恋喰らう花   1 






 岩陰に、女が一人身を屈めていた。

 確かにそこにいるというのに、あまりに気配がなかったことにギンコは驚いた。視線の先を浮遊していた一匹の蟲が、たまたまそちらへと斜めに彷徨ってゆき、その女の横を通り過ぎたのだ。そうでなければ気付かずにいただろう。

「もし、どこか具合でも…?」

 ギンコはそう声を掛けた。大きな岩の向こう側に、身を隠そうとでもするようにして、女はじっと縮こまっているのだが。

「ひとりか、連れは?」

 一人旅しているようには思えない、華奢でなよやかな女なのだ。くすんだ紅色の着物を纏い、同じ色の布で髪や顔を隠すようにしていた。小振りな包みを体に斜めに掛けているから、旅をしてはいるのだろう。

「もし、具合が悪いんなら、この先の里にいい医者を知っているが」
「連れはおります。今、水を貰いに…」
「…そうか、なら」

「おいっ! そこで何をしてんだ?!」

 と、後ろから怒気を孕んだ男の声。剣呑な言葉に、ギンコは声のした方をゆっくりと振り向く。別に気負いも何もしない。欠片も後ろめたいことがないからだ。

「なんもしてねぇよ、この人が具合悪いのかと思って、今、足を止めたばっかだ。もし必要なら、この先の里には医家がいるから、そこへ…」

 ちょいと言葉が止まる。

「そこへ行ったらいい。若いが腕のいい医者だから」
「そりゃ男だろが、冗談じゃねぇ、誰が」

 どうも言っている事が可笑しい。それに、この男のなりはどう見ても旅をしているものの格好じゃない。そこらの川っぷちで、釣りか何かをしていたものが、気まぐれにぷらりと歩き出した、そんな感じにしか見えないのだ。腰には魚籠、足元はただの草鞋。それなのに、女はこの男を連れだという。

「…あんた。…いや、何でもねぇ。そう怒んなって。気ぃつけていくといい。この道、一刻も歩きゃあ海里に抜けられるよ」
「余計な世話だっ…」
「ま、そりゃ悪かったがね」

 ギンコは屈めていた体を伸ばし、背中の木箱を一つ揺すると、あとはもう振り返らないように進んで、すぐに道を一つ横へと逸れた。丁度そこにあった分かれ道の歩きにくそうな方へ、わざわざ入ったのだ。

 案の定、さっきの二人連れはギンコの後ろからついてこようとせず、真っ直ぐに道を進んで行った。年の離れた夫婦? いや父娘? どちらにも見えない。
 女はずっと布で顔を隠していたが、ちらりと見えた手の、その肌の色や指の形が、驚くほどきれいだった。多分、ふるいつきたくなるような美女なのだろう。そう思ってみればあの男の様子も多少納得がいく。
 
 あの女に、ちょっと男が少し近付いただけで、ああして取り乱すほどべったりと惚れ抜いて、あんな様子ならば化野のところへなぞ行くまい。若い男の医家になんぞ、死んだって診せやせんだろう。

 それにしても、また、随分な…。

 後ろからついて行くだけで、何か有らぬ言い掛かりを付けられそうだ。厄介ごとをさける為に、脇道へ入ってすぐのところで、ギンコは暫し時を過ごし、半刻してから元の道へ戻って歩き始める。 

 そして、もうちょっとで化野のいる里へ入る、という峠でギンコはまたあの男に会った。いや、会ったというよりも、ぶつかりそうになったのだ。男は道もないような草木の茂ったところから、放心したような顔をしてふらふらとまろび出て来て、ギンコの目の前でへたり込んでしまった。

「お、おい…っ、お前っ?」
「…あ、あぁぁぁ…」
「しっかりしろって、さっきの剣幕はどうしたよ」

 ギンコが男を支えてやりながら言うと、彼はぼんやりとギンコを見て、立ち上がる元気もないような顔をして呟いた。

「わかんねぇ…。おらぁ、釣りしてただけだったんに…。なんで釣竿も魚も放っぽいてこんなとこへ来たんだかよ。あの女の顔見たら、頭にかぁ…っと血ぃ上がっちまってよぉ。母ぁが家で待ってんのに、なんで…。なんで、おらぁ…」

 聞けば男の里は、山を二つも越えた向こうだという。そんなとこからあの女にくっついて、ここまで来てしまったと言うことか。

「しゃんとしろ、しゃんと! ちょっとふらついてるが、休みながらいきゃ、お前さんの里まで夜までにゃ帰れるだろ。狐に化かされたとでも思やいい。道、分かるか?」

 叱責混じりでそう言われ、男の背筋はそれでも少し伸びたようだ。何があったかは知らないが。男がせっせと歩き去るのを見送ると、ギンコは恐る恐る、木々の向こうを透かし見た。女の姿は見えない。

 厄介ごとに自ら首を突っ込む気はないのだが、妙に気になって後ろ髪を引かれる。首を横に何度も振って、ギンコは化野のいる里へと向かい、峠を歩きこして行く。
 
 そうだ、多分、あれは蟲がついている。なんという名前の蟲か知らない。でも、そんな蟲を知っているような気がしていた。美しい女を選んで憑いて、その女に惚れた男の心を、すっかり喰ってしまうのだという。
 それでも「女」はただの女だ。自分を好いてくれた男が皆、蟲に心を喰らわれるなどと、そんなことは辛いだろう。もしもあの女が、そんな蟲に憑かれているのなら、助けたいとギンコは思うのだ。でも…。

 ここは化野の里に程近い。女を見つけて、丁度いいからと言って化野の家に連れ込んで、そこでなんとかしようだなどと、とても思えやしなかった。

 蟲に憑かれたあの女が元々はただの女でも、蟲がその身に巣食ううちは、妖しいあぶない「女」なのだ。





「おいこら、ギンコ、どこいく気だ…!」

 いきなりそう声を掛けられて、ギンコはびっくりしたように顔を上げた。気付けば丁度化野の家の庭の前に差し掛かっていて、そのまま通り過ぎて、斜面を下りて行きかけていた。

「あ、いや、ちょっと…考え事をしてて」
「ほぅ、いい了見だな。待ち侘びていた俺の前を素通りとは」

 怒ったような声を出している癖、化野の目は真っ直ぐにギンコへ向いている。射抜くほど強い視線でもって、会わぬ間の彼を見透かそうとするが如く、ただひたすらに見つめてくるのだ。いつもなら気付かぬ振りをするものを、うっかりそのまま受け止めてしまい、なんだか頬が熱くなった。

 この男なら、どんな蟲の悪戯だろうと、ものともせずに俺だけを想っていてくれそうで、試したい気すら、ちらりとしてきた。

 何考えてんだ、そんな危ない!
 どうかしてんのか、俺はっ。

 ギンコがぶつぶつと呟いているうちに、化野は奥から往診の時に使う、医家の道具入れを持ち出してきた。どうやら今から出るところだったらしい。

「…ん、と、お前もくるか?」
「いや…なに言ってんだ。蟲患いでもあるなら分かるが、なんで俺まで連れてくってんだよ」
「そうだけどな」

 まったくお前はつれない、などと、今度は化野がぼやいている。

「いいから早く行って、早く戻ってこいよ。待ってる」

 珍しく素直な言い方をしてやれば、化野は途端に機嫌を良くして、小走りになりつつ出掛けて行き、だんだんと勢いを上げて坂を駆け下りていった。道具入れの中身が、がさがさと言っていて、それを咎める間もありやしない。

 することもなくて、ギンコはごろりと縁側に寝そべった。目を閉じて、女についているであろう、件の蟲のことを思い出そうと試みる。

 美しく妙齢の女に憑く蟲。男が女に惑う心を、喰らい尽してしまう蟲。もしも自分が女だったとして、そんな蟲に憑かれたらさぞや不幸だろう。いや、それとも幸せだと思うだろうか。どんな男をも引き寄せるなら、己が好いた男の心すら、あっさりと自分のものに…。

 往診を一つ、二つと終えた化野が戻るのは、半刻先だろうか、一刻先だろうか。戻ったらちょっと話してみよう。話くらいなら何の害もない。

 俺はそれでもきっと、ギンコだけを想ってるよ、などと、そんなふうに、化野は思うだろうか。根拠もないのに堂々と告げて、俺を喜ばせてくれたりは…。

 そんなことを思いながら、ギンコはいつの間にか寝入っていたのだった。















 これは珍しい、べたべた相愛っぽい化ギのようですよ! なんでこうなったのか謎ですが、このまま甘く続くわけがないだろう!って感じの惑い星のノベル世界でございましてなっ。

 あ! 冒頭から出ているオリキャラ、この女性の名前を考えなくてはいけないのでした。次までに考えますですよー。そういえばこの話、昼間思いついたばかりのネタだから、エッチなシーンがあるかどうかも分からないっ。

 ひとまず微エロだと思っておこう。そんないつも通りの惑い星でした。明日はあの現代ものを書きますねー。



12/03/09