陰 桔 梗   4





 ギンコは道を歩いていた。歩き慣れた道だ。化野のいる里に入る道。化野に会ったあと、またその里から離れる道。この道も、きっともう通ることはない。

 項垂れて行く道は、やがて二つに分かれている。分かれ道の方から歩いてきて、ギンコの歩く少し広い道に、入ってくる旅人の姿があった。一見して商人。だが、その男は背に荷物を背負ってはいず、酷く不自由そうに左腕だけで荷物を下げて歩いている。

 肩まで捲り上げた右腕の、付け根辺りをぐるぐると大仰に包帯で巻いて、辛そうに体を傾けているのだ。無意識に視線をやっていたギンコに、男はいきなり突っかかってきた。

「おいっ、そこのてめぇっ。何が面白ぇんだッ、人のことじろじろ見やがって、俺ぁ機嫌が悪ぃんだよ…っ!」
「………あぁ…」

 ギンコは唇を小さく歪めて笑った。

「そうかい? でも不機嫌なのはこっちもご同様でね。自分ばかりが不幸だと思わん方がいいぜ…?」
「あ、いや…」

 明らかに男は怯んだ。ギンコは声を荒立てたわけでもなく、ただ薄く笑って、静かに言い返しただけだが、滲み出す不穏な空気を感じ取ったようだった。ごにょごにょと口の中で、侘びらしい言葉を呟いた後、怪我が痛むのを無理しながら、その商人はギンコより先を歩いていく。

 やがて、道は峠へと差し掛かった。茶屋がひとつあるが、今の季節は開いていない。置きっ放しの長椅子に座っている人影が見え、遠目にもそれだ誰だか判って、ギンコは顔を歪める。あいつだ。今朝、宿でギンコに、化野のことを教えた男。

 もう、話しかけられたくない。引き返そうか、とギンコが思った、その時だった。

「あっ、てめぇ…!」

 ギンコより先を歩いていた例の商人が、椅子に座って一服しているその男に、突っかかりにいったのだ。下らねぇ、とギンコは思った。聞きたくもねぇ、と。だが…。

「この野郎、この間はよくも出まかせ言いやがってッ、お前のほら話のせいで…っ、見ろ! 俺ぁ、この大怪我だ…ッ!」
「お、おいおいっ、ほ、ほら話って…! 何のこと言ってんだ?! まさか例の医家の…っ?」
「他に何があるってんだっ。こぉんの、嘘つきめがッ! あの医家、脚ぃ開くどころか、花鋏振り回して本気で抵抗しやがったっ。利き腕切られて、かかった治療代やら宿代やら、てめぇに払わせねぇと、おさまりがつかねぇっ」  
「ちょ…っ、ちょっ…と、待っ…! そんな筈ぁ…っ。三年前までは確かにあの医家ぁ、誰にでも…ッ、俺ぁ確かにその秋口にも、あいつとヤったんだし…っ」

 三年前、と、男は言った。そして秋口だとも。ギンコが化野とあったのは、丁度その頃の筈だ。怪我した男はまだ叫んでいる。

「てめぇが最後にいつヤったとか、んなこた知らねぇやッ。俺のこの大怪我見て、まだ信じねぇんだったら、ヤりに行っててめぇも刺されっちまえっ!」

 ギンコの脳裏に、化野との最初の夜が浮かんだ。淡く嫌がられた覚えは、微かにあった。だがそれも、ただの困惑でしかないように見えた。そんな、鋏を振り回して、だとか、そんな抵抗を、化野がギンコに対してしたことはない。それに、珍品を渡したその代金を、寝たことで値引かれた覚えも…。


 じゃあ?
 あいつが…
 誰とでも寝ていたのは、
 昔の話だっていうのか?

 出会ったころから、
 俺にはいつも、
 駆け引きも何もなく、
 本気、だったと、
 そういう… 

 
 いつの間にか、ギンコの視野から、あの騒々しい商人たちの姿は消えていた。見えるのは開いていない茶屋と、その前に出された長椅子。そうしてその向こうに広がる、山並みの風景。日はもう、真昼を過ぎて、傾き始めていた。





 夕刻。もう随分と薄暗い。化野はそろそろ消えかけた洋燈の灯りの下、蔵の床に膝を付いていた。指先の小さな傷から血が滲んで、それを時々口元に当てる。割られた器で切った怪我だ。
 手を伸べて、彼はそこに散らばっているものをひとつひとつ丁寧に拾っている。

 この透き通ったのは青いびいどろ。
 薄茶色の、柔らかな色した瀬戸は、徳利と猪口。
 こちらの紙切れは扇子だし、
 向こうの木枠は煙草盆。
 これは? あぁ、これは…
 袱紗だな、翡翠のような色の染め抜きが、
 本当に好きだった…。
 そしてこれは、貰ったばかりの根付の欠片。

 指先で破片を摘まんで、じっと見つめていると、指の怪我から血が滲んで、その桔梗色の欠片についた。化野は傍らの手布で、慌ててそれを拭き取り、綺麗にして…。


「なに、してるんだ…?」


 開け放ったままの蔵の扉の方から、声がした。差し込んでいた夕の光が陰って、化野はそちらを振り向いた。そこに立つ男の表情は、逆光で化野には見えない。

「あぁ…思い出をな、集めているんだよ」
「……壊れたがらくたばかりだろ」
「それでも、俺には宝でな。もう…この先、これっぽっちも増えやせんから、欠片でもなんでも、大事にとっておくんだよ」

 そうして化野は震える声で聞いた。

「忘れ物か…? もうここに来る気もないんなら、そりゃあ、置いたままには出来んだろうしな…」

 ギンコは入り口から中へと入ってきて、化野の座っている周りに、いくつも置かれた小箱を中を見た。それぞれの箱には、丁寧に分けて入れられた品の、壊れたり裂かれたりした残骸。そしてその中のいくつかには、そっと添うものが見えた。

 蟲達、だった。ギンコが壊した品々に、憑いていた蟲、住んでいた蟲、潜んでいた蟲達。蟲など最初から住んでいないものもあったが、物を壊されたせいで、いなくなってしまったものもある。きっと死んだものもあるだろう。

 改めてそれを目の当たりにして、ギンコはしでかした罪の深さを思い知った。それと同時に、知らぬ間に自分がこの男のことを、どんなに想っていたのかということも。

「なんで…」
「…ギンコ?」
「なんで、今は違うって、言わなかったんだ…? 身売りしてたのは昔の話だと。今はもうしてない、と…」
「黙っていたことに、違いは無いからだ。俺はお前を騙してた」

 ギンコは床に膝をついて、箱のひとつに手を伸ばした。びいどろの入った箱だ。小さな赤い蟲が、弱弱しく震えて揺らいでいたが、それが見ている前で、すぅ…と消えていく。

「そんな真っ正直にして貰わなきゃなんねぇほど、きれいな生き方してねぇよ、俺は…」

 自身の憤りで、何もかも見えなくなって、ここにこうして生きていた沢山の小さな命を、彼は全部踏み躙った。それほどに愚かで、身勝手だ。翡翠の片目が、何かで濡れるのを、化野は薄暗い中で見たように思った。

 綺麗、だった…。

 泣きたいような気持ちで化野は彼を見ている。人は皆愚かで、どうとでも間違う。そしてその愚かさを、悔いる心を持っているものと、持っていないものがいる。持っているものは、それだけ苦しい生き方をすることになるのだろう。

 間違えて、間違えて、それに気付いてはずたずたになる。傷を癒す間もなくまた悼み、泣いて…。すれたように見えるのに、本当はいつも苦しんでいる、そんなギンコのことが化野は好きだった。

「言うが…」

 ぽつん、とギンコが呟く。

「どうやら、俺はお前のことが、尋常でなく…好きらしい…」
「………」
「…こんなことは、初めてだ」

 とうとう油が切れて、洋燈が、ふ、と消えた。薄暗がりの中で、ギンコは化野の腕を引いた。

「ギン…っ」

 重なったギンコの胸の鼓動が酷く早くて、それを感じながら、化野も泣いたのだ。自分だって、人をこんなに好いたのは初めてだ。そう告げたかったが、あまりに強く抱き締められていて、声が出なかった。だから、心の中だけで言った。


 もうずっと、お前だけだ、ギンコ…












 間違え過ぎです、ギンコさん。色々やらかして、あとでいっぺんに気付いてしまって、そりゃもう、後悔のど真ん中ですね。不器用な人たちの恋愛ばかり書いていまして、書いててももどかしいばかりですが、なんでか書いてしまいます。あ、こんな按配でどうですか?(誰に聞いてる)

 次で多分、ラストかと思いまーす。スイマセン、あの、陰桔梗というタイトルには、特にこれといった、意味はないみたいです。ギゃー、こんなこともあるんだなと、笑って勘弁してくださいーーー。

 でっ、ではまた、別のページでっ。



11/09/11