仮居の衣 2
化野は音も立てずに障子を閉める。ぴったりと閉まったその瞬間にすら、何の音も立てずに。さら、と衣ずれを鳴らして振り向き、彼は先に部屋に入らせたギンコの姿を、黙ったままでじっと見つめる。沈黙に焦れて先に口を開いたのはギンコだった。
「本当に、化野…なのか?」
「……つれないことを。着物を変えただけで、お前が俺を分からないとは思わなかった」
「…いや。でも…」
恨みがましく睨まれれば、どこがどういつもの化野と違うのか、既に曖昧な気がしてギンコは口篭った。だって、着物が違うだけじゃないじゃないか。雰囲気も、さっき従者らしき相手に放った言葉も。
「なんで、こんなとこにいるんだよ。里はどうしたんだ」
結局はそう言った。知りたかったし、それ以外なんて言ったらいいのか言葉が出なかった。
「…まぁ、いいからまず座ってくれないか。詳しく話せば長いから、掻い摘むことになるが、構わないな?」
促されてギンコが座ると、化野は彼のすぐ近くに来て膝も触れるほどの位置に腰を下ろす。膝どころか髪すら触れそうな距離で、ギンコは無意識に少し後ろへ下がった。咎められたりはしなかったが、化野は物言いたげに彼を見る。
「実はな。不覚にも、弱みを握られてしまってな。口外されたくなかったら、しばらくこの家で当主の振りをしろ、と、そう言われてこんなとこまで連れてこられているわけだ」
「と、当主の、振り?」
「あぁ。またここの当主本人が、俺と結構似ているんだよ。しかもこの家は薬問屋で、薬の知識のある俺なら、なりすますのに丁度いい、と」
困ったように話す化野は、ギンコのよく知る化野だ。着物だの、部屋の豪奢すぎる調度だのを目に入れなければ、海の傍のあの家に居るのと変わらない。
いや、着物に焚き染めてあるのか、化野の着ている着物から、高そうな香のかおりがするのも、少し気になる。それから化野の髪が、綺麗に撫で付けられて整っているのも、気にかかるといえば気になって…。
「ともかく、会えて嬉しいよ、ギンコ。ここにきてもう半月だ。文一通書いて家に置いてきた以外、里になんの連絡も出来なくて、それも正直気になっているんだが、居ない間にお前が来ていたらと思うと」
話しながら化野の手が、ギンコの髪に触れる。淡く模様の入った絹の着物、その袖からふわりと上品な香がかおり、きちんと整えた黒い髪が、すぐ傍に…。
嫌がる必要はない。これは化野だ。いつもこうして肌を許していたんだ。ギンコはそう思って目を閉じるが、肌の強張りはどうしても溶けない。シャツの下から手を入れられ、指先で感じる場所を弄られて、ぞく、と背筋が凍った。紛れも無い嫌悪に、自分で自分が悲しくなる。
「…ギンコ」
「や、やめてくれ…」
「なぁ、そんな意地悪を言わないでくれないか。いつもなら、二人の時は、お前はもっと」
あぁ、どことなく言葉も違う。どこがどうとは言えないが、化野の言葉はもっと温かだった。耳に溶けて心地いいくらい、もっともっと優しかった。
「…今は、嫌なんだ…」
「どうして」
迫るのはやめたけれど、ギンコの手首を取ったまま、化野は責めるような顔をした。ギンコが視線を逃がすと、部屋の隅の置かれた渡来品のランプや、つやつやと要らぬほど磨かれた、伊万里の花壷が視野に入ってくる。
使いもせぬだろうに、それでも整えられた茶器一式。灯すに必要の無い、絵紋様の描かれた蝋燭。単なる飾りものらしい香炉に、立派な書の掛け軸、部屋の隅に畳まれてある布団も、どうせ絹で出来ているのだろう。
どう言っていいか迷いながら、ギンコはそれでもやっと言った。言いながら化野の手を振り払った。
「…化野じゃない。お前は、俺の化野じゃ…」
拒まれた化野は悲しそうな顔をして、暫し口を引き結んでいたが、そのあといきなり自分の髪をくしゃくしゃと掻き混ぜ出した。そうしながら立ち上がり、荒々しく帯を解き、着ているものを自分の体から剥がすようにして脱ぎ捨てた。帯に着物、襦袢、それから下帯に手を掛けて、一瞬動作が止まったが…。
「これも絹かよ…っ、どうりで着心地がおかしい筈だ」
そう言い捨てて下帯まで解き、ギンコの目の前にそれを投げ打つ。ギンコは呆気に取られて見ているばかりだったが、化野はそれだけでは止まらず、素っ裸のなりで、水差しの水で手拭いを濡らし、髪から顔から首から、胸、腹、脚、それに背中まで、痛そうなくらいごしごしと擦った。
それから何かに気付いて、自分の脱ぎ捨てた着物を引っ掻き回し、帯の間から見慣れたものを取り出して目元に当てた。
「どうだ? これでいいか、ギンコ。香の匂いは、少しするかも知れんが、今はこのくらいで勘弁しろ…っ」
と、言い放ちながら部屋の真ん中で仁王立ち。
「いや…何も全部脱ぐこと…」
「しょうがないだろう、着ているものから匂いから、みんないつも通りにするんなら、こんなもん着ているわけにいかんしなっ。で、どうなんだよ? これで俺はいつもの化野か? お前に触る権利はあるか?」
「…いきなりそんな珍妙なことをする男は、お前くらいだよ」
「珍妙とは心外だ、お前恋しさ故だというのに」
ギンコが小さく笑う顔を見て、化野は安堵したのだろう。改めて近付いて、彼の肩に額を付け、はぁ…っ、と雄弁な溜息を一つ零した。
「もしかして…片眼鏡つけるだけで済むことだったか?」
と、意地悪くギンコの目を覗き込む。ギンコが何を嫌がって拒んだのか、化野はちゃんと分かっていたのだ。片眼鏡を付けていないことなんか、逆に言われるまで気付かないくらい動揺していたことも。
「…か、金持ちが…あんまし好きじゃねぇんだよ…」
「ほう。寄られるのも嫌なのに、わざわざ庭に忍び込んだわけか。そりゃ随分と酔狂な。お前のことだから、俺はてっきり、蟲がらみで寝込んでいるこの家のものを、診てやろうと思って…なんてぇ理由かと思ったよ」
「やっぱり、誰か寝込んでっ。…ぅわッ!」
どさ、と背中から床に寝かされる。脚を絡めて動きを封じながら、化野はギンコの唇を求めた。
「ちゃんと聞きたいなら、ちゃんと俺に応じてくれ。この上、俺よか誰か別の奴を優先するとか、あんまり酷いだろ?」
「ん…っ」
抵抗を封じられた次は、言葉も封じられる。庭先で求められた時も、口吸いで彼を「化野」だと理解したのだ。そのことも当然悟られているだろう。あの時とは逆に、ギンコは化野の「姿」を求めた。瞼を伏せずに彼の顔を見て、わざと乱した髪や、目に当てられた片眼鏡、無理を強いながらも、心配そうに見ている眼差しを。
「あ、あだし…。ま、任せる…から…っ」
「…何を…?」
「『俺を』だよ…。全部任せるから、分からせて…くれ…。ほんとは俺だって、お前が…欲し…っ」
心ではとうに分かっている筈なのに、体はまだ化野に気を許していない。無理にでもいいから分からせてくれ、と、そうギンコは言っているのだろう。
「無理強いしていい、って言うのか?」
「そう…、だ…っ」
「……後悔、すんなよ…?」
化野の声は震えていた。それでも彼はギンコの体をうつ伏せにさせ、シャツをまくりあげて白い背中を愛撫する。唇を落とし、舌を這わせ、そうしながら手のひらでギンコの前を緩く握った。びく、と跳ねる体に罪悪感を感じながら、指を動かすのはやめない。下着ごと引き下ろして脱がせ、かすめるようにそこを弄った。
「あ…っ、ぁ…。ひぅ…っ…」
もっとも敏感な場所を、いきなりそんなふうに触れられ、強張っていた体がいっそう硬くなる。綺麗に目の揃った上等の畳に、ギンコは、がり、と爪を立てていた。無理やり引きずり出されるような快楽の中には、この男に触れられて喜ぶ感情が確かにあって、ギンコは懸命にそれを掴もうとしている。
温かくて優しい指先が、ギンコを欲しがる欲望で段々と熱くなっていく。躊躇しているくせに、愛撫はだんだん濃くなって、日頃の化野とは違う一面が零れ出てくるのだ。こんな時のこの男はいつもそうだ。それも想い故だと分かって、ギンコはいつも嬉しかった。
「あだしの…、あだし…の、ぉ…っ」
ガクガクと腰を揺すりながら、ギンコは今にも畳に放ちそうになる。こんな綺麗で豪華な部屋に、ふたり身を絡めた痕跡を残すのが嫌で、ギンコは無意識に化野の手をはがそうと足掻く。
「今更…っ、イきたくないとか、我が侭だぞ、お前…っ」
「ひっ、んぁ…ッ、んん…ぅ…」
強引に仰向けにされ、一瞬後には口に含まれていた。小刻みに吸われて、切れ切れの声を上げながら、ギンコは化野の脱いだ着物に歯を立てる。香の匂いが嫌で、鼻に皺を寄せて顔を顰め、それでもなんとかそのまま声を押し殺す。視野の端で、化野がゆっくりと精液を飲み下すのが見えていた。
羞恥で体が熱くなる。いや、羞恥だけではない。興奮と、この後の快楽を欲しがる欲に、肌が、息が、心が高ぶる。化野以外に、ギンコにこんな思いをさせる人間はいないのだ。
「続き、していいのか?」
「…も…、止まらねぇくせに、聞くな…っ」
「ま、そうだけどな」
そう言って、互いに笑った顔が心底嬉しかった。部屋の調度にも、贅沢な香にも、もう意識は向かない。化野と自分と、絡めた二つの体と、それだけだった。
続
余談だが、なんでかネット接続が一時間強もできなかった。もうっ、頼むからちゃんと繋がってくれよ!!と思ったけど、2話目アップがこんな深夜(早朝手前)なのは、接続の問題だけではなくて、うたた寝していたからである。スミマセン。サイトのカウンター見て嬉しいやらゴメンやら。やっぱ土日は「なんかあるかなー」と思って人が来てくれてるのかなー。ありがとうございますっ。
12/04/15
