仮居の衣 3
さらさら、さらさらと音が届いている。
あの内庭からここまでは、歩いて少し離れているのに、あまりに静寂が強いからだろうか。さらさら言うのは花が散る音だ。降り積もった花弁のうえに、さらに花弁が降り頻り、さらさらさらさら、音がする。
目を閉じたギンコの脳裏には、降る花の光景。あんなにも沢山、いっぺんに散り続けているというのに、それでも一向に花はなくならず、ただただ、ずっと降っている。
あれは時が止まっているのだ。ああして花弁を美しく降り頻らせたまま、あの桜はそういう時間の中で止まっている。何もせずああしておけば、恐らく冬がきても変わらぬ姿でいるだろう。
この家の家人は、あれをいったいどう思っているのか。ただただ美しいと愛でているのか、それとも、下手なことをすれば祟るとでも思うのだろうか。誰かが寝込んでいると聞いたが、それでも不審に思わぬのだろうか。考えたってどうせ分かりゃしないか、金持ちの考えることなんか。
ギンコは一つ寝返り打って、それからうっすらと目を開けた。見えるのは美しい木目をさらす天井、繊細な彫りで花鳥の描かれた欄間。淡く花の透かしの入った障子、など。ぼんやりと見ているだけで落ち着かない。ここは自分のいるべき場所じゃないのだと、逃げたいような心地で思った。
敷いた絹の布団に横になっているのはギンコだけで、化野の姿は見えず、なおさら居心地が悪くなる。起き上がり、庭へ向いた小窓の障子に隙間を開けてみれば、少し離れた遠くに化野の立ち姿。
今、化野が纏っている着物は、深く沈むような緑青の色合い。よく似合っているのかもしれなかったが、遠めにも金のかかったものと知れて、やっぱりギンコは嫌だった。昨日ちゃんと分かったから、あれが化野本人なのは理解した。でも、立ち居振る舞いから、またしてもいつもと違っていて、ギンコは意識して目を逸らす。
昨日「ささぎり」などという知らない名前で、化野のことを呼んだ男が、今も彼の傍に居た。若い男だ。化野やギンコよりも年はいくつか下だろう。ギンコは窓の障子を閉めたままで居たが、化野と従者の話し声が、だんだんと近くなって動揺した。
ここへ来るつもりなのか? なら隠れねぇと。でも何処へ? 押入れか? 隠れるとこなんて、そのくらいしか。
もう、随分声は近付いてきた。
「来るなといっているだろう」
「ですが、御身のまわりを整えさせて頂きませんと」
「必要ない。一人で出来ることばかりだ。煩くするなと言っている。…そも、俺はお前の本当の主じゃない、だろう? 今はただ、俺は身代わりに」
「ささぎり様…!」
声は穏やかだったが、その響きは叱責であるようだった。言葉にしてはならぬことだと、従者は言下にそう告げる。
「…あぁ……。…本当に、煩いな、お前は。暫し俺の目の届くところに寄るな。煩わしい。下がれ」
「……申し訳…ありません、ささぎり様」
ギンコは壁に背を預けて、そのやり取りをずっと聞いていた。「身代わり」という言葉を零した化野を、静かに咎めた声。そして化野に三たび疎ましがられ、とうとう退いたのであろう気配。でも、最後に残していった言葉には、微妙な笑みが含まれた。なんと言ったらいいのだろう、どこか満足げで、嬉しそうで…愛しそうでさえあった、ような。
「…はぁ…、やれやれ」
障子が開いて化野が部屋に入ってきた。隅に立ったままで居るギンコに気付くと、また彼はもの言いたげな顔になる。
「ギンコ、分かってるだろうが『化野』だぞ、俺は。また知らぬものを見るような、構えた顔をしているじゃないか」
「……なら言うけどな、それはお前が常のお前じゃないからだ。ものの言い方から、身振りまでいちいち違う。もしもそのまんまのお前があの里に戻ったら、仕草ひとつ言葉ひとつで、里のもんも随分戸惑うだろうよ」
ギンコは、化野が大事に思っている里のことを引っ張り出して、自分の想いをそれに混ぜ込んでいる。そんなお前は嫌だ。確かにお前と分かっていても、知らぬ男のようで馴染めない。会っているのに、遥か遠くにいるようで苦しいのだと。
それに、さっきの男のことが変に気になって…。
「あの従者は」
「あれか。うん…。どうも『俺』の小姓…っていうか、そういうのらしい…」
「…こ…っ…」
「あっ、違う。『俺』のって言っても、俺のじゃなくて、この家の当主のってことだ…っ」
焦ってそう言ってから、化野は疲れたように腰を下ろした。凝った肩をほぐすように、背中やら腕を動かして、溜息を付きながら床の間の柱に背を預ける。
「なぁギンコ、もう少し詳しい話を聞いてくれるか? もしかしたら嫌かもしれんが、こんな金持ち共の話なんか聞くのは」
ギンコは何も言わなかったが、じっと化野の目を見た。それで化野が『化野』に戻ってくれるのなら、多少の面倒ごとなど厭いやしない。物言わぬギンコの気持ちが分かったらしく、化野は安堵したように、もう一度息をついて、それから話を始めるのだった。
ささぎり、というのは「細霧」と書くのだそうだ。そうしてあの男の名前は「りんう」。長雨の意味の「霖雨」だそうでな。この家の使用人だった親が、自分の子の名をそうつけたらしい。霧と雨だよ。名付けからして、傍にいるのも当然とされてたような名だと思わんか?
勿論、その親御はまさか、ふたりが…そうなるとは思わなかっただろうけどな。
立場こそ違えど、りんうは細霧の幼馴染で、成長してからは、常に傍に仕える従者でもあったらしい。細霧がこの家の跡目を継ぐ前から、ずっと、その…身の回りの支度から何から、そういう意味の、ことまで、だな。何しろ本人が小姓だとはっきり俺にそう言ったし、周りも分かってて見て見ぬ振りしてるらしいから、正直驚いた。
だって、もう年が年だろう。小姓と言ったら普通はもっと、十代前半とか、行って十六、七くらいまで。りんうは俺の三つ下くらいって感じだから、もう小姓なんて年じゃないんだよ。
でもなぁ、はっきりそうと言われんでも、俺には分かっちまった。身分の違いもある上、男なんだから恋仲だなんていうわけにいかないし、勿論、娶ってもらうわけにもいかん。細霧がこんな大きな家の当主になったんじゃあ、嫁取りと跡継ぎ作りは一番の義務になっちまうしな。
細霧とりんう、二人は互いに好き合っているんだ。
細霧の方は、人目のある場所では、殊更りんうを冷たくあしらって、せいぜいがただの遊びやら暇つぶしやら、その程度のことと見てもらえるよう気をつけていたんだろう。本気と知れたら、すぐにも引き離されるってんで、それも仕方なかった。そういうわけで、今、細霧の身代わりをやってる俺も、それを真似て、りんうには特に酷い態度をしてなきゃならないんだよ。
いずれは断ち切られると分かっていても、行く末がどんなに暗くとも、好いちまった想いが簡単に消えるわけもないし、俺にはどうしても、可哀想に見えてしまって。蟲のこともあるが、そっちも含めて二人のことを何とかいいように…。
ギンコ…?
化野は小さく苦笑して、言葉を無くしているギンコの方へ、うん、うん、と、頷いて見せている。驚いて当然だよ、とでも言うような仕草だった。驚いたは驚いたのだが、実はギンコは化野とは違う一点を、信じられないように思っていた。
(…金持ちも、そんな恋をするのか……)
ギンコにとっては、何よりもそこが不思議だった。細霧がりんうを好きなのも勿論のこと、使用人の子だったりんうが、今は当主の細霧を、ずっとそんなにも想っているとは。
「蟲払いの方法は、だいたい見当がついてる…」
「おお、本当か! さすがはギンコだ。それで、あの桜に憑いている蟲のせいで、ここの当主も起き上がれないというわけなのか? それを払えば…」
「払えば、そりゃ当主は元気になるだろうが」
どうも蟲を払うだけでは済みそうもない。そもそも、散り続ける桜を普通の桜に戻して、当主が元気になったらどうなるのだろう。それではただこれまで通りに戻るだけで、細霧とりんうは、やっぱりいずれ引き裂かれることになるんじゃないのか。
ギンコは思った。何をするにしても、まずは患者の細霧を診せて貰わねば。そして、細霧とも、りんうとも話をしてみたい。
「化野」
「うん? まずはどうする?」
ギンコは化野を見て、どうしてかすぐに視線を逸らした。多分、無意識なのだと思うが、目を逸らされた化野はまた少し淋しそうな顔をした。
「……田舎の貧乏医者になっといて、よかったよ…」
立ち上がり、ギンコの脇を通って窓の障子を少し開け、その外へ向けてぽつりと言った言葉は、消えそうなほど小さかった。その言葉はギンコの耳に届くことはなく、せめても、と言うように、化野は綺麗に整えてあった髪を掻き乱した。
続
身内もなく家もなく、冷たい他人に連れ歩かれていた過去。疎ましがられ、利用されるばかりの日々もあったでしょう。ギンコは自分を「ヒト」と思っているけど、相手によっては、彼は「ヒト扱い」されていななかったりもして。そんな過去の中でギンコは、裕福な人間に対しての偏見を抱いてしまった、んじゃないかなー。なんて発想でこのお話を書いてます。
金持ちが好きなのは「金」と「自分自身」だけ。みたいな、多分そんな気持ちね。でも、もしも化野まで、元はそんな「金持ち」だったら?
惑、相変わらず不調なので文を書くのに苦労してます。読みにくかったりなんだりあるかも、申し訳ないですっ。読んでくださり、ありがとうございます。
12/04/29
