仮居の衣 4
当主として、表の店に出ていなければならないらしく、刻限が来ると化野は鏡の前に立った。淡い桔梗の色に染めたような、美しい織りの着物にわざわざ着替え、象牙の櫛で、髪をきちりと分けて撫でつけ、準備が整うと体ごとギンコの方へ振り向く。
「別人のよう、か? 頼むからそんな嫌そうな目をせんでくれ」
それだけを言うと、藍の扇子を、しゅ、と開き、白で桔梗を描いた模様を確かめて帯に差す。当主は随分と洒落ものらしい。襦袢と着物と帯、帯と扇子、上から下までのそのなりと、草履が合わぬと違和感を悟られるのだとか。
「じゃあ、あとでな。戻る時は何か理由をつけて、りんうを伴ってくるからよろしく頼む」
「…あ、あぁ」
ギンコの目は、化野の襟の合わせ目あたりへ止まったまま動かない。化野の姿を見れば見るほど、嫌悪をあらわにしてしまう自分に気付いているからだ。化野の姿が部屋から消えると、ギンコは詰めていた息を吐き、その場に脚を投げ出して座った。
薄汚れた自分の服が、畳やら何やらを汚すのではないかと気になる。丁度鏡に映った姿も、白い髪は乾いてばさばさ、シャツはよれているし、姿勢だって背中が丸くてだらしない。それに比べて化野の姿ときたら。
「…よくもまぁ、あんな…。元々が金持ち、みたいな態度が出来るもんだ」
これから夜までここで待っていなければならない。敷地の外へ出て時間を潰したかったが、それは危険だと化野に咎められた。まぁ、昨日こっそり庭へ忍んだ時は、ばれて摘み出されたらそれまでだと思っていたが、今はそうはいかないのだから化野の言うのが道理だ。
ギンコは木箱の抽斗を一つ開けて、昨日取っておいた、たった一輪の桜の花を見た。花弁が六枚あって、その一枚は蟲の擬態だ。この蟲は付いた固体の時間を無理に止める。そうして本来の流れのままに、移り変わろうと足掻く生き物の意思を喰うのだ。
蕾は咲こうとする。咲いた花はやがて散ろうとする。散った花弁は朽ちて土に還ろうと…。そんな命の営みを、この蟲は強引に止めて、蕾は蕾のまま、咲いた花は咲いたままに、散り落ちるさなかだった花弁も、ずっと尽きずに散り続くようさせて。
「時を止め、ずっとこのまま…か」
ギンコは花を黒布に包んで、元の通り抽斗におさめた。ふと、りんうのことを思う。
「分からんでもないが…」
変に広い部屋の真ん中で、ギンコは仰向けに横になる。あの桜についた強い蟲の気が、他の蟲を寄り付かなくさせているのだろうか。この屋敷の中には、あまり他の微細な蟲がいなかった。薄っすらと目を開けて、ギンコは天井を見る。いつもなら必ず視野に入る蟲たちの姿が見えなくて、なんとも言えない気分になった。
蟲を寄せねぇ屋敷、蟲を寄せねぇ部屋。そんなのは、不自然だ。次から次へと蟲どもを引き寄せて、纏いつかせるこの身が人として不自然なのと、同じくらいに。
「…あぁ、分からんでもないよ、そりゃあ、そうも思いたくなるだろうさ」
願いが叶った一瞬のままに。それか…
願いが一生叶わなくなるのなら、そうなる手前で。
時を止めたいと、思うだろう。
間口が狭く、奥行きが阿呆のように深いその店の、もっとも奥の居場所に化野は座っている。声が届くほど傍に来るのは、店でもかなり地位の高いものばかりと、側遣えのりんうだけだった。その他のものは、他の誰かへの口伝えでしか「当主の細霧」にものを言わぬ。
それでいて、些細なことまで全部、当主の許可がいる仕組みで、そんな様では仕事の捗るわけは無く。まぁ、だからこそこの「身代わり」が、それと知れずに済んでいるのだが。
「お疲れですか? 細霧様」
髪の一すじまで数えられそうなほど、傍近くへと体を寄せてりんうがそう聞いた。年は二十歳を過ぎている筈だが、ふとした瞬間に妙に若く見える。薄く笑ったその一瞬なら、十七とも、六とも。化野は思わずまじまじとその顔を見て、いや、と短く言って視線を逸らす。
「控えの間で、少々お休みになられては…」
「余計なことだ。…離れろ」
別にしたくもないやり取りだ。細霧はりんうを気に入りで、常に傍に置いてはいるが、本気で好いているわけではない。その証拠にこうしてたまに疎んじている。本気ではないのだから、そのままにしておいていいだろう、と、そう周囲に思わせるためだけの。
「…やはり、少し休んで茶を貰おうか」
「かしこまりまして」
すぐ隣には、当主が少し休むための小さな部屋がある。丸窓が一つあって、そこからずっと遠くの中庭を見通せて、手前には、今は緑の葉をつけた紅葉。その葉を映すために置かれたのだろう、苔むした水鉢。
「細霧様は、ここからの景色がお好きでございますね」
入れたての玉露を運んできたりんうが、すぐ傍で片膝をついて、両手でその盆を差し出している。化野はちらりと肩をすくめて、一応声を低くして言った。
「綺麗だとは思うが、別に俺は本当の『細霧』じゃないしなぁ」
「……細霧様…。もし、誰かに聞かれでもしたら…」
「聞こえやせんだろ。庭にだって此処にだって、他のものがこないように指図してあると、最初に聞いたぞ。それに、店で位の上のものは、俺が身代わりだと知っているんだし」
途端にりんうの目が悲しげに揺れて、化野は申し訳無さそうに軽く眉を寄せた。
「床から出られず、ろくに話も出来ん恋人の替わりに、俺と『それらしいこと』がしていたいんだろうけどな、不毛だよ。本当は辛いだろう、そんなのは」
「…辛くなど。りんうはただ、一日でも一時でも長く、細霧さまのお傍にいたいと思っているだけです」
「その為に、弱みに付け込んで俺をさらって、か?」
化野をここにさらってきたのは、りんうの言い出したことだ。当主が原因不明の病で床についていると知れれば、既にやや傾いているこの薬問屋の先行きはあやしい。何人もの医者には既に『原因も分からず治せぬ』とされてしまい、不在が世間に知られる前に、身代わりがどうしても必要で。
茶の盆を置いて、細い肩を抱くりんうの姿を眺めながら、化野は言った。
「ま、俺も弱みのある身だしな…。自分で自由を手にした今は、それを失くすことなど考えたくもないよ。でも、ずっとは付き合えんし、細霧もこのまま、というわけにいかんだろう。治せる病なら、それは治すべきなんだ」
医家らしい物言いに、りんうは顔を上げて化野を見た。恨むような、随分ときつい目。
「出来る…ものなら…」
「あぁ、出切るかもしれん」
言った途端に、りんうのきつい眼差しが、またゆらりと揺らぐ。どうしてか、今度は今にも泣きそうな目だ。
「りんう?」
「…お茶が冷めました。入れ直して参ります」
美しい立ち居振る舞いで、彼は部屋を出て行くのだった。
じっとしているのは元来性に合わない。そんなもんは、時間もなにも有り余っている、金持ちだけの道楽だ。そんな理屈を拵えて、ギンコはそろりとその部屋を抜け出した。
朝から今まで、近くに人の気配はないし、これ以上こんな金の掛かった部屋の中にいたら、こっちの性根まで腐っちまう。
耳をそばだて、周囲に気を配りながら細い渡り廊下を行き、母屋に足を踏み入れる。床板が、みし、とも言わないのが有り難く、恐らく軋みを立てるほど痛む前に、剥がして張り替えているのだろうその豪奢が、ギンコの居心地を悪くさせる。
と、いきなり傍で声がした。ギンコは息を詰めて目の前に見えた襖を開け、その中に身を滑り込ませる。泥棒にでもなった気分だが、見つかるわけにもいかなかった。入った途端に、あの内庭と同じほどの桜の香り、そして目の前に見えたのは、大きくて立派な屏風の後ろ側。
「……お加減は…」
ぼそり、と、まるで辺りを憚るようにその声は響いてきた。思いの他、声が近くてギンコは懸命に気配を殺す。
「まだ、よくなる兆しもございませんのか、折角のよい縁談…」
返事をする声は聞こえてこない。相手もそれと分かっていたのか、それ以上答えを催促するでもなく勝手に言葉を続けている。
「とにかく、早くお体を治して頂いてご結婚…。それから跡を継がれるお子を。病が治ったとしても、いつまでも子がおられぬようでは、この大棚の行く末も」
やはり返事はない。困ったような溜息を一つ零し、声の主は部屋を出て行ったようだった。廊下へと出た後、まるで聞こえよがしのような言葉が続く。
「年のいった小姓なんぞに、いつまでも目を掛けている場合ではないというのに」
衣擦れの音が遠ざかっていき、ギンコは屏風の陰からそろりと顔を覗かせた。まず見えたのは立派な寝台と錦の布団、朱塗りの燭台。さっきの話から、誰かがここに寝ているのは分かっている。恐らくは当主だろう。化野に似ているという話の。
ギンコはさらに首を伸ばして、その、寝ている姿を見た。似ていると言えば似ている。他人の空似であるなら、似過ぎているくらいだろう。確かに遠目になら「化野」はこの男に見えるだろう。男は薄っすらと目を開けていて、ちゃんと意識もあるようだった。
ギンコの方をゆっくりと見て、少しだが、驚いたように目を見開いたのだ。
続
ややこしい話です。書いてる私が「ややこしい」って言っちゃうんだから、もうアカン。少しでも分かりやすいように、読みやすいように奮闘中。主人公はギンコですけど、りんうや細霧にも感情移入できるように書けたらいいなぁ〜。
今回、なにが楽しかったって、先生の凛々しくて綺麗な姿を、表現するのが意外にも楽しかったです。そうそう、この話が「雪の東雲」や「雨の化野」とリンクしているかどうかは…、読んだ方の持たれた感想にお任せしますっ。(←おぉ、逃げたよ)
それでは、また次回〜♪
12/05/05
