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かさかさ、かさかさと、足元に、踏み締める乾いた落ち葉が煩い。心の奥でお前の眼差しがもっと煩い。ろくにこちらも見ないくせ、言葉も極々短いくせ、ほんの一瞬、交わっただけのその目が本当に煩いんだ。
風邪などひくなよ
俺の目の届かないところなんかで。
怪我もするな
するなら俺が手当出来る時にしろ。
気を付けていけ
早く戻ってこい、この里へ。この家へ。
俺の、傍へな。
そして、無言になっても声は聞こえるんだよ。穏やかで優しいお前の声が、折り重なるようにして俺のこの心の上。
なぁ、ギンコ。
お前にまた早く会いたい。
ここで待つのは本当に長いよ。
恋しい、恋しい、恋しい。
忌々しい気持ちになって、つい髪を掻き乱す。分かってるさ。実際お前が言うのはいつも、一言二言だけの短い見送りの言葉だけ。それへお前の言わぬ心を付け足すのは、勝手な俺の心なのだ。別にそんなには思ってないかも知れないのに、背を向ける前に、チリ、と交わった眼差しが、こんなにも雄弁な語りを想像させちまう。
ぱき。脆くなった枝を踏んだ。随分大きく聞こえた音に、思わず足を止めて息を付く。あぁ、しまった。峠をまた一つ越す前に、一晩過ごせる小屋か安宿を探して、そこで夜を過ごすつもりが、うっかりまた山へ入っちまってる。
戻るかな。
そう思った。こんな木の疎らな山道なんかで、風のぴゅうぴゅう吹き付けるのへ身を曝しながら夜明かしするのはきつい。
前の離れ際の事を女々しいような気分で延々思い出しながら、お前んとこへ向かってる途中だが、ちっと戻るくらいいいだろう。せいぜいが一刻二刻程度の遅れだぜ、そのくらい我慢しろよ。我慢できるだろ? なぁ、俺よ。
来た道を戻り掛けたその時、木箱でカタカタと音が鳴った。虚が来てる。この音はふみがあるな。依頼か? あぁ、もしも逆方向だったらどうする、見たくねぇなぁ、とは、またなんとも女々しい。
道の脇へと寄って、下ろした木箱から虚繭を取り出した。引っ張り出した文が、なんだか随分と黒く見えたが、その訳もすぐに分かる。届いたふみは一枚だが。裏と表、両方に文字が綴ってあったからだ。
何してんだ、あいつ。表だけじゃ足りなくて、裏にまで書いたのか。何をそんなに長々と。文面へと目を落とし、息が止まった。書き記してある内容には日付がない。これはいったい、いつ書かれたふみだ?
いつこんなことがあって、そして今、お前は…?
足元をかさかさと、枯葉が風に追われて吹き散らされていく。今年の冬は早いのだと聞いた。凍える寒さが、酷く恐ろしいもののように思った。
道を急ぐことしか、今は出来ない。
庭の見える縁側へ文机を出して、傍らに小さな火鉢を引き寄せて、俺はふみを書いてる。指先で押さえているのは、小さく小さく切った薄い和紙。
使う紙はこれ以上大きいと困るそうなのだ。ウロ、という蟲に運んで貰うためには、そうでなければならないと。まぁ、いいさ、長く書いたって、結局言いたいことなど多くないのだし、本当に言いたい言葉はけして、表さぬ。
そろそろ来る頃かと思って筆を取った。
聞いた話だと、東側の峠の手前、
何箇所か道が崩れて通れないらしい。
旅慣れたお前のこと、抜かりはないと思うが、
どうか気を付けてきて欲しい。
待っている。
化野
ふみを書き終えた小さな紙片を、失くさぬように封筒に入れ、大事に大事に懐へとしまう。それから綿入れに腕を通し、前を掻き合わせるようにして外へと出た。文は里長のところで預かってもらい、急ぎ旅の炭売り商人に託してもらうのだ。この季節、それが一番早いから。
そういえば、長の孫の、まだ小さな子供が風邪気味で、一昨日薬を処方したが、様子はどうだろうか、薬は効いただろうか。門を通って長の家に入って行くと、嫁御が出て来た。いつものことなので預けるふみは差し出したが、その顔色が少し青く見えた。
「…あぁ、先生」
嫁御も風邪だろうか。にしては何やら…。何かが心に引っ掛かるような気がして、ふと奥を伺う。聞こえてきた言葉、聞き慣れぬ声で、蟲、と届いた。それから狼狽したような長の声で、知らんかった、と。
「誰か客人、ですか?」
そう問えば、嫁御は視線を逸らしてから頷き、一度奥へと引っ込んでから、改めて奥へと通してくれる。長と向かい合うようにして、きちんと正座している男がいた。二人の向こう側には、幼い子供が一人、布団で寝ている。
昨日は顔が赤かったのが、今はそれが治って、静かな寝息で寝ているようだった。子供の枕もとには擂鉢、それに、幾種類かの乾燥した実のようなものと、薬草らしきもの。何かを煎じて与えていたような。
すると医家だろうか。なりからして旅の、医家? そう思ったすぐあと、違うと分かる。男が脇へ手を伸べ、体の向こう側に置いていた荷物を引き寄せたのだ。木箱だ。ギンコのとよく似ていた。すると、この男は。
「蟲師です。初めてお目にかかる。今、長に話を伺っていたのだが、先生に、聞きたいことがありましてね。この里にたびたび訪れている、髪の白い若い蟲師」
「…ギンコが、何か」
胸騒ぎなど、何故したのだろう。至極まっとうに見えるこの男のどこに、ざわめくものを感じたのか分からない。彼は言ったのだ。ギンコのことを。俺だけは本人に聞いていて、他の里人へは話していなかった、そのこと。
「ギンコというその蟲師、酷く、蟲を寄せる体質でしょう。そうした体質の蟲師は普通、一つの里に幾度も訪れるものではない。常に、危険なものを纏い付かせているかも知れぬ身で、ましてや幾日か続けて滞在するなど、当たり前の神経で出来はせぬはず」
嫁御が子供の寝ている傍へ行って、その頬を大事そうに撫でるのが、視野に入っていた。その嫁御と孫とを、愛しげに見やる里長の姿も、そして長が俺の方へと、責めるような視線を向けた。
「知っとったんなら、なんで、今まで…あんたは」
言葉でも責められた。すぐに何かを言わねばならないと分かっていたが、どう言えばいいのか分からなかった。
ギンコは蟲を寄せる。確かにその通りだ。本人も言っていた。危険な蟲も寄るかもしれない。その為に、常に短い滞在しか出来ず、年に数回しか寄れぬ。
それが、精一杯、俺のこの里を思ってのことだと分かっていたから。そうしてさえいれば心配などする必要もないのだと、俺は思ってた。ギンコを信用しているからだ。今だって信用している。だから、どうしてこんなにきつい目で見られるのか、分からない。
はっきりとは言わないままでも、長の孫の病はただの風邪ではなく、ギンコの寄せた蟲のせいだと、俺はたった今ここで、責められているのだ。擂鉢や薬の類を木箱に片付けながらも、蟲師を名乗った男が、まだ責めるような顔をこちらへ向けていた。
長はまた孫を見やってから、俺の方へともう一度向き直る。そして言った。
「ともかくの。今度のことぁこのお人のお蔭で、孫もこうして無事でいられたが、もうこんなことが起らないよう、化野先生にゃぁ、あのギ…」
「ま、待って下さい…っ」
息も詰まるような気持ちで長の言葉を遮ったが、子供の頭を撫でながら、嫁御までが言った。
「ギンコさんは、随分先生と親しくしてたから、ここの里に来たいのは分かるんですけど、でも…」
いつの間にか廊下に長の息子が立っていて、やはり何も言わずに責める顔。
どういう意味のその表情だ? もう二度と来るなと言えとでも? お前がきたら迷惑だと。お前のせいで子供が蟲患いで、大変なことになるところだったんだ。だから来るな、この里に近寄るな、と?
そこまで言わなくたって、こんなことがあったと聞いただけで、ギンコはここには来なくなる。ことの真偽がどうであろうと、それを正すこともせず、きっと、二度と、この里には…。
そんなのは、嫌だ。
項垂れて、随分黙り込んでいたように思う。それは、あまりに愚かな行動だった。焦れば焦るほど、ギンコの罪を庇うようにしか見えず、危険なことを分かっていて隠していたとしか、きっと思われないだろう。長く黙ったあと、やっとすべきことを思い出す。
「待って、下さい、頼みます、長…。ギンコだって腕のいい蟲師なんです。覚えてるでしょう。以前、この里の子供を蟲患いにしたのは、あいつじゃなくて俺で、それを治して子供の命を救ってくれたのは、ギンコだったということを」
そうだよ。あいつは、分かっていてこの里に影を落とすような事はしない。しないんだ。そんな奴じゃない。
長は口を引き結んで、やがては言った。
「その話も聞いてもろうたが、その時の蟲も、おそらくギンコさんが前に連れてきてしまったのが、先生の蔵に居付いていたんだろうと」
「…っ、違う…ッ」
膝の上で握り締め続けているこぶし、着物の上に黒く血の跡が付く。それへ気付いて嫁御が息を飲んだ。長も気付いた。急ぎ、手当の道具が持って来られ、握ったこぶしを開くように言われたが、化野は震えたままで顔を上げている。
「こんなものは、何でもない。それより、あいつのことをそんなふうに…っ」
その時、化野は、はたと気付いた。いつの間にか、あの蟲師の姿が消えていたのだ。井戸を借りたいと言い出し、裏の庭へどうぞと言葉で案内され、そのあとどうやら、そのまま…。
胸がざわめいていた、何かがおかしいと。
あの男を、このまま去らせるわけにはいかないと思ったのだ。引き留める声など耳にも入れず、俺は長の家を辞して、男の行方を探したのである。
続
「物言わぬ宵」の続きとなるお話のつもりで書いています。あの話はちょっと異色?だったから、よかったらそちらも読んでもらいたいと思い、blogに載せていたのをこちらにも引っ張ってきましたー。全9話、一ページずつアップするのが面倒なんで、ごめんなさい、三話を一ページに載せてます。
この「終の夜語り」。「ついのよがたり」と読んで下さると嬉しいです。このタイトルに似合う話にしたいと思っていますが、今のところまだ前作の「宵」の空気が出てませんねー。
どうなることやら、なのです。どうぞ続きも待っててやってくださいな。
12/12/02