生 青 花 - sei sei ka - 5
「『おかあさん』の治療をして下さったそうで、ありがとうございます」
「…え」
何を言われたのか分からなくて、化野は思わず相手の顔をまじまじと眺めた。彼女は随分とあの人に似ていて、それだけでも驚いたのに、完全に出端を挫かれた。この人がしようとしていることを、何とか思い止まらせたかったはずが。
「あぁ、うちではずっと、そう呼んでいるので、つい。…あの…おかあさんは、やっぱり怪我をしてましたか? 酷い怪我だったんでしょうか」
「いや、痛そうではあったが、それほど。…何故、あの人をそう呼んでいるのか、聞いても差し支えはないだろうか」
引き込まれるように尋ねた化野へ、まるで夢みたいな話なんですけど、と、トモリは言った。それでも拒む気はないようで、軽く会釈してから彼女は縁側に腰を下ろす。障子と襖を一枚ずつ開けさえすれば、そこにはずっと会いたかった人がいる。家に代々伝わってきた、不思議な物語の中の人が、今も「生きて」そこにいるのだ。
やがて彼女は口を開き、少し、長い話をし始める。
始まりは昔々の…
ある里に、妻を森に取られた男がいた。男は森に消えた妻を探し回る。森の深くへと一人で分け入り、毎日毎日探し回る。その夫婦の子供は、母親がいなくなったのを、自分のせいだと思って項垂れる。我が子のそんな姿を見て、男は森に入るのをやめた。
泣いていては駄目だ。
お前が辛いとおかあさんもきっと辛い。
顔を上げて、笑って生きて、
そしてずっと、いつまでも、
おかあさんのことを、忘れないでいなさい。
男は森に入るのをやめた代わりに、子供に母の事を沢山話した。そして拙い手で森の絵を描いた。絵の中の森はほんのり青く光って、そこにはひっそりと佇む女が描かれていた。「おかあさん」だよ、と男は子供に言った。
そして子供は大人になり、老いた父親が死ぬと、絵を描くことを受け継いだ。妻が出来て子供を授かると、絵を描くことを教えて、物語のように自分の母親の話をした。父親に聞いたことをすべて自分の子供に伝えた。その子供もまた、自分の子供に同じように伝えた。
夜の森。青く美しい森の花。花のようにずっとそこにいる美しい人影。それは優しい優しい「おかあさん」。この人は自分たち一族皆の母親だから、心の中で大事にしなさい。きっと、遠い森の奥で今でも「おかあさん」は子供の無事を祈っているよ。だからその人は、一族皆の、大切な人。
絵描くことと共に伝わる、そんな不思議な物語。
語り終えて、トモリは化野を真っ直ぐに見た。
「随分おかしな一族だと思うでしょう? でも、それが本当にあったことだと、私たちは信じてきたんです。忘れないために、ずっと故郷の森の絵を描いてきた。その人は何代も前の私の祖先だけれど、自分の母親のようにも思えるんです。だから…」
だから、無駄に終わってもいいから、
一度だけ、本気で探そうと思ったんです。
そこに「居た」しるしだけでもいいから、
見つけたいと思って。
そう、彼女は言ったのだ。
「探したくて、私、一枚の絵を抱えて、言い伝えが残る森を探したんです。それらしい森は見つかったけど、おかあさんどころか、青い花も見つからなかった。森の外で疲れて野宿していたら、大事な絵が盗まれてしまって。がっかりして帰ろうとた時、ギンコさんに会ったんです。そして話を聞いてもらった。どうしても会いたいのなら、と、ギンコさんは言いました」
そこまで聞いて、今度は化野がギンコの顔を見た。トモリの話を聞きながら、背中で柱に寄りかかっていたギンコが、やんわりと笑って問い掛ける。
「少しは意見が変わったかい? 化野先生」
怒ったような顔をして、化野は口を引き結んだ。何も知らずに闇雲に反対しようとしていた分からず屋。もしや自分がそうなのかと思えて、さすがの化野も中々言葉が出ない。
「だが、事実の全てを教えるのは…あまりに…」
「可哀想、か?」
肩をすくめて、ギンコは自分自身を笑いたい気分になっていた。化野を手厳しくやっつけたのは、ついさっきのことなのに、ギンコは今更、彼の意を汲もうとしている。
「トモリさん。あんたはこれから、俺がここに連れてきたヒトに会うつもりなんだろう。会ってすべてを話せば、我が子がこの世のものじゃないと分かって、彼女はきっと落胆するよ。あんたが会おうとしているヒトは、今はもう半ばヒトじゃあないが、それでも、まだ心を持ってるから」
探し続けていた我が子は、本当は迷子になどなっていなかった。迷っていたのは自分の方で、何十年もの長い間そこで迷っているうちに、自分の見知っているものは、もうこの世に誰一人いない。それを知るのは「死にたくなるほど」辛いことだろう。
「なら、どうして…」
トモリは顔を上げて、じっとギンコを見た。
「どうしてギンコさんは、その人を見つけて、ここに連れてきてくれたんですか? 会わない方がいいと思うなら、どうして…」
「……そう、だよなぁ」
ギンコは困ったような顔をして、一度静かに目を閉じた。
「辛いだろう、と思ったんだ」
「辛い…って…」
消えた我が子を探し続ける女。
蟲に体を侵されて、夢うつつになりながら、
夢の狭間で、彷徨いながらも、
それでもきっと、揺れるように思い出しては、
子供を探している、哀れな母親。
万に一つでも、救えるのなら。ヒトに戻してやれるのなら、と、連れ歩きながらそう思いもしたが、そんなことはもう、夢よりも遥かに遠い夢。もう、彼女はヒトには戻れないだろう。それでも、僅かばかりでもヒトであるうち、会いたいと言う血縁に、会わせてやれれば、救いだろうかと。
ギンコはその時、ちら、と化野の方を見た。どうするべきだろうか、と、問うような眼差しだった。化野はぎくりと目を見開き、惑いながら唇を噛む。どちらを選んでもきっと酷く辛い。真実を彼女に教えても、教えなくても。
「わたし…」
トモリが何かを言いかけたその時、ガタ、と奥の襖が音を立てた。三人が三人して閉じた障子を見たのだ。音がしたのはその向こう。かすれたような弱弱しい声が、ぽつり、聞こえてきた。
「…とも…り」
「あんたを呼んでる…!」
「違います。…あれは私のことじゃない。うちは代々、第一子には同じ名を付けてるんです。男でも、女でも、森で迷子になった子供と同じ名前を。だから、これは」
これはきっと『おかあさん』が、我が子を呼ぶ声、なのだと。
「そこに、いる、の…? ともり…」
ガタタ、とまた音がした。開けた襖に縋り、そのまま崩れ落ちたような物音。
「ともり。…とも…り」
どさ、と、音を立てて、トモリが自分の荷物をそこに放り出し、閉じた障子に駆け寄る。草鞋を脱ぎ飛ばし、彼女は障子を開けて部屋に上がり込んでいった。そして、そこを開けたままに凍りつく。青い女が、そこにはいた。ずっと「絵」で見て「絵」に描き、話を聞き続けていたヒトの姿だった。
「お、おかあ…さん…?」
そこに倒れていた青い女は、顔を上げてトモリを見た。じっと見つめて、青硝子のような瞳を揺らした。青白い色の睫が、青く透き通る涙に濡れて、ゆっくりと瞬かれる。そして彼女の視線は、不安がるようにトモリから逸れた。トモリが息を飲む気配が伝わる。
ぱしん、と、音を立てて、彼女は障子を閉めた。刺さるような視線を気にしもせず、ついさっき投げ捨てた荷物の傍に屈み、その中から小刀を取り出す。そして…
「な、何してるんだっ、あんたは…っ」
「いいんです。この方が、きっといい。これで、少しは…」
トモリは肩の上で緩く纏めていた髪を解き、長くて綺麗な自分の髪を、肩よりも短くばっさりと切ったのだ。例え地味な旅装束を着ていても、髪を短く切ったくらいで、何かが変わるわけでもない。それでも彼女はそうやって、男のように髪を切って、それを己が手で掻き乱した。
手を出すことなどできず、化野は縁側で、ギンコは庭にいるままで、事の成り行きを見守った。もう一度障子を開けたその先には、青い女が待っていた。開けた襖に取り縋って、片手を伸ばし、必死の声で…。
「おかあさん…ともりだよ、会いたかったよ…」
彼女が失った子供は、まだ幼い男の子だった。ここまで彼女に会いに来た子孫は女で、しかももうすっかり大人になっていて、どこも似ていない筈なのに、それでも…それでも女は泣き崩れた。本当は髪のことなど、性別すらも、どうでもよかったのかもしれなかった。
「さがしたのよ…さがしたのよ…さがしたの」
「うん…」
「ともり、ともり、わたしの子、いとしい…子」
「うん、うん…おかあさん…」
「ごめん、ねぇ、みつけられなくて、とも…り」
「大丈夫だよ。もう…大丈夫」
「…もり…。い…子ね、とも」
「おかぁ…さ…。あぁ……」
ありがとう。
おかあさんのお蔭で、
ともりはずっと幸せだった。
大人になって妻をもらって、
子供も授かったよ。
だからこうして、心を繋いで、
代々ずっとあなたを思って、
今、やっと会いに来た。
だから、もう大丈夫。
探さないでいいんだよ。
眠っていいんだよ。
そして、そこに残ったのは、ほんの数枚の花弁。ぽろぽろと涙を零しながらトモリは、そのヒトの残した花弁を見つめていた。これでよかったのか、分からない。これで「違う」というのなら、本当はどうするべきだったのか、答えを持つものはいない。
続
長い間、離れ離れでいるうちに、愛しい相手はいつしか死んでいて…。
ギンコも化野も、考えたくないようなことですよね。常に離れて暮らしていれば、いつ何があって、逢瀬が終わりになるかは分からない。そんな思いを心のどこかに抱える二人には、冷静に考えられない選択肢。
愛する相手の死を、知らぬ間に独りになっていたという事実を、知りたいか否か。
…ぬぅ、難しいお話です。←この間までストーリー決まってなかった癖に、何言ってるんだって。いやぁ、はははははー。笑って誤魔化しときます。次回はラストですから、どうぞお付き合いくださいませ。
12/09/26
