聲 戀 し    こえ こいし   3







 ギンコは震えて蹲る。もう一度夢の中に戻って、この悪夢を消し去ることが出来るなら、死ぬかもしれないと思った苦しさの中に、今すぐ放り込まれてもよかった。
 けれど男は容赦がなかった。乱暴にギンコの下肢を広げさせると、濡れた布で足の間を雑に拭い、そのあとは、むき出しの彼の肌にばさりと布を放り出して離れていく。

「蹲ってたって目ぇ閉じてたって、現実がどっかにいってくれるわけじゃねぇんだぜ? 案外弱いな、お前」
「……」
「『もう少しなんか言ってくれ』ってか? 余程この声が知り人に似てるんだろうがな」

 ふふん、と男は鼻で笑って、打ちひしがれているギンコをからかった。

「…随分心配したんだぞ、ギンコ。もっとこっちに来て、お前の顔を見せてくれ」

 まるで化野その人を知っているかのように、選ぶ言葉までがひどく「らしく」て。

「や、やめてくれ…」

 逃げるように寝返り打って、それでもギンコは身を起こした。震える手で、体を覆った布をほどけば、シャツはくしゃくしゃに捲り上げられていたし、下衣は膝まで下ろされて、化野と信じていたこの男の手が、今まで自分に何をしていたか思い知らされる。

「……っ…」

 体を見られることも今更だと、ギンコは心を押し殺して服を整え、まだふらふらとしながら、洞窟の壁に縋りついて立ち上がった。

「おいおい、もう行くってのか? そんなんじゃぁ、またぶっ倒れちまうぜ? 悪いがお前の荷は見させてもらった。食いもんも金も、からっきしだろ?」
「あんたに関係ない。か…看病してくれたことは、礼を言う。もう俺に構わないでくれ」

 ギンコは洞窟の入り口まで出て、そうして背中で男の言葉を聞いた。

「ま、構うなってんなら、そうするさ。三日三晩の看病の礼は、結構な熨斗つけて頂いたしな。応じないまでも、触るたんびにやたら嬉しそうに、体緩めて任せられて。根無し草の俺らじゃ、あぁいうのは、欲しがったって手に入らねぇ。…楽しかったぜ? こっちが礼言いてぇぐらいにな」

 そして男は言ったのだ。丁度ギンコがたった今、目に留めていると分かっていた。

「お前のは手前のヤツだ。間違うなよ…?」

 二つ並べて置かれた木箱の、奥の方は引出が幾つも取り出されて、そこに散乱した薬包紙やら、粥を作った残りらしい、山菜や干し肉や僅かばかりの米。男のものであろう、口の開いた銭入れから、たった二枚ぽっちの砂利銭が零れ出ていた。

 男が自分の金を払って、薬や食料を用意し、ギンコに与えたのがそれだけではっきりと分かる。

「…なんで」
「あ? 何が? あぁ…。ばぁか、お前なら見捨てんのか? お人よしが自分だけだと思うなよ?」

 出て行きかけたその場所で、ギンコは足を止めたままだった。体を好きにされた感触は、まだあちこちに残っていたが、そこにこびりついた嫌悪が、ほんの少しだが溶けて流れていく。

「…あんたの、名前、は?」
「うづき。雨の月と書く。風流ないい名だろう? お前のも悪かねぇけどな。姿に似合ってる」
「蟲師なのか…?」
「見ての通りだよ。お前みてぇなひよっこじゃねぇが」

 振り向いて、もう一度ちゃんと見た雨月の姿は、少々むさいが笑った顔が大らかそうな、ギンコより十以上も年上の男だった。

 少々の逆境やなんかじゃあ、びくともしないような風貌に思えて、ギンコはそれを少し羨ましいと思う。ひとりで生きていくための何かが、まだ自分には足りないから、こんなことになったのだと…。

「…助かった。こんなとこで死にたくないって、思ったんだ」

 精一杯素直にそう言って、ギンコは微かに頭を下げた。そうして日の差している森の中に入っていく背中を、洞窟の外まで出て見送って、雨月はがりがりと頭を掻いた。

「なんだろな、こりゃ。昔の自分を助けちまったような気がしやがる。俺はあんな素直じゃなかったし、そいつになら身も心も全部預けていいと思うような、そんないい相手はいなかったけどなぁ」

 蟲が見えるせいで疎まれて親に捨てられて、悪党に拾われて利用されて、関わった人たちにもっと嫌われ、今日までいろんなことがあって、何度も死に掛けた。それでも情を忘れないでこられたのは、ほんのいくつかの…優しい出会い。

 嫌いだった蟲を、愛しく思うことも今はある。仕事でしくじって死なせた蟲のことは、ずっと忘れられないで心の傷にして、それを抱えたまんまで、こうしてふらふらと野に生きている。悪くない人生だ、と、そう思いながら。

「おぉい…っ!」

 雨月はいきなり大声を出した。空気をぶるぶると震わせるような太い声が、森の木々の間を突っ切って、きっとギンコの耳にも届くだろう。白い頭が見えなくなって、まだほんの少しだ。

「ギンコっ! 会いたい気持ちに嘘ついても、いいことなんかねぇぞ…っ。ちゃんと真っ直ぐ会いに行けよ、『あだしの』が待ってんだろうッ」



 そうしてそれから数時間たった頃、ギンコは水辺に屈んで水を飲んでいた。少し前に改めた木箱の中には、握り飯が一つだけ入ってた。それと一緒に滋養の薬も。握り飯を食べて水を飲んで、薬も有り難く口にして。

 ギンコはぱたり、と仰向けになって目を閉じた。耳に思い出した声に、彼は段々と顔を赤くする。

「…っ、あんなことを大声で…」

 しかもギンコだあだしのだと、名前までばっちりと叫んでくれて、聞いたときは顔から火が出るかと思った。

「今度会ったら…」

 また、会うだろうか。

 会ってもいいと思っている自分を不思議に思いながら、気は許せねぇよなぁ、と、思い出したくない部分に身震いする。ギンコは身を起こして、また歩き出した。病み上がりで無茶が出来ないことをもどかしく思いながら、化野の里へ向けて、できる限りの速足で。


 
 
 ここは始終、波音の響く海里。坂を登った高台に、一人の医家が住んでいる。

「あ! 青左っ、今から浜へ下りるんだったら、なんか獲れた魚を二匹、後で持ってきてくれるように言ってくれんか。そんなに大きなのじゃなくていいから!」

 丁度そこを通った男に、化野は声を大きくしてそう言った。

「…二匹、ってことはギンコさんがくるのかい、化野せんせ」

 青左はにこにことそう言って、背中の薪を揺すり上げる。ばれているのか、と照れたような顔をして、化野は落っこちそうになっている薪の一つを、木の束の中に押し込んでやった。

「いやぁ、そういうわけでもないんだが。雨が晴れて虹が出た夢をみたんで、なんとなくいいことがありそうだなぁ、と」
「先生の言う『いいこと』は、ギンコさんが来ることってのは、誰だって知ってるさぁ。じゃあ、いいのを持ってくように伝えとくよ。ほんとに来ればいいね」

 そうして坂を下りていく青左と擦れ違いながら、里では見ない顔の一人の男が近付いてきた。背中にある木箱が目を引く。嗅ぎ慣れた蟲煙草の匂いも少し。

「へぇ、こんな若い男とは思わなんだ。あんたが『あだしの』」
「……いかにも、俺が化野だが…何か」

 意地の悪そうに笑った顔で、じろじろと全身を眺め回され、温和な化野でも、さすがに声に険が出る。

「いや、感じ悪かったならすまないね。ここへ来る前、あんたのことをよぅく知ってる同業と会って、譲り受けた品がある。見て欲しくて寄ったんだ」
「それはもしや…ギンコか…?」
「そう、そのギンコだよ」

 男はそう言って笑った。どこかで聞いた声だな、と化野は心の隅で思っているが、どこで聞いたかまでは思い出せなかった。

「あがっていいかい、化野先生」

 










 展開早くてすんませっっっ。なんとか化野先生が出ました。これからギンコも来ますぜー。ふっふっふ、次回が何気に楽しみです。では、また是非読んでくださいませー。


11/11/23