生 青 花 - sei sei ka - 3
行燈の灯を寄せようとすると、ギンコは身振りでそれを押しとどめた。今「見えて」いるそのことが、照らすことで揺らぐのだという。ぼんやり彼女自身が光っている明かりで、手当てをせよと無茶を言った。しかも、傷のありかも分かっていないのだというのだ。
「……おい、待て。それなら何故怪我をしてるのが分かるんだ?」
「人に聞いたからさ。この人は以前、森を歩いている時、転んだそうでな。どこかを擦り剥いて、血の出るような怪我をしたが、そんときゃ手当なぞしてられる場合じゃなかったそうだ。そのあと家へも帰れず迷ってしまって、森に囚われ…今に至るわけだ」
「な、なるほど」
「詳しいことは話せば長いが、囚われた途端、この人の時間は止まった筈でな。となればその怪我もそのままになっているんだろう。そう思って連れてきた」
それを聞いた化野は、ほかりとギンコの顔を見た。
「そ、それだけで、俺のとこまで? どこから連れて来たのか知らんが、つい近所のそこいらへんてわけじゃないだろうに、なんで」
「ごちゃごちゃうるせぇことなんか言わず、ちゃんと診てくれるなんてのは、お前くらいだと思ったからさ。…違ったかね、先生」
違わん、と口の中でぼそりと言い、化野は内心で少しばかり恥じていた。ギンコが来たとき、蔵で探し物をしていたのは本当だし、顔色の悪いのに気付いて案じたのも嘘じゃない。だけれど化野は、文さえあまりに久々で、それなのに随分と素っ気ない恋人に、焦れて苛立って手を出したのだ。
実をいうと、坂をゆっくり上ってくるギンコの姿を遠くに見て、謀るように蔵へと入ったのである。そのままことを始めるつもりで、声も姿も人に気付かれないあの場所で待ち構え、計算尽くで捕まえた。そんな内心があるもので、ギンコの信頼は心にちくちくと痛い。
「違わんが、悪かった。ちゃんと診よう。何か助言があれば聞きたいが」
「あ? 何が悪かったんだか知らねぇけど、助言するなら一つだよ。見て分かるだろうが、血も傷口も恐らくは赤じゃない。青か、白か…」
「…なるほど、よく分かった。…じゃ、失礼するよ」
真摯な顔をして化野は女の手を取った。右手から先に取り、指先から子細に見て、裏を返して手のひら、手首、そこを上へと通り過ぎ、そっと袖に手を掛けて、する、とまくり上げながら肘までをゆっくりと見る。
何しろ相手は妙齢の女だ。まどろっこしいので脱いで下さい、等とは言えない。だというのに横で淡々と見ていたギンコが、あまりに無造作にそれを言ったのだ。
「…なんなら脱いで貰うか? 診察なんだし、遠慮してても始まらねぇだろ」
「い、いや、でも…」
実際、医家としてそうして貰うことも無くはない。でもそれはもっと別の類の診察の時だろう。たとえば、猶予している場合じゃないほどの重い病気、それか、かなり出血の酷い怪我だとか、妊婦だとか。胸や腹を見る必要のある時。だから、どこか擦り剥いた、なんてことで女性の着物を脱がすなんていうのは…。
「いいよ、まぁ、転んで擦り剥いたのなら普通、腕のどこかか脚だろう」
「そうか? その人は今はあんまり『ヒト』じゃねぇから。別に脱がされたって、それほど気にしないとは思うけどな」
かもしれないが、ギンコが横で見ているから、余計に女性を裸になんかしにくい。化野は真剣な顔をして、今度は女の逆の手を見た。両手とも肘まで見たが傷は見つからず、今度は足を床へ伸べて貰って、声を掛けながらそろりと着物の裾を捲る。
青白くて淡く発光している美しい肌。傷一つなく…と思ったが、左足の膝の外側あたりに、青く色の濃い部分が見えた。よくよく顔を寄せて見て、指先で軽く撫でて確かめて、それが擦れたのと切ったのの合わさったような怪我と分かる。青色は滲んだ血と、皮が向けて皮膚の赤身が見えて…いや、青身? とにかくそれが傷だった。
「あぁ、結構深い。こりゃあ痛かったろう。手当ても出来ずに、よく今まで辛抱したね。今、血止めと化膿止めの薬を」
心からそう言って、ふと顔を見ると、女は突然…。
「え…! あ…。なんか、まずいこと言ったのか、俺が」
女は、何かに戸惑うように急に深く項垂れて、その白い両手で顔を覆ったのである。指の隙間から零れる滴は、青と銀を混ぜた色に光って、彼女の来ている白い着物にしみて透き通った。
わたし なに … ?
問い掛けには聞き覚えがある。ここへ向かう前にも確か一度。同じ言葉でまた答えようとしたギンコだったが、化野が彼女の肩に手を掛けて先に言った。
「…何、って、俺にとっちゃ、あんたも普通に患者だ」
それから化野は普通に患者を診るように、丁寧に彼女の治療をし、返事が返るかどうかなど、頓着していない様子でいくつか彼女に告げていた。
軽く布を当てておくが
痛むようならこの痛み止めを
腫れるようなら安静にして
明日また見せてくれるように
何、このくらいなら跡は目立たんだろう
だから、案じることはない
「…名医だね」
ぽつり、と、ギンコが言ったのは、一度は抜け出た布団に戻ったあとだ。傍らの別の布団に体を伸べて、薄目を開けて天井を見ていた化野が、ギンコの方に軽く寝返り打って呟いた。
「世辞はいい。彼女には隣の部屋で布団に寝て貰ったが、そうしてよかったのか? 治療前まで庭の隅に立ってただろう。それで足元には花が咲いたな。朝になったら向こうの部屋の中、うっそりと草が生い茂って花が咲いてる、なんてことに」
「なるかも知れんが、ならんかも知れん。うっそり生えてりゃ見事な光景だろうよ。とにかく…今日という今日はお前を」
敬いてぇきになったよ。ギンコは化野から離れる方に寝返り打って、小声になってそう言った。
「あ、そういや、さっき見せようとしてた品はなんなんだ?」
暫し黙ったあと、話を変えてそう言ったが、化野は既に少しうつらうつらとしていたようだ。閉じかけた瞼の下で、目だけをギンコへと寄越す。
「あぁ、絵だよ…。見た目には変哲もない山だか森の中の絵だ。いつになるか分からんが、描かれた風景が移り変わるのだそうだ。ま、九割がとこ紛いだろうがな。綺麗な絵なんでそれでもいいかと思って買ったのだ」
くす、と化野が笑う気配。
「そういやその商人の口上、ほら、前にお前が俺に売ったあの羽織の話にどこか似ているな」
一緒にすんな、と一応そう文句を言い、明日見るよ、とギンコは返事をした。意識を研ぎ澄ませても、隣室にはヒトの気配を感じない。代わりに蟲の気配がある。新月は今夜で、明日はもう新月ではないからだ。天から注ぐ光のない宵でなくば、彼女は人に見える形を保ってはおれぬ。その筈だった、のだが。
翌朝、すい、と無造作に襖を開けて、ギンコは少なからず驚いた。布団に身を起こした格好で、女がそこに座っていたからだ。夕べと同じで、その姿を為す輪郭が、揺らぎもせずしっかりと見えている。これは、もしや。
「化野…!」
「なんだどうした、朝っぱらからそんなでかい声を」
一足先に起きていたらしく、顔を手拭いで拭きつつ、井戸の方から化野が戻ってきた。開け放たれた襖を見ると、夕べから出してある手当の道具の中身をいくつか取り、声を掛けながら隣室へと入っていく。
「あぁ、よく眠れたかい。そうならよかった。で、傷の塩梅は。痛くない? ほう、そりゃあ。…うわ…っ」
女の傍に膝を付こうとしていたところを、いきなり後ろから首根っこを掴まれる。付き掛けた膝もつかず、強引にそこから引き離されて、ぱん、と襖は閉じられた。
「あだしの」
「何するんだ、お前はっ。それこそ失礼だろう…!」
「失礼がどうした。まずは答えてくれ、お前『見えて』るのか!」
しかしそれは聞くまでも無いことだった。いかな化野でも、見えてもいない相手にあんなふうに話しかけたりはしないだろう。しかも何やら会話まで成り立ってはいなかっただろうか。
「見えて、って、あの人がか?」
「それ以外にあるか?」
「…見えている。見えていたらおかしいのか? もしかして、夕べ、唐突に現れたみたいに、もう今は俺に見えない姿に戻っているはずだった、ということか」
「あぁ、そうだ。化野、お前、そこの囲炉裏の隅に何か見えるか? そっちの畳の縁のあたりは?」
指し示された場所を念入りに見て、化野は首を横に振る。蟲が見える体質になったわけではないらしい。驚いているばかりだったギンコが、何かに思い至って天井を仰いだ。化野が変わったのでなければ、女の方が変化したのだ。おそらくは、月があろうが真昼だろうが、誰にでも姿の見える存在に。
「参った…。こっから先も連れ歩かにゃならんのに、いったい、どうすりゃいいってんだよ」
続
先生は名医ですよね。勉強熱心だし、患者相手にはしっかりと親身になるし、患者がギンコだった場合は少々取り乱したりしますが、それは「愛」だからしょうがないww 話がイマイチ進展してませんが、も少ししたら進展するはずなので、すいませんですー。
続きの予定としては、この女性がどんな人なのか少しずつ…またはどばっ、と、書く。彼女の身内を出す、と言ったところです。先生の買った珍品がちょっと気になるなー。
ともあれ、読んで下さりありがとうございます!
12/09/02
