仮居の衣 5
「お前…、誰だ…どこか、ら…」
「あー、いや、あやしいもんじゃぁ、…って、充分あやしいか。騒がねぇで貰えると助かる」
忍び込んでいるところを、この家の当主、細霧に見つかったのだ。もっと動揺しそうな筈が、どうしてかギンコは、彼と目を合わせた途端に、幾分気を緩めていた。彼が化野に、随分と似ていたからかもしれない。
「俺は流しの蟲師でね。あんたの病をどうにかしたくて、勝手にここんちの敷地に入って来てんだけどな。おかしなことを聞くようだが…あんた、治りたいかい…?」
前置きも何も無くそう問われた言葉に、細霧は暫し沈黙し、それから言った。
「…治りたい…、と一言で言えば、それはある意味、嘘になる。お前はそこにいて、さっきの話を聞いていたのだろう」
「まぁ、聞いたがね。それに、小姓のりんうとのことも、ちったぁ聞いてるし」
誰から、どのように、とまで言わずに言葉を切ると、細霧は静かな顔で笑ったのだ。そうしてギンコにこう言った。
「そこの障子を開けてくれ。大丈夫だ、こんな時間にここを通るものはもういない。庭が見たい。庭にある、あの見事な桜が」
「……俺はあんたの使用人じゃないんだがね」
そう言いながらも、ギンコは言われた通りに障子を開けてやる。あの桜に憑いた蟲の影響で、この男はこうして寝付いているのだから、見せることで何かが見られるかもしれないからだ。枕から必死に頭を上げて、細霧は桜を見た。桜は相変わらず、滝の如くにずっと散り落ちていて、美しいが、とても尋常な風景ではなかった。
細霧は言った。震える声で、息も絶え絶えになりながら。
「…綺麗だ。あぁ、綺麗だ。ずっとあのまま…。ずっとこのまま、こうしていられれば…。こうして、いられれば…」
りんう …
呟いた名が、ギンコの耳にも届く。病が治れば気に染まぬ縁談が待っている。受けると決まった縁談だ。断るなど立場が許さない。祝言となれば、もう、りんうを傍に置いておくことは出来なくなるのだ。
「もう閉めて、くれ…」
「…だから、俺はあんたの使用人じゃぁねぇよ」
「…………」
文句を言いながら障子を閉めて、ギンコはそっと細霧の枕元に近付いた。不意に喋らなくなった細霧を訝って、静かに顔を覗き込んでみる。瞼は開いていたが、彼の目には何も映っていない。多分、脳裏に映し出された幻を見ているのだろう。彼の唇が微かに動く。薄っすらと笑って、細霧は呟いていた。
「…きれいだ…。あぁ、きれいだ。りんう…、りん…」
ギンコは軽く息をつく。あんた、本当は分かってるんだろ?
「そのりんうが、あんたをそんなふうにしているんだ」
身分違いの恋なれど
身を切るような離れがたさゆえ
壊れるような愛しさゆえに…
「細霧さま」
声がして、カタ、と廊下で音がした。ギンコは慌てて立ち上がり、声も物音も立てないように、また屏風の裏へと回った。そのままそこに隠れていようと思ったが、急に焦ったような顔をして、すぐ後ろの障子に手を掛けた。
当主を呼んだ声はりんうのものだ。とすれば、もしかしなくても、化野ももう部屋へ戻ってくるのではないか。こっそり抜け出したのがばれてしまう。綱渡りだとは思ったが、ギンコはりんうが障子を開ける音に紛らせて、自分も障子をそっと開けて廊下へ出て、閉める音に合わせてそこを閉めた。
お上品な金持ちのすることだ。片手で開けて部屋に入って、返す手ですぐに閉めるようなことはない。りんうは部屋の障子を、床に膝を付いて開け、中へ入ってまた膝をついて、両手を添えて閉めている。そうこうする間に、ギンコはうまく外へと逃げ出せた。
人目がないことを確かめながら、こそこそと廊下を渡って戻ると、果たして、もうあの離れに灯りが見えている。
「あだし…。…ッ!」
すまん、心配したか、とか言うつもりで、一歩入って、ギンコはいきなり引き倒された。ガタン、と、音を立てて障子が揺れ、最後まで閉め切られずに隙間を開けたまま。
「おっ、おいっ、しょう、じ…」
「うるさい。この独楽鼠が。どうせ蟲を調べに行ってたんだろうが、見つかったら危ないとあれだけ言っただろうが…!」
「ち、が…っ。んぅ…っ…」
怒っている癖、それを口実にするように化野はギンコの口を吸った。部屋へ戻ったばかりの化野は、まだ朝と同じ金のたらふく掛かった着物を着ている。合わさる腰と腰の間に、帯に差してある扇子が邪魔になって、化野はそれを乱暴に抜いて放った。ぱたん、とそれは畳に転がって、わずかに開いて香を漂わせた。
「や、めろ、化野…っ」
「なんで」
「…落ち着かねぇだろ…っ。こ、こんなとこでじゃ」
化野はギンコのシャツの襟を開いて、その中に唇を触れさせて軽く吸ってくる。
「…っ、ぁ…」
ぎり、と畳に爪を立てたギンコの指を、伸ばした手で外させて、やっと化野は身を離した。
「…俺のことを、別人だなどと、もう思ってはいまいな?」
「思ってねぇよ。思ってたらこんなこと、許すはずがねぇだろ? 腹くらい蹴り上げてやってるさ」
隙間の開いた障子を閉め、襟の中に手を入れて、口付けされた場所を意識しながらギンコは言う。ふ、と化野の口元が緩んで、ギンコのよく知った顔になった。化野は昨日と同じに、勢い良く着物を脱いで、体に染みた香の匂いを布で拭き取り、寝巻きに着替えてからやっとひと心地ついたように息をついた。
「りんうをここへ連れてこようと思ったんだが、断られた。明日は店を開かない日だから、今夜は一晩中、朝まで細霧の傍にいるんだそうだ」
「あぁ…、きてたな、当主のところに」
「…なんだと?」
「あ、あー…」
しまった、やぶへび、とは言わないだろうが、口が滑った。途端に目を吊り上げた化野に、また押し倒されてしまいそうな気がして、ギンコは座ったままで後退る。
「や、すまん、ちょっと様子を見に母屋に渡ったら、丁度当主の部屋に入っちまって、その、す、少し話をしたよ」
「え、当主って、細霧と…っ?!」
「そ…そう、その、細霧とだ」
「…おまえ」
はぁっ、と溜息をついて、化野は項垂れた。よく、人を呼ばれなかったもんだ、と、そう言って、改めてギンコを睨む。
「まぁ、病のせいもあって、よく分かってなかったのかもしれんが…。心配かけた分、お前にはちゃんと償ってもらおうか」
「なんだよ、それ」
「いいからこっちに来い」
腕を強引に引かれ、抗うかどうしようか迷っているうちに、胸を重ねていた。ギンコが暴れたりしないと気付くと、化野は腕を緩めて、ただ隣に軽く添わせるだけの格好になる。
「このまま、暫しこうしててくれ」
「…なんで」
今度はギンコがそう言って、それでも間近から化野の顔を見た。部屋の隅に、小さな行灯があるだけの薄暗がりで、どこか怯えたような眼差しと合う。どきり、と小さく胸が鳴った。どうしてそんな顔してるんだ? 俺がお前をそんな顔にさせてんのか…?
「あ、その…。昨夜と比べて、随分と火を小さくしてんだな」
「…おかしいか? いつもならこのくらいだと、思ったんだがな。この方が、俺らしいかと」
こうしていた方が、お前が安心するだろうと思ったからだ。いつものあの里で、もっともっと俺に気を許してくれるお前に、どうしたらなってくれるだろうかと、そう思っているんだ、ギンコ。
震えないでくれよ、と化野は言った。
その肌のこわばりが消えるまで、こうしていてくれよ、と。
…嫌でなかったらでいいから。…頼むから。
ギンコは唐突に、それまでよりも大きく身を震わせた。化野が酷く落胆するのが分かって、自分から彼の体に腕を回して、そっと額を肩に伏せてやる。
あぁ、こんなにも、想われている。
そう思った。
だったら、有り余るほどに幸せなこのひと時が、ヒトにもどうか訪れるようにと、時には祈ってもみてもいいだろう。身分違いで、今にも終わってしまいそうなあの恋も、どうか叶ってくれるように、と。
続
恋とは難儀なものである。だったらどうしてするのかと思うのです。甘い優しさも、熱いほどの想いも、壊れることを思えばこんなにも苦しいというのに、どうして恋などするのだろう。終わりを恐れるあまり、してはならないことにまで手を伸ばし、苦しみながら、静かにねじれていくりんう。
でも、そんな姿すら、細霧は愛しく思うのでしょうね。
うむうむ「金持ちには心すらない」ってくらい、思っていそうなギンコは、ちょっと改心したようですwww
次か次あたり話がクライマックスかなーと思います。
12/05/17
