仮居の衣   7





 ギンコが目を覚ますと、布団に起き上がって、心配そうにしている化野の顔が見えた。多分、細霧とりんうのことを案じているのだろう。いつもなら化野も身なりを整えていて、そろそろりんうが迎えに来る時間なのに、やはり今朝はその様子がない。ギンコは彼ほど気にしてはいなかったが、それでもどうなったのだろうとは思っていた。
 
 それとは別に、昨夜は随分と激しく過ごしたため、喉が渇いてしょうがない。白湯か水でも欲しいところだが、寝入る前、水差しの水を飲み干して、乾いた喉を潤した覚えがあった。まさか母屋へ行って、茶を下さいなどと言えるはずもなく…。

「お茶をお持ちしました」
「…っえ…」

 ギンコの心の声を聞いてでも居たように、外から女の声がしたのだ。ギンコは凍り付いたが、化野は馬鹿正直に、はい、と返事を返してしまった。

(おい…っ…)

 畳の床を這うようにして、押入れに逃げ込もうとしたが遅い。

「失礼致します」
 
 からりと開いた障子の外に、盆にのせた茶を持った女中。そしてその後ろに堂々と立っていたのはりんうであった。濃紫の着物を着て、腰の低い位置で幅広の帯を締め、着物と同系色の二本の飾り紐で、髪を横に纏めたその姿。それは、昨日までのりんうとは別人に見えた。彼はにこりと笑い、まるで自分が主であるかのように、女中に命じた。

「あぁ、お茶はそちらの台の上へ。それから…顔を洗って頂くので、たらいに熱い湯を入れてお持ちして」
「かしこまりました」
「あ…。あ? いったい…」

 呆けているギンコと化野に、りんうは床に膝を折り、手をついて深々と頭を下げたのである。

「何もかも、お二人のお陰です」
「別に…俺は、蟲師の務めを果しただけだ。で、どうなったんだ? あれから」

 りんうは優雅に顔をあげ、きり、と引き締まった表情に笑みを浮かべる。もともと綺麗な顔の青年だとは思っていたが、たった一晩でまた随分と雰囲気が変わった。自信と、そして幸福感が、彼を輝かせているのだと、ギンコは思った。きっとうまくいったのだ。

「たった今、細霧様が皆を集めて今後の話するところです。差し支えなれば、お二人にも是非、広間に来て頂きたいと。お召し替えをなさるのでしたら、ギンコ様にもお着物を」
「冗談だろ。俺はこれでいい」
「化野様は」
「あぁ、じゃあ、俺もここへ着てきた自分の着物を着るよ、もう身代わりにならなくてもいいんだろう?」

 りんうは頷いただけで、何も言わなかった。汚れたなりでは困るとか、粗末な格好を改めろとか、そういうことは何一つ。折角だからと茶を貰い、持ってこられたたらいの湯で顔を洗って、二人は広間へ案内された。

 広間には身分の高いものから、下は女中や門番に至るまで、この家に住まう全員が集められているようだった。室から溢れ、庭で首を伸ばしているものもいる。化野たちが庭から室へ近付いていくと、上座に座っていた細霧が立ち上がり、りんうは急ぎその体を支えに行って寄り添う。

「長く臥せっていて、皆には心配と迷惑を掛けた。わたしの不在を気付かなかったものも居ただろうが、ここ半月と少しの間、表へ出てわたしの身代わりをしてくれたのが、そこにいる化野さまだ、そしてその隣のギンコさまが、このように、わたしの病を治してくださった」

 ざわざわと皆がざわめく。前の方の、上等の着物を着た男が身を乗り出して嬉しげに言う。

「では、やっと縁談が進められますなぁ」

 しかし細霧はその男の方へは一瞥も向けず、堂々と言い放ったのである。

「今も今後も、妻を娶る気はない。予ねてよりの縁談も断る。今朝、既に速馬に文を持たせて走らせた」
「そんな馬鹿な…っ! 妻を娶らぬなど、跡取りのことは如何なさいますのか?!」
「わたしがやがて身を引く時、この家の跡を継ぐのは、商売に才能の秀でたものを選ぶと決めた。血筋も身分も一切関係ない。元が召使であろうと、余所から来た旅のものであろうと、心を砕き身を粉にして、この家を守ってくれるものに任せる」

 またざわざわと、ざわめきが広がった。前列のものらが特に、青くなったり赤くなったりして狼狽していて、見ているギンコや化野にも、そのものたちの身分が知れた。血が近いからとか、身内を妻に貰ってもらうからとか、そうしたことで己が身の安泰を信じていたものたちだろう。

「しかしっ、それでは細霧さまの血が絶えてしまうのですぞ!」
「血を残すことよりも、長く続いたこの家が薬商として繁栄する方がいい。そのために、傍近くには私をもっとも良く補佐してくれるものを置く。…このりんうだ」
「りっ、りんうなど、元々は下働きの子ではありませんか?! 細霧さまは、そこまでしてそんな年のいった色小姓を…っ!?」
「口を慎めっ。りんうはわたしの恩人だ!」

 ぴゅぅ、と誰かが短く口笛を吹いた。ざわめきの中でそれに気付いたものは少なかったが、化野はちらりと横を見て、口を押さえて笑っているギンコに気付いた。なんだか随分嬉しそうだ。

「立場上、目立たぬようにしてはいたが、今やこのりんうは、わたしと同じほどの薬の知識がある。長年、傍近くでわたしを支えてきてくれた証拠だ。そして桜の憑き物に憑かれて臥せったわたしのために、身代わりになってくれる人を探し当てたのもりんうだ。さらにその方の伝手で、病を治してくれる方にも来て頂けた。それもまたりんうの手柄に他ならない! 異論のあるものはいるかっ!」

 ざわめきは、段々と静まった。立っているのが辛くなった細霧のために、りんうは椅子を持ってこさせ、肩を貸してそこへ座らせると、自分はその傍に膝をついて、りん、と顔を上げている。

「立派なもんだ。二人はもう大丈夫だな…」

 思わず呟いた化野に、ギンコもその横で頷いている。細霧の言うのは本当のことだ。ギンコが訪れたのまでりんうの手柄というのは言い過ぎだが、運も彼の味方をしたということだろう。細霧を病にしたのは誰かなどと、ここでは口にする必要が無い。

「じゃあ、もう俺は行くかな」

 ぽつりと言って木箱を背負い、今にも踵を返そうとするギンコに、目ざとく気付いたのは、ずっと離れた場所にいるりんうであった。慌てて後を追おうとする化野の背へ、涼やかな声がかけられる。

「お望みの場所まで、お送り致します。細霧様が、謝礼をご用意すると申しておりますし」
「…いや、俺はいいよ。馬車だか輿だか知らねぇけど、そんなもんは慣れねぇし、勝手に首突っ込んだだけだしな。化野は送って貰えばいい」
「お、俺もいい…!」

 思わずそう言った化野の顔を、ギンコは呆れ返ったような目で見る。

「ここからお前の里まで、歩いて何日かかると思ってんだ? 野宿もしたことねぇ癖に」
「そうだが…っ。少しでも共に行きたいんだ、ギンコっ。は…話たいことも、ある」
「…話ねぇ」

「では、こう致しましょう」

 にこりと笑って、りんうは馬丁と女中を呼んだ。ずっと前からそうしていたような堂々とした態度に、召使たちは何の抵抗もなく、彼の指示を承って下がっていく。

 去っていく時、一度振り向いてギンコはりんうに言った。

「何でまた、あんたは自分の主なんかを好いたんだ」

 りんうは言った。

「主を好いたのではなく、好いた方が主だっただけです。…道中お気をつけて、化野様、ギンコ様」
「『様』はやめといてくれよ、虫唾が走るんでね」

 


 弁当らしき包みを受け取った後、化野とギンコは、二人で山中を歩き出した。隣の里までの半日の道のりである。さっきの馬丁が二人の乗る馬を用意して、そこで待っていることになっていた。化野だけが馬丁と馬を借りるも良し、ギンコと二人で使うもよし、着いてから決めることになっている。
    
「で、話ってのは?」
「…あ…うん、あ、あのな…」

 何気ないギンコの問い掛けに、化野は彼と目も合わせられなくなっている。それでも暫くの間、化野が話し出すのを待っていたが、半刻経つも沈黙ばかり。

 ギンコは切り株と、おあつらえ向きの岩が並んだところで、足を止めて岩に腰を下ろし、竹の水筒を取り出した。一口先に飲んで、それを切り株に座った化野へと差し出す。そして口を開いたのは、ギンコの方だった。

「お前さ、あの家の血縁なんじゃねぇの?」
「…っ!? な、なんで分か…っ」
「そりゃな、あそこまで似てちゃなぁ。それに、金持ちのなりやら、立ち居振る舞いってヤツがさ、あんまりにも板についてたし。だれだって、そんくらい想像が着くよ。遠縁か?」

 救いを求めるような目をして、化野はギンコの横顔を見ている。

「うん…。ほ、本家なんだ」
「ほぉん、本家とか分家とか、なんかよく分からんがね。あっちが本家でお前のが下だからってんで、無理難題にも逆らえなかったってことか?」
「いや違う、俺の家の方が本家で…」
「あ?」

 ギンコは煙草に火をつけようとしていた手を止めた。なら、なんで言うなりになったり…。金持ちのことは分からないが、何となく辻褄が合わないように思えた。そも、化野はそんな大家の家の出なら、どうして今、あんな田舎で貧乏医者などやっているのか。

 ここが大事、とばかりに化野は声に力を込めた。あの家で綺麗な着物を着て、香の匂いをさせている間、酷く余所余所しかったギンコの態度を思い出す。それが辛くて辛くて、悲しかったことも。

「俺はもう、金持ちなんかじゃないんだ。生まれた家をすっぱりと捨てた身だ。だから万が一にも居場所を知られて、家に連れ戻されちゃ敵わんと思ったから手伝ったんだよ。そんなことになったらお前とも…。だからギンコ、だから…その…」
「そう焦んなよ」

 と言って、ギンコは岩から腰を上げた。ふと見ると脇に野草が実をつけていて、歩き出しながらそれを二つもいだ。

「ほら、甘いぜ?」
「あ、うん、本当だ、甘いな」

 埃を被り、洗いもしていないその実を、頓着せずに口に含んだ化野を、ギンコの目が笑って見ている。俺が好いたのは化野だ。元金持ちの化野でも、田舎の貧乏医者の化野でもない、ただの「化野」だ。これから何を知ったって、知らないままだって、なんにも、どこも変わらない。

 木々の間を縫うように、土の香りの風が渡ってきて、それへ髪を弄られながらギンコは言った。

「三日半かかる。どうしてもせにゃならん野宿は一回だな。あとは泊まろうとすりゃぁ、宿に泊まれる。この重たい弁当の中身は、食いもんと謝礼の金だろうし、俺の普段と比べたら、割と贅沢な道中になる。…どうする?」
「う、うん…。え? どうするって…」
「歩くか? 一緒に」

 返事をするより先に、化野の顔が輝いた。

「ま、答えは次の里についた時に聞くさ」

 やれやれ、面倒臭い道行になりそうだ、と口の中で呟きながら、ギンコの口元も笑っている。化野とギンコ、二人で旅をする。一生そんなことはないと思っていたから、たった三日と少しでも心が浮き立った。

「お、この草の茎も煮れば食えるんだ。こっちの葉は磨り潰せば打ち身に効く」

「打ち身に? ううむ、庭で育てられんかなぁ」

「も少しお前の里の近くにも生えてるから、そっちで株ごと持ってってみりゃどうだ?」

「うん、そうしよう。あっ、あれは? もしかして胃の薬のっ。おお、またさっきの赤い実だっ」

「そんな張り切んなよ、ばてても知らないからな」

 ギンコはのんびりとそう言って、ポケットの中の小瓶を手の中に握る。中身は採取した花びらの形の蟲だが、もう寿命が来て消えかけていた。結果的には一つの恋が、この蟲の存在によって叶ったけれど、蟲はそんなことなど当然知らず、蟲なりの生を全うするのである。

 手をポケットから出して、ギンコはそれを見つめた。見つめている間に、小さな薄紅色の花弁は、透き通るようになって消えていく。

「わっ、いてて…っ」

「あー、ちったぁ気ぃつろよ、その草は棘があるんだっ」













 やっとラストが書けました。それにしてもなげーな最終話。いろいろあって更新がありえんくらい遅いですが、焦れているのは私だけだと思うので、焦らんようにしようかと。き、きっとみんなのんびり見ててくれるよね? 

 この話は「昔金持ちのぼんぼんだった化野」の話ですが、現在進行形でぼんぼんな化野と、ギンコが出会う話も面白い気がしますねー。そのあと何かあって、化野が今の海里に住まうようになるとか。ネタだけはいつでも浮かぶ惑でした。はっはっは。

 今回も読んでくださりありがとうございましたーっ。


12/06/09