恋喰らう花 2
「さ、こっちだ。ここだよ、休むといい」
そんな声が聞こえて、ギンコはうたた寝から覚めた。途端にぎくりと目を見開き、化野の連れてきた女を見る。あの女だ。ここへ来る前に会った女。
「浜んとこで、この人が具合悪そうにしてるのに出会ってなぁ。遠慮はされたが、医家として見過ごせんと」
「化野、ちょっと…」
思わず、女から引き離そうとしてそう言った。だが化野は、まずは患者が優先と、今にもその女の手を取ろうとしている。ギンコは焦った。女を突き飛ばしたいような思いまでした。酷い話だとは思う。まだ何も分からないというのに、触れてはならぬ穢れのように、人を扱うなんて。
「ちょっと、その人を診る前に俺の話を」
「ん? あぁ、そうか? でもまず上がって貰わんことにはな。さ、こっちへ」
「化野…!」
ギンコの言葉で化野も気付きはしたのだろう。蟲患いのおそれあり、かも知れぬのだと。でも、触れてもならぬ、傍にいてもならぬ、見ることでも危ういかもしれないなんて、そんなことに気付ける筈もない。今にも化野の手が、女の袖のあたりに触れそうになり、ギンコが声を上げる寸前だった。女が口を開いたのだ。
「わたし…」
声は震えていた。か細くて、悲しいような声だった。
「わたし、もう行きます。一つ谷を越えた先に、山小屋で暮らすきこりの方がいると聞きました。日の暮れる前に、なんとかそこに…。詳しく道を教えてだけ頂けたら」
そして女は顔が見えぬよう、すっぽりと布をかぶったまま、確かにギンコの方へ向いて言ったのだ。きっと気付いたのだろう。ギンコが何かを分かっている、と。
「わたしの来た方から、わたしのことを探して、きっと一人の旅の男の方が来ます。どうかその方へはこう伝えて下さい。『女は舟を頼んで、水路から道を戻った』…と」
言い終えると女は顔の傍で被り布をしっかりと押さえ、万が一にも顔を見られぬようにしながら、深々と一度頭を下げた。そうして背中を向けて、ふらつく脚で坂を下りて行こうとした。
「そんな疲れた脚で、一人で…っ」
化野がそう言った言葉に、ギンコは自分の言葉を被せた。
「俺が悪かった。分からんものに無駄に怯えるばかりの阿呆だったよ。要するにあんたの顔、見なきゃ大丈夫なんだろう。だからそうやってずっと布被ってんだろう? 気ぃつけていりゃ平気なもんを、闇雲に嫌がって追っ払おうなんざ、蟲師の風上にもおいておけん振る舞いだった」
ずっとそんな目にあってきて、そうされる辛さも分かってる筈だってのに、なんてぇ無神経だ。正直、穴があったら入りたい。ギンコは手を伸ばして、強引に女の手首を掴んだ。ぎっちりと握って離さぬようにし、そのままで化野を呼んだ。
「化野っ」
「お、おう」
「目隠し…!」
「へ?」
「いいから目隠ししといてくれっ! 蟲患いかどうかを俺がよく診て、そうでなかった場合だとか、蟲患いと普通の病と両方だった場合には、お前には『めくら』でこの人を診てもらう…っ」
言いながら阿呆さ加減に顔から火が出そうになる。目を逸らしててもらえば済みそうなもんを、ギンコはそれでは怖いのだ。万が一、化野がこの女の顔を見てしまい、べったりと惚れて纏いつく姿を見るのが嫌だ。断じて絶対嫌なのだ。
そうして化野がしっかり目隠ししたのを確かめると、ギンコ自身は数本の蟲煙草に火を灯して、もうもうと煙を立ててその煙を自分の体に浴びた。
「よし、じゃああんた、その布外してみせてくれ」
「…出来ません」
「何でだ。今までだって道々男を惚れさせて来たんだろう。そうして自分に惚れさせては、相手の心ん中の『恋慕の情』を蟲に食わせながら旅してきたんだろう? あんたがほんとに好いてる男の『心』を、その蟲に喰わせないようにするために…!」
ギンコの言葉に、女の体がびくりと震えた。女はギンコの手をもぎ離そうとし、白い細い指で、華奢な腕で必死に抗った。
「嫌です、離してください…っ。誰かと好き合ってる方に、この姿見せたくないんです! 男の方はみんな私しか見えなくなって、真実好いてる方のこと、すっかり忘れてしまうんですよ…?!」
「分かってるよ、そんなことは! だから俺も化野があんたを連れて来た時は心底嫌だったんだッ。それに俺だって…、こいつのこと忘れてあんたに惚れ込むだなんて、真っ平だ…っ!」
あまりと言えばあまりなことを言って、ギンコは女の被り布を毟り取った。体裁だのなんだのも、気にしてる余裕もありゃしない。化野はといえば、目隠しを取るわけにもいかずにおろおろして、どんどん明かされる話に口を閉じたり開いたりだ。
「ギ…ギ、ギンコ…っ」
見たら惚れちまうだって? そんなの、それじゃあ、ギンコはこの人を好きになっちまうのか…? でもそうならないように、蟲煙草の煙を焚いてんだよな? 大丈夫だよなっ?
「大丈夫だ、化野、ちゃんと蟲煙草の煙が効いてるようだし。…にしても、こりゃあ」
本当に、本当に息をするのも忘れそうなくらい、美しい女だ。そんな美しい女が、辛そうに身を震わせて目に涙をため、弱々しく顔を逸らして目の前にいるのだ。蟲の悪戯じゃなくたって、よろめきそうな気がしてくる。
蟲の見えるギンコの目には、そんな美人の体から、淡い陽炎のように揺らめく蟲の気配が感じ取れていた。とりわけその長い綺麗な髪から。灰色をした、ぱっとしない見た目の小さな蟲の姿もちらりと見えた。
目まぐるしく動くので数えにくいものの、だいたい八つか十か、いても十二くらいのものだろう。その蟲どもが、ギンコの焚いた煙を嫌がって、近付いてこようとしては引っ込んで…。
「手荒をして悪かった。布、被ってくれるかい」
ギンコが腕を離すと、その細い手首にはくっきりと指の跡。女の抗いが、心底本気だったからだ。女が布を被るのを見ながら、ギンコは静かに言った。
「姿も美しいが、あんた優しい人だな」
「…そんなこと」
「分かるよ。あん時の釣り人にゃあ、川で水でも飲もうとしたとき、うっかり見られちまったんだろ? 谷越えた山小屋っつったら、偏屈で有名な男が一人で住んでると聞く。どうしても惚れさせるしかないなら、妻も恋人もいねぇ、誰のことも好きになってなさそうな男の方が、まだいいもんなぁ」
この蟲は憑いた女に惚れた男の恋心を喰うか、それでなければこの女自身の中の恋心を喰うのだ。喰われた心は二度と取り戻せないと聞く。
誰かのことを心底好いているなら、そうやって心を喰われて、失ってしまうのは辛いだろう。それに、好いたその相手を自分に惚れさせることは出来ても、その後あっという間にその心は喰われてしまい、その男は二度と、自分を好いてはくれなくなる。
だから。
逃げて逃げて、女は一人で旅をしていたのだ。自分を愛してくれ、そうして自分も心から愛した男が、ずっとずっと追ってくるのを分かっていて、だからこそ必死で逃げていた。追いつかれてしまったらお終いだと、心で泣きながら逃げ続けていたのだ。
「化野、目隠しをとって、この人の手首に痛み止めの軟膏かなにか、塗ってやってくれ。絶対に顔は見ないように。あと、左足首にもだ、挫いてるようだからな」
「……ああ、わかった…っ」
「安心しなよ、化野は名医だから。それに、蟲の対処法もどうやら分かった」
「ほ、本当に…。本当に、ですか…?」
目隠しのまま、じっと聞いていた化野に、どこまで話が伝わったものだろうか。化野は目を覆っていた布を急いで解くと、奥からよく効く軟膏を持ってきて、女の傍にそっと屈んだ。
「よかったね、娘さん。足を挫いてたんじゃあ、追ってくる人にだって、すぐにつかまっちまうだろ。それにギンコは腕のいい蟲師だから、きっともう、追いつかれても大丈夫なようになる」
名医と褒めたお返しだろうか。化野はギンコをそう褒めながら、女の手首に軟膏を塗り、足首にも優しく手当てをしてくれた。女が顔を隠した布が、ほんの少し何かで濡れた。その濡れた跡はたんだん増えて、女は声を押し殺しているようだった。
「あぁ…。その、上がって奥の部屋を使うかい。誰も来ないように気ぃつけとくから、その布外して一人で休むといいよ」
「ありがとう、ございます…。お願いします…」
女はそう言って深く深く頭を下げ、示された奥の部屋へ入っていった。そんな女の様子を眺め、襖が閉まるまで見守ると、化野はギンコへと笑顔を見せる。
「さ、どうすればいい? 蟲を払うのに何が必要だ? 薬でもなんでも、あるものは遠慮なく使っていいからな。あの人の愛しい『追手』がこないうち、なんとかしてやらなきゃあ」
ギンコも、深く笑ってこう言った。
「おう、あるものならなんでも、か。じゃあ男衆を里にいるだけ頼む。そうだな、あんまし若いとどうかわからんから、十六から…んんっと、上はいくつでもいいぞ…!」
続
んんっとぉ。あら、チューすら無い話になりそうですわ。私的には珍しい話ですねっ。いーかーんー。欲求不満になりそうだぁっ。この話はどうやら次でラストのようですよ。ではでは、読んでくださり有難うございました。
あ? この蟲を干して薬にすると惚れ薬になりそうな…!(無理だけども)
12/03/20
