仮居の衣   6





「庭に、人がいる」

 夜半。ギンコのそんな声が聞こえて、化野は目を覚ました。中庭へと向いた窓から、彼はじっと遠くを見て、さらに言った。

「りんうだ。恐らく花弁を集めに来たんだ」
「花弁? 散った花びらをか? いったい何で」
「当主を病にする為にな」

 息を飲んだだけで化野は何も言わず、黙ったままでギンコの隣にきて、遠くの桜の傍にいるりんうを見た。その横顔はどこか痛ましげだった。

「そんな馬鹿な、とか言わねぇのか?」
「…言わんよ、気持ちは分からないでもない」

 細霧が病でいれば、その間は縁談話も進めようがない。りんうは彼の傍にいられるのだ。逆に彼が床から起きられるようになってしまえば、すぐにその話は進められ、祝言の準備が始められるだろう。要るものは取り揃えられ、要らないものは遠ざけられ、いて困るものは、捨てられる。

 捨てられるのが自分なら、そして、それを止める手立てがあるなら、したいと思わない人間はいない。

「あの花は、どんなふうに人を病にするんだ?」
「…花についてる蟲が、時を止めるのさ。りんうは当主の時間を止めたかっただけだ。時を止められた当主には、その間何も起こらない。縁談もな。だが、無理に時を止められているなんて、生き物にとって本来有り得る状態じゃないから、無理が掛かって、そのせいで伏せっているんだ」

 このままの状態が続けば、当主はそのうち意識が戻らなくなるかもしれんぜ? どうする、化野先生。

 医家の化野に、ギンコは選択を強いる。彼がりんうに同情しているのがわかった上で、あえてそう言ったのだ。化野は唇を噛んで、僅かばかり逡巡したあとで呟く。小さな声だったし、その声にはまだ躊躇いが滲んでいた。

「とめなきゃならんな」
「じゃあ捕まえたら、すべてを当主に話す」
「…細霧に…」

 母屋から離れたここへ連れてきて問い質し、誰にも知られぬよう穏便にやめさせる気でいた化野は、思わずそう聞き返していた。ギンコはすべてを細霧に告げる気なのか? そんなことをしたら、いったいどうなるのだろう。本当のことを知った細霧は、どう思うだろうか。

 りんうを恐ろしいと思ったりはしないだろうか。二人を助けたいと思っていたのに、彼のしていることを暴いて、細霧の身を病から救えば、りんうはもう…。

「……優しいな、化野は」

 化野を眺めてから前を向いて、くす、と笑ったギンコの横顔。

「だって、人が悲しむのは辛いだろう」
「…お前らしいよ。やっぱりお前は化野だ。…行こう」

 

 花びらは、まるで滝を落つる水のよう。枝の下に入らずに離れていると、その向こうの視野は随分と悪い。降る花弁と花弁の合間に見えるのは、地面に膝を付いて、両手で散った花を救い上げているりんうの姿。よく見えなくとも、彼は笑って、でも涙を零さずに泣いているように見えた。

「何をしてるんだ、りんう」
「…っ…、細…っ…」

 降る花のせいで、一瞬当主と見間違えたのだろう。りんうは真っ青な顔をして、だけれど化野のすぐ傍にいる、知らない男の姿を見て眉を顰めた。

「誰です、それは」
「蟲師のギンコだ。俺の友でな、当主の病を治してくれるんだ」
「…無理ですよ、だって今まで何人もの医者が診て」
「それは当主がただの病じゃないからだ。その桜に憑いてるもののせいだそうだよ。それで? お前はその桜をそうして集めて、どうする気でいるんだ…?」

 手元にある布の袋には、桜の花びらがぴっしりと入っている。もう誤魔化しようもないものを、りんうは必死でそれを自分の後ろへ隠そうとしていた。

「は、花が人を病になんて、そんなことを誰が信じるというのです? 少なくとも私は信じない。これは香にするんです。細霧さまもお気に召して、常にこのかおりをと…」

 怯えた顔をして、追い詰められたような目をして、それでもひたひたと足元に寄せてくる絶望を、彼は見ないようにしているのだろう。花弁を握った指は震えていた。やめさせるためには何を言ったらいいのか、言葉を選んでいる化野の肩に手を掛けて、ギンコが桜の枝の下に入っていく。

 白いギンコの姿は、あっと言う間に花弁の向こうに飲まれた。化野が一瞬、恐怖を覚えた程だ。声だけは、はっきりと聞こえてくる。何故だか冷たい声に聞こえた。 

「あぁ、確かに凄い匂いだったしな、あの部屋。枕にでも詰めて四六時中匂いを嗅がせるわけか? …だが、そんなことを繰り返していたら、今に当主の意識は戻らなくなる」
「嘘だ、そんな。…なんの、根拠が…」
「根拠? いいぜ、見せてやろうか。この蟲がどんなに影響力のあるものなのか。…本当は、あんたも充分に分かっていることをな」

 ギンコはもっとも低く下がっている、小さな一枝を手で掴んだ。ぐい、とそれをさらに引き下ろすと、その枝に咲いている花をじっと見つめて確かめる。確かに、この枝だ。この枝に咲いている花だけは、花弁が六枚。その中の一枚が、件の蟲。

「…っ、や、やめてください…っ、やめて…ッ!」

 それは悲鳴だった。まるで自らの体を裂かれるような。ギンコはやめなかった。一瞬の躊躇すらなく、その枝を。

「容赦がなくて、すまんね」

 淡々とした、ギンコの声。降り頻る花は、もう止まっていた。降る花が消えたせいで、化野にもりんうとギンコの姿がはっきりと見えている。ギンコは脱いだ上着で何かをしっかりと包んで、片手で持った小刀を、鞘におさめて尻ポケットに戻すところだった。

 そしてりんうは、花弁の中に蹲って泣いている。止まらずに零れる涙が見えた。

「いったい、何が」
「蟲の憑いた枝を切り落としたんだ」

 たったそれだけのことで、この蟲の影響はもう消えたのだと、ギンコは言った。りんうの集めた花弁にも、なんの効力もなくなった。だから当主は治るだろう。そして二人はもう、傍には居られなくなり…。

「乱暴だって、怒るか、化野」
「……」

 化野は言葉を放つことが出来なかった。もっと何か方法がなかったのか、と本当は聞きたかった。なんとかしてやりたいと思っていたのは、化野だけだったのだろうか。どちらにしても、蟲の憑いた一枝はもぎ取られて、それで終わったのだ。身分違いのりんうの恋も、恋人同士、寄り添える時間も。

 りんうは顔を上げて、ギンコを見た。涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔。真っ青な顔色で、髪を乱して。一生懸命に集めていた袋の中の花弁は、もう茶色く枯れて、或いは消えてしまっている。それらはすべて蟲の見せていた幻だったのだ。

「…使用人の子が、雇い主様を好いては…いけませんか」
 
 血を吐くように、りんうは言った。

「ずっと傍にと望んでは、いけませんか。そのために出来ることをしては、いけませんか。そんなにそれが罪ですか。罪だとおっしゃるなら、りんうは細霧様に裁いて貰いとうございます。そうです、当主を病にしていたのは私だ。細霧様が、死ねと仰るなら、仰られるとおり…っ」

 両手で花弁を握って、それへ額を擦り付けるようにして、細く震えて引き攣れるような声が、そう。

「…嘆くのも分かるけどな」
「や…っ、離し…ッ」

 いきなり首根っこを掴まれて、無理に立たせられたと思ったら、りんうは化野の方へと突き飛ばされていた。化野はびっくりしながらりんうを抱き止めて、なおも何か叫ぼうとしているりんうの口を、自分の胸で塞がせた。

「ほら、迎えが来てるぜ。もう、蟲の影響から抜けたんだ」

 そう教えられてギンコの指す方を見れば、そこには当主の細霧の姿があった。

 ずっと寝込んでいて脚が弱っているのか、今にも座り込んでしまいそうになりながら、彼は裸足で庭木に縋っている。夜着に羽織を掛けただけで、寝乱れたままの髪をして、泣きそうな顔までした威厳も何もない格好だった。

「り、りんう…。誰が、お前を…っ」
「…ささぎり、さま…」
「誰がお前に死ねなど」
「さ、細…ぎ…。りんうは…っ」

 言いながら、りんうは細霧に駆け寄った。しっかりと支え合う姿を見て、ギンコは二人から目を逸らし、空を見上げる。真上には月が見えた。細い月だったが、それはこれから満ちていく月だった。

「いい月だ、部屋で見ようぜ、化野」
「あ、あぁ…でも…」
「まだ何か、あの二人にしてやろうってか? お人よしにも程があるって。…きっともう大丈夫だよ」

 見れば二人は地面に座り込んで、一時も離れ難いように抱き合って寄り添っていた。その姿を見て、不思議と「もう大丈夫だ」と言うギンコの言葉を信じられた。

「そう、だな…。月見といこうか、二人でな」




 夜は随分更けていたから、もう少ししたら夜が明ける。とても眠る気になれなくて、化野はギンコと月を見たあと、部屋の中で少しばかりの酒を飲んでいた。

「な、なぁ。どう、なると思う?」

 部屋にあった高価な酒を、ギンコの猪口に注ぎながら、化野は恐る恐る聞いた。あのふたりを放ってきたことが、それでよかったのかどうかまだ不安でならない。
 りんうは罪を犯したのだ。当主を故意に病にして、家の為に実るべき縁談の邪魔をした。しかも自分の恋のためだけにだ。罪に問われないとは思えない。

「どうって? そりゃあ、お前、当主にとって、何が大事かだろう? 逆に聞くけどな、例えば仮に、こういう家に生まれて家を継ぐ身分になってて、それで俺みたいなのに焦がれちまったら。…お前ならどうすんだよ」  
 
 酒をあおって問われたことに、化野は黙って自問自答する。迷いは案外短かった。

「当主の身の上でお前に焦がれたら? いや…俺なら、逃げるさ、引き裂かれちゃぁ堪らんしな。お前か、家か、って、迷うでもないさ。逃げてくれるか? 俺と」
「…はは、言うほど易くもねぇだろうけど、な」

 嬉しそうに笑う顔が、その頬が、ほんのりと赤い。

「ギ、ギンコ、あのな」
「んん?」
「そのな…」
「なんだよ、もどかしい。…化野」

 そっと身を寄せたギンコが、化野の耳元で何かを言って、その途端に化野はギンコを畳に押し倒した。


 お前に酔ったみてぇだ。
 してくれ、すぐに。 











 ほぼ終わりましたが、ラスト一話は多分、後日談的な。そんな感じかな。ちょっとなんか、すっとーん、とラストまで滑って行った気がしますが、どうだろうかね。

 欲?を言えば、もっとりんうと細霧の恋模様をちゃんと書きたかったかもしれません。ここまで書いても、なんか「あぁ、よかったねぇ」ってのが響いて来ませんのでー。まだまだ入り切れてませんね。がんばっ、がんばっ、まどいぼしっ!



12/05/27