陰 桔 梗   3







 化野は縁側に立って、軒から滴る雨を見ている。昨日も一日、降り止まぬ雨だった。空は濃い灰色に暗くて、そんな空に根付をかざしても、透き通っているはずのそれを目に近づけても、よくは見えないままだ。

「また見てんのか?」
 
 そう言って小さく笑って、ギンコは縁側に腰を下ろした。そこに置いてある靴を履いて立ち上がり、木箱を背負って化野を振り向く。滞在はほんの三日前の夜からだ。そして、彼が化野を抱いたのは一度だけ…。

「ま、日が出ればもっとよく見えるさ。感想は次に来た時にでも教えてくれ」
「もう行くのか、まだ…」
「三日だ。いつもこのくらいだろ?」

 短く感じるのはきっと、夕べの急患のせいだ。夜半近くに呼び出され、高熱の下がらない子供を診た。容態が落ち着くまで一刻、その後若い母親が落ち着くまで半刻。過ぎていく時間を思いながら、化野は正直、安堵していたのだ。

 見られてしまう前に、
 気付かれてしまう前に、
 旅に戻っていってくれたら…

 そうして化野が戻ったとき、ギンコはぐっすりと眠っていて、夜が明ければもう次の旅へと。

「あまり、変なものを買うなよ…?」

 ギンコはそう言った。変に優しい声だった。離れるのを淋しがる自分を、気遣ってくれているのかもしれなくて、逆に化野の胸は痛んだ。

「…ギ……」

 呼び止めかけた声が止まる。ギンコは振り向かずに歩き出した。遠ざかる背中を見つめながら、安堵の息を長く吐き、化野はそこに座り込んだ。

「すまん…。お前だけだよ…」

 そう告げた震える声は、誰ひとり聞いていない。根付の表面を指先で大事そうに撫でながら、化野は柱に肩を寄り添わせて、変わらぬ曇天を見上げているのだった。




 山を一つ越えた隣里の宿。ここらの山には雨を避けられる木の洞も洞窟もなくて、懐具合を見てたまには宿を、とギンコは決めたのだ。正直、今は一人でいたくなかった。傍に誰もいない夜は長い。考えたくないことを延々と考えて、疑いたくない相手を、きっと疑ってしまうだろう。

 だから、安宿ののれんをギンコはくぐった。いらっしゃい、という声がかかる。気の良さそうな女将だ。外で薪を運んでいた男も愛想がよくて、ギンコに会釈をしてくれた。その夜は、ギンコが望んでいた通りに、世間話を聞かせてもらって、返礼に珍しい旅の話をして過ごした。

 そうするうちに、自分の疑いがあまりに下らないとすら思え、いい塩梅に酒も入って、ギンコは宿の薄い布団に横になったのだ。

 翌朝、楽しく過ごせた礼を言いながら、ギンコは宿の入り口横にある長椅子の端に座っていた。それを見て、同じくそこに泊まっていたらしい男が寄ってきた。商人らしく、大きな包みを傍らに置いて、男はギンコに話しかけてきたのだ。

「兄さん、西から来たかい? それとも東から?」
「あぁ、西だよ」
「へぇそうか、そんなら俺みたいに荷物を背負った、若い商人に会わなかったかい?」

 いや、と首を横に振ると、それを聞いてがっかりしたふうでもなく、男はもう少しギンコに近付いた。既に肩が触れている。

「まぁいいや。そいつは俺の知り合いなんだがね? その男に教えてやったことを、あんたにも教えてやるよ。うまい儲け話さ、興味あるだろ?」
「……どんな話かによるけどな」
「あんたがもし女しか抱けねぇクチなら…」

 ギンコの目が揺れた。男はそれにすぐに気付いて、へへ、と耳障りに笑う。さらに声をひそめて、男は言った。

「西から来たんだったら、山向こうの海里を通ったろ? その里には若い医家がいる。まぁ、ちょっと小綺麗なだけの普通の男だがな、そいつがさ…股を開いて、しどけなくオトコを誘うと聞いたら、あんた、どうだい?」
「……」

 心臓が、どくん、と胸の奥で跳ねた。誰のことを言っているか、すぐに分かった。あの里に医家は化野一人だ。男はギンコをちらりと見て、彼の無言をどう思ったのか、自慢するように続ける。

「そりゃもう真っ白でねぇ、女のようでさ、堪らねぇって俺は思ったよ。何の話かって? その男が広げた内股の話さ。吸った跡がくっきり残るのが、また堪らねぇ。ぱっと見にゃ何の隠し事もねぇような、真っ当な顔した里の医家がさ、よそ者の商人にゃあ、アレから涎垂らして腰を振ってさぁ。またそいつのその時の、とろけた顔とよがり声ときたらね」

 知っている、とギンコの心の奥で誰かが答えていた。その男のことならよく知っている、と。それとも、本当は何も知らなかったのか? 俺に見せてた初心な姿は、全部、全部、まやかしの…。

 ニ度もヤったよ、と男は言っていた。
 ニ度ってのは、こないだ行ったときに一晩でヤった数さ。
 今までに何回抱いたかって?
 ひぃふぅみぃ…今度ヤりゃあ、四度目だがね?
 思い出したら暫くぶりに、あの男が抱きたくてねぇ。
 今、なんか丁度いい売りもんを探してるとこさ。

「そいつ…。珍しいもん持ってた商人と、そのたびヤってるってことかい?」

 震えもしない声が出せたのが不思議だった。男は言う。

「あぁ、そうだよ。ちょいと珍しいもんを、巧いこと言って欲しがらせてな、高い金をふっかけりゃ、二つ返事で帯を解くぜ? そこは巧いこと言やぁ、損しないだけ金も出させた上、そいつの尻穴までたっぷり味わえて…」

「…じゃあ、俺も、一発ヤらして貰うかな…」

 そう言葉が出ていたかどうか、ギンコは自分でよく判らなかった。ずっと、ばくばく騒いでいる鼓動がうるさくて、必死で息をついでも空気がちっとも喉に入ってこなくて、陸で喘ぐ魚になった気がしていた。

 明けたばかりの朝の筈なのに、ギンコの心には日差しの一欠けらさえ届いていない。木箱を背負い、宿の人々に会釈し返すことすら忘れて、彼は夕べも歩いた道を戻っていた。


 戻ってどうする。
 嘘吐きめ、とでも責める気か。
 それとも、お前とはこれきりだと告げるのか。
 俺だけじゃなかったのか、と、
 今更確かめてなんになるだろう。

 あぁ、あの脚の内側の、吸われた跡。

 つまり、俺が行くほんの数日前に、
 化野は誰かに脚を開いて、誘って…。
 

 気付けば口に血の味。噛んでいた唇が切れて血が滲み、吐き気を堪えながら、ギンコはその血を何度も飲む。いつもの坂を登り、庭が見える場所まで来て、ギンコはそこにいる化野の姿を見つめた。

 化野は、縁側にいる老人と里の子供を、菓子と茶でもてなしている。これは珍しい茶なのだ、そっちのは渡来の菓子だそうだ、などと、そんな朗らかで誠実な顔を、今は見たくない。

「あだしの」

 名を呼べば、ふ、と顔を上げたその目がギンコを見て、一瞬だけゆらりと揺れた。

「ギ…」

 呼び返す言葉を止めて、化野は傍らの里人に微笑みかける。

「すまんなぁ、今から、ちょっと…ギンコと話があってな」

 里のものも皆ギンコを知っていて、子供も老人も化野に茶と茶菓子の礼を言いながら庭を出て、坂道を下りて遠ざかっていった。菓子ののっていた皿と、湯飲みとを脇へ避けて、さら、と化野はそこに膝をついて正座した。

 乱さずきちんと身に着けた着物も、その立ち居振る舞いすらも、嫌味なくらい涼やかだったのに、俯けた顔は隠せぬ悲痛に歪み、青ざめている。

「茶なんか、いらないよなぁ…」
「…あぁ、今は…そういう気分じゃ、ねぇな」
「ギンコ…。今まで」

 隠していて、すまない。

 そう告げた言葉に、どんな言い訳の続きも無くて、聞いたギンコは残酷な沈黙を返す。誰から話を聞いたかとか、どんなことを知ったのかとか、化野は一言も聞かない。

 彼は立ち上がり、縁側で草履を履くと、ギンコを目でいざなって裏の蔵へと歩いた。重たい戸を開けて中で洋燈を灯し、入った奥の棚の前で、化野はギンコを振り向く。

「ここと、こっちの棚は、全部お前がくれたものだよ。返せと言うんなら、今すぐ、どれでも…。こんな男にやってたと思えば、さぞや腹立たしいことだろう? あぁ、これもだ。蟲を描いたという絵の…」

 棚の横に置かれた美しい壷を一つ、化野は手にとった。ギンコは化野の傍へと歩いて、その壷を受け取り、顔の前でそれを眺めた。
 
「…なら、代金を貰い足りてない分、今から脚を開いてそれで支払えと言ったら? お前が、他の商人にそうしてきたみたいに、俺にも…」
「………ふ…、ぅ…っ…」

 視線を逸らして、化野は項垂れた。嗚咽が聞こえ、涙の雫が零れるのが、薄暗い中でも分かった。そんな化野の姿さえ、なんの演技かと疑って、ギンコはそれを嘲笑う。

「別に、惜しいもんなんざ、ねぇよ…。こんな壷だって」

 激しい音を立てて、壷が床で割れた。飛び散った破片を踏み、ギンコは棚にあるものをまた一つ手に取る。

 薄青いびいどろの器。光線の加減で泳ぐ金魚が微かに見える。
 対の猪口と徳利。これに燗酒を入れれば、酒が中々冷めぬ。
 美しい扇子。描かれた季節がゆっくりと移って行く。

 どれもこれも、手にした時の化野の喜ぶ顔が浮かんで…。

 ギンコはそれを割った。破いた。その他にも手当たり次第を、手にしてはひとつひとつ壊した。幾つも…幾つも…。そして、悲しげに見つめる化野の前で、次に手を伸ばしたのは、彼が最初に化野に売った、思い出深い…。

「い、いやだ…。やめてくれ…ッ!」
「………何がだよ…」
「それは…っ、それだけは…どうか…。…だ、抱かせろと、言うんだったら…、どんなふうでも…」
「……」
「お、お前の、いいように…。したいように…」

 ふ、とギンコは笑った。縋りついた化野の帯に、挟み込まれた根付が見えていた。紐の先にはまだ何も下げられて折らず、それを奪うのは簡単だった。

「じゃあ、これならいいのか…?」
「…あ…っ」

 ぱん…っ。

 きらきらと、紫色の細かい破片が散った。壊された瞬間すら美しいそれの、本当の姿を、まだ化野は見てもいなかった。日の光に透かして、どんなに美しく見えるか、珍しいものだったのかを、今度訪れたギンコに告げる、その筈だったのに。

「もう、来ねぇ」
「………」
「オトコに媚びて、また色々集めりゃあいいだろ」
「…あ…ぁ…」

 足元に残った赤い紐は、壊れた根付の形見のようだった…。










 

  
 
 
 

 ギンコは心が狭いです。いやいや、愛の強さ故ですよねっ。けなしてからフォローを入れる私。わっはっは。いや、恋は盲目だから。自分を失うこともあるんですよ。そして大事なものを見失っているうちに、大事な人とそれっきりになったり…ね。

 あばばばばば…!

 きっときっと、大丈夫ですよー。待て次回ですよー。楽しく書かせて頂いてますよー。っていうか、化野! 明らかに「今も淫乱医家」なんだと誤解されてますよっ。言い訳しろっ。今、言い訳しろっ、すぐしろっ。
 
 読んで下さり、ありがとうございます!





11/08/27