち、出ない声を振り絞って、何かを叫んでいた、つもりだった。だってお前、言ったじゃないか。


 叫び過ぎて死んじまうくらいの気持ちで、叫べ…! と。


 待つから…! ずっと待つからなっ! 一年が無理なら、三年、五年。お前の気持ちが落ち着くまで、そうじゃなかったと思い返すまでっ。ここが自分の居場所だと、俺の傍がいいのだと、本当のことを分かるまで、いつまでだって俺は待ってるから…ッ


 そうだよ、死ぬまでだって、待ち続け。

 もうギンコが坂を下りて行ってると思って、そう叫んだものを、どうしてか彼はまだ庭に居た。その目の前には炭商人のガハチが、左右の横には里長と長の息子がいて、ギンコの両腕を掴み。後ろから服の裾を握っているのは、里の子供だ。

 手に水桶を持ったものも、ギンコに声を掛けていた。前掛けで手を拭きながら、里の女もギンコに何か言っているようだった。叫んだつもりで、ろくに声の出ていなかった化野を、ギンコがゆっくりと振り向いて、随分嫌そうに目を逸らした。

 酷いな、お前。俺がこんなに。

 気付いたら、縁側から転げ落ちた俺のことを、里の色んな人たちが囲んで支えてくれていた。沢山の目があって耳があって、それでも構うものかと、俺は言った。


 お前のことが、好きだよ、ギンコ。


 その言葉も、うまく声にならなかったのかもしれない。里の誰もが驚いていなかったから、多分聞き取れる声じゃなかったんだろうと思う。でもギンコには届いたのだろう。 
 
 もう一度振り向いた顔が、ほんの少しだけ、泣き顔になり掛けて歪んだのだ。唇が動いたのを、自分勝手に俺は解釈した。


 そんなもん、自分だけだと思うなよ。






 あれから、もう三年が過ぎた。たった三年だ。まだまだ死ぬような年じゃない。だから、まだまだお前を待っていられるよ、ギンコ。その事だけで、十分嬉しい。

 今年もそろそろ炭商人のガハチがくる頃だ。そう思って文机に向かう。年に五、六度出している文は、返事こそ一度もないがちゃんと届けられているそうだ。今日は最近、庭に咲くようになった花のことなど、書いてみることにする。

 書き出しはどうしようかと、筆の柄を唇に触れさせたら、あの時のことを変にはっきりと思い出して、一人で狼狽してしまった。
 
 あの時、お前の言った言葉が、本当はちゃんと聞こえていたのだと、一年が過ぎた頃に俺は気付いたんだ。

 なぁ? もう三年が過ぎたよ、ギンコ。だったら「それ」は、そろそろ足りなくなる頃なんじゃないのか? お前がそうと望むなら、あんなものくらいいつでもくれてやれるから、取りに来てくれ。欲しければ、そう言ってくれればいい。嫌でなんか、あるものか。


 ギンコ 元気にしているか?
 俺はすこぶる元気だ。
 冬の寒さは厳しかったが、もう肩は痛まなかったよ。
 庭に咲く花のことを少し話させてくれ。
 かわいらしい小菊なのだが、色が少し変わっていて…。


 書き終えた文を、綺麗に小さく畳んで、俺はそれへ唇を寄せる。文と共に僅かばかりでも届けばいいが、そういうのは言わなきゃわからんかな。それともやっぱり、直でなきゃ駄目なもんだろうか。

 それにしても、あぁ、お前の声は罪深いほど、今も俺の耳に生々しく響いてくるよ。
 


 …化野、
 これは罰だよ。
 そして、俺にとっての

 生きる糧だ…






 
 


 




 お わ り ま し たっ。

 かきはじめるとき、らすとどうするかかんがえてないとか、そういうのって、わたしにとってはもうあたりまえのことなんですが、こんかいはつまり、このきすしーんをかきたいがためのっっっていうおはなしでしたぁ。

 あ、平仮名ばっかり読み難い? ですよね。いや、何となく。三年後の話を書くかどうかは未定ですけど、この直後に会いに来る、と思う人っ。手ぇ上げて〜〜〜っ。

 はーーーーーーーーーーいっ。って、私が上げてんじゃん。聞く意味ねぇーじゃん。

 ってもう黙れ? すみません、テンション高くて変な執筆後コメントでっ。読後感台無しですよね、すみません黙りますっ。読んで下さった方ありがとう、ってか、支えてくれたtさんに、一番ありがとう。


13/04/21