陰 桔 梗   2







 抱かれながら、最初のうち化野の動悸は酷く激しかった。感じているからだけじゃない。自分の体に「跡」が残っていることを、はっきりと自覚していたから、それに気付かれるのが怖くて、怖くて堪らなかった。

 化野にはずっと隠してることがあって、それを知られたくなくて、したこともない振りをし、初めての振りをし、そうと思って満足しているギンコに、酷い罪悪感を感じていたのだ。

 初めてギンコという存在を知り、好きになって、やっと恋仲になった頃、部屋に溢れかえっていた山ほどの珍品を、そのあと化野が、随分沢山処分したことなど、ギンコは知らないだろう。ひとつひとつのその品には、ある種の記憶が色濃く刷り込まれていて、それらのある部屋で、ギンコに抱かれるのが嫌だったから。

 化野はそっと首を横へ向け、傍らで眠る恋人の寝顔を眺めた。いつもなら自分の方が余程深く眠っているから、ギンコが眠っているところを見るのも珍しい。

「…ギンコ……」

 囁いて手を伸ばし、その髪に触れる。稀有な美しい白い髪も、その白磁のような肌にも、心を囚われてどうしようもなく、今となっては集め続ける珍品だって、増えるのはギンコが持ってきたものばかりになりつつある。

 この手から渡されるものだからこその価値。自分が喜んで見入る様を、ギンコが見ているその眼差しを、いつもいつも感じて、だからその瞬間が堪らなく好きだ。

 髪や頬に触れられるのがわかったのか、ギンコはうっすらと目を開けた。化野が何より好きな、翡翠の色の瞳。片方きりのそれで自分が見られることに、どうしようもなく胸が高まる。焦がれる病のその重篤さを、今更のように思い知る。

「…あぁ、すまない。起こしたか? まだまだ朝にはならんぞ、ギンコ」

 静かにそう言うと、ギンコは小さく笑ったようだった。その目に笑みが浮かび、浮かんだその表情がすぐに薄れて、彼はもう一度眠りに落ちていく。布団の中でその体が少しだけ動いて、腕が化野の腰に回された。

 性的、というよりは、まるで子供が親に縋るような、そんな仕草が不思議だ。およそそんなこととは無縁に見える彼には、幼い頃の記憶が無いと聞いたことがある。旅慣れて、酷くすれて見えるくせ、時折、この男は怖いほど純粋なのではないかと、化野は思うのだ。

 だからこそ、言えない。本当のこととは違う姿を見せて信じさせ、ギンコを騙した。信じてもらえたそのままの自分で、ずっと居たいと、化野はそう願っている。出来うる限り、永遠に。

 腰に回された腕が緩んだのに気付いて、化野はそっと身を起こした。風呂場で着物を肌蹴て、脚を広げて内股を見る。そこにある跡はまだくっきりと残っていた。昨日ギンコに付けられたのとは違う跡。今すぐに消す術などなくて、化野は唇を噛むしかなかった。

 それ以外に胸元にも引っかいたような赤い跡もあるが、もしも咎められたら、こっちは、枝でも引っ掛けたというつもりでいる。薬草採りの時に、そこの裏山で…と。

 着物を直し、部屋へと戻る前に、化野は風呂場の戸に額をつけて項垂れる。いくら日々が経ったとしても、過去を消し去るなど、本来は出来ぬことなのだと、それを思い知らされたことを、苦く思い出していた。




 それは、ほんの数日前のこと。買って貰いたい珍品があると言って、若い行商人が訪ねてきたのだ。見せられた品は、渡来の器で珍しい形をしていたから、値を聞くくらいしようかという気にさせた。

 幾らだ、と何の気なしに聞いて、告げられた値は化野の想像した値段の倍を超えていて、品を手にしようとしていた動きが止まる。随分高い、と、そう言えば、男は化野の目を見て、笑いながらゆっくりとこう言った…。

「なんなら半値でもいいがね。先生には…その分を別で支払う方法とやらがあるんだろ?」
「……人違い…じゃないのか? 何のことか、判らない」

 過剰に視線を逸らした、その首筋に視線が絡むのが分かる。立ち上がりかけた足首。畳についた片手の、白い手首の内側。動作につられて、僅かに開く襟元にも。

「安心しなよ、人に言い触らしたりしねぇって。…っつっても、あんたのことを俺は旅仲間に聞いたがな。そいつぁ、口が軽くてね。もしも明日っからここらで噂が広がっても、俺のせいじゃねぇよ、そいつだよ、きっと」

 拒んだら噂をばら撒く、そう言われている気がした。これは半ば脅しだ、と、化野は震える。だったらどうする。脚を開けばいいのか? 昔のように。高価な珍品を買うとき、金の足りない分を、特にこだわり無く、己が体で払っていた時のように。

「あぁ、そっちの部屋ですんのかい? ここじゃあ外からすぐだもんな。なんなら、そこの裏山でもいいぜ? 外ってのも中々興奮すらぁ。値によって、二度か三度はヤらしてくれるんだって?」

 男はそう言って立ち上がり、平気で近付くと、化野の腕を掴んできた。強い力が込められて、逆の手がもう化野の襟に掛かる。

「ひ、人違いだと…、言って…っ」
「あんた、珍品好きの化野先生だろう? なんだよ、今日はその気にならねぇってのか? こっちはその気で来てんだ。今更嫌だはねぇぜ? なぁ? ヤらせなよ、いつものことだろうが」

 怖かった。そのせいで逃げようとする脚がもつれた。

 男に犯られるのが怖いわけじゃない。もうギンコとだけ、そう心から誓ったことを破るのが怖かったのだ。嘘に嘘を重ねたくはなかった。遠い過去を隠すだけで心が軋むのに、これ以上、胸が裂けるような思いは嫌だ。拒み切る気で振り払うと、男の顔に袖が当たって…。

「ってぇ…。大人しくしねぇか、この…」

 商人の形相が変わる。本来気の荒い男なのだと分かった。その手が伸ばされて、もう一度、化野の着物の襟を掴んで、そのまま強引に剥こうとする。肌を引っかかれ、胸に小さな痛みを感じた。

「や…っ、止せ…ッ! あ…」

 隣家はそれほど離れていないが、ここで大声を出して知られるわけには行かない。寧ろこのまま裸にされ、こんな場所で犯されてしまうのなら、早く諦めて奥の部屋へ誘えばいいのか。そうすれば今を丸くおさめられるのは分かっている。

 好きで脚を開くわけじゃない。好んで尻を差し出すわけじゃない。脅されて無理に抱かれてしまうだけのことと、もう割り切ってしまうのは、きっと簡単な…。

 畳に押し倒され、一瞬抵抗の緩んだ化野に気付いて、男は喜んで覆いかぶさってきた。胸を曝され、帯を緩められ、白い脚を左右に開かれる。広げさせた下肢から下帯を取り払おうとしながら、男は化野の胸にむしゃぶりつき、震え上がる滑らかな素肌に歓喜した。

「へ、へへ…っ。なんだい、もう感じてんのか? さてはさっきのも焦らしただけなんだろう? あんた、随分と淫乱なんだもんなぁ、いろいろ聞いてるぜ?」

 非道いことを言われながら、化野は折り曲げた指を畳の目に刺す。ずっと前はこんなこと、平気でしていた自分なのに、今はどうしてこれほど嫌悪にまみれるのだろう。歯を食い縛って、目には涙を溢れさせ、惑うように彷徨った視線が、活けられた桔梗の花の青を見た。

 少し前に、庭から切って活けた花。毎年の最後にギンコがくるのは秋。いつも庭でこの花が咲いて、そうして肌を冷やす秋風に、藍の色を揺らす頃、いつもギンコはくるのだ、化野の喜ぶ品を一つ、必ず携えて…。

「ギ…ン…」

 脳裏に浮かぶギンコの癖。縁側にいる化野に、よう、と言いながら小さく首を傾げ、面白くも無さそうな顔で、それでも真っ直ぐに、化野を見てくれる。古そうな背中の木箱。くたびれた上着の前もしめず、白い髪を揺らし…。そうだ、桔梗の花を揺らすのと、同じ風に、その髪を…。 

「い…嫌…だ…ッ!」

 広げた太腿の内側に口をつけて、男が化野の肌を吸っていた。ギンコがするのと同じその事が、諦めに身を沈めかけた化野の目を覚まさせた。愛しいギンコを脳裏に浮かべても、今、自分を犯そうとしているのは別の男。好きでも何でもない、知らない男だ。

 その時、いきなり赤い色が目の前に散った。ぎゃあ、っと叫んで男は体を仰け反らせる。化野が手にしたのは、桔梗を切った花鋏。花瓶の傍にあったものを、化野は無意識に手にして横に薙いでいたのだった。

「な、っ何しやが…っ」
「俺に、触るな…。もう一度触れたら、ただじゃ…」
「ひ、ひでぇ、それでも医家かよ、てめぇっ!」

 自分のしようとしたことを棚に上げたその言葉に、一瞬化野の意思が鈍る。医家の自分が、人を傷付けて、こんなことをするなんて、と、弱い顔を見せてしまう。それでも、もう一度近付いて来ようとした男の前に、化野は必死で鋏を構えた。

「俺は、お前なんかのものじゃ…ないんだ…」

 この体は、ギンコの…。ギンコだけに許す体だ。例え何があろうと、医家として酷いことをしていようと。

「な、何だよ、ちっくしょうッ、話が違うじゃねぇかっ」

 傷付けられた腕から、ぽたぽたと血を滴らせながら、男は逃げ出した。それでも荷物を抱え、縁側の外にある自分の草履を引っつかんで、山道の方へ逃げていく。

 化野は乱された着物の前を合わせ、よろよろと立ち上がる。商人は売り物の皿を置いて行ったが、そんなものはもう見るのも嫌だった。畳の上に点々と落ちた血の跡は、すぐでも濡らした布で拭かねばならず、歩こうとしてやっと気付く。下帯が殆ど外されて、足首や膝に絡まっていたのだ。

 まだ無意識に手にしていた花鋏を、ガチャ、と床に放り出し、化野はその場に座り込む。あんな男に抱かれることに、一度は流されかけた自分への嫌悪感で、涙が零れた。

 こんなことが起こったこの日そのものを、記憶から削ぎ落としてしまいたい。置いていかれた皿、畳に落ちた血の跡、そして、一部始終を見ていた桔梗の花たちさえも。

 花瓶に刺した桔梗の花が、庭から吹く風を浴びて、ゆら、と揺れた。そこへと手を伸ばし、化野はいくつものその花の首を、伸べた片手でぐしゃりと握る。

 無体な仕打ちで、一息に潰された花が、ふ、と香りを放ったのだった。





 



 




   

 桔梗、出てきましたよ。いや、ただお話に青い色を添える役なので、どうということもございませんが。それにしても、二話目長いー。まぁ、一話目が短かったからいいか。長いことはいいことです。え? いや、書くのが楽しいので、いいことなんですっ。もう断言しましたよー。

 本日含めて四日間、連休となります。自分の住む街の外には、出ない予定となっております。時間、沢山あるけれど、何本サイトに書けるかなぁ…。ここぞとばかりに、頑張りますぞー。

 読んでくださる方、ありがとうございますっ。




11/08/13