仮居の衣 1
「…どうやら、尋常じゃ、ねぇようだ」
中の見えない高い塀の外で、ギンコがそう呟いたのは夕刻に差し掛かる頃。空に差す黄昏で、辺りはうっすらと紅色をしていたが、そうでなくとも空気まで淡い紅に染められてしまいそうだ。息が苦しいほどの、桜の香り。その香りにさえ蟲の気がたっぷりと滲んでいる。
急いだ方がいい。遠く遠くまで続く塀を見ながら、表門を探してギンコは足を速める。門を見つけるよりも先にじっと立っている人影を見つけ、ギンコはその門番に用件を告げた。この家のものが何か患っている筈だ、自分はそれを診に来た、と。だが…
「お前が? はっ、騙りなら、せめてもっとマシな身なりでくることだ。この門より内に、お前のような汚い輩を入れることなど出来ん」
「っ、おい…っ、そんな悠長な…ッ………」
言いかけて、やめた。向けられたのは蔑む目。その男の着ている着物でさえ、上等な布地、そして立派な紋が入っている。門番まで無駄に気位が高いらしい。経験で分かる。こういう相手には口で何を言っても、ただの時間の浪費にしかならない。
ギンコはすぐに背中を向けて、元の道を黙って戻った。背中に視線すら感じない。どうせ同じ人間とも思ってやしないのだ。でも、それだってこの家の誰かが、蟲患いで取り返しの付かぬようになる前に、出来ることだけでもしたかった。蟲師だからだ。それ以外の理由など一つもなくても。
角を曲がり、人目を避けて裏側の山の中へ分け入り、そこから件の庭へ近付く。桜の匂いは既に咽返るほどだ。どうやら裏の山と庭との境にまでは、柵を巡らせていないらしい。嫌になるほど豪奢な家屋も見えてきた。
なるべく音を立てぬように、ギンコはその庭へと足を踏み入れる。問題の樹は恐らく奥だろう。まだその姿は見えないが、内庭を囲う家屋の外を、ギンコはゆっくりと巡った。
そして
「…ぅ、お……」
思わず言葉を失う。建物の切れた場所から、内庭を見ている筈だが、視野いっぱいの薄紅に圧倒された。確かに、これは有り得ん光景だ、と。
降り頻る、花、花、無数の桜の花弁。花の散る様というより、これは視野さえ危うくさせる豪雪に近い。しばし立ち竦んで見続けて、気付いたらその庭に人が立っていた。
やばい、人がいる、隠れねぇと。岩陰に身を潜めようとして、ギンコはもう一度立ち竦んだのだ。
くすんだ臙脂色の着物をきちりと着て、うっすらと模様の入った袖で、降る花弁を払いながら、そこに立っている若い男。その男には、酷く見覚えが、ある。
「あだ…し…」
違う。似ているだけだ。だって、雰囲気が全然。それに、ここは化野の里から随分離れている。こんなところに、そんな身なりをして、いる筈がない。
後退り、踵を返そうとして片足が枝を踏んだ。ぱき、と、酷いほど大きな音が響いて、その男が彼の方を向く。驚いたように見開かれた目。みっともなく尻餅をついたギンコの方に、男は着物の裾を綺麗に捌きながら近付いて、何も言わずに膝をつき、片手を伸ばし…。
男が何か言う前に、家の中から声がした。
「ささぎり様、どちらにおいでですか、ささぎり様」
これはこの男を呼んでいる声だろう。ささぎり。あぁ、ほら、やっぱり化野じゃない。そっくりだけど、別人だ。どうしてか、そこでほっとしたギンコの腕に、その男の片手が掛かる。無意識に振り解こうとしたら、もう片方の腕も掴まれた。怒ったように顰めた顔が寄せられ、いきなり息が掛かるほどの距離に。
「ギ…」
「ささぎり様! 長々と離れて頂いては困ります。店の方へ、お早く戻って下さらないと」
「あぁ…今、行く」
ささぎりと呼ばれたその男は、呼びに現れたものとギンコと間を、遮るようにゆっくりと立ち上がる。
「さぁ! お早くっ」
「…煩いな。今、行くと言っているだろう。それとも、俺は俺の家の庭に立ち入ることも、自由に出来ないのか。いったい誰がこの家の主だ?」
低い声だが威厳があって、良く通る。探しに来た従者が、びくりと身を竦ませた。
「…も、申し訳…っ」
「いい。分かった、行く」
もう振り返りもせずに、その男は庭から去り、家の中へと消えていく。廊下へ一歩踏み入る前に、軽く首だけ振り向いたが、ギンコの方を見るでもなく、肩や頭に降りかかった花を、袖の布地でさらりと払った。
その姿が見えなくなってから、ギンコは花弁の降る前で、力を失ったようにがっくりと座り込んだ。なんの悪戯かと思う。嘘みたいに似た顔貌の男に、こんなところで出くわすとは。でも本当に、あれは違う。化野のはずが無い。従者を叱った冷たい声が、ギンコまでもを不快にさせていた。
あんな言い方、もしも化野ならするまい。もしも化野なら、誰かにそのように言えと言われても、もっと声に温みが篭るだろう。だから違う。…あぁ、でも、聞き間違いじゃなければ、さっき…。
あの男はギンコに近付いて、その腕を掴んで、彼の名を呼ぼうとしなかったか…?
「いいや、違う。そんなはずは」
意地になるように否定したがって、首をゆるゆると左右に振って、それからギンコはやっと気付いた。もう夕を過ぎて、随分と薄暗い。蟲のことを調べるなら今の内だ。この家の、少なくとも一人は蟲の気にあてられて弱っている筈。あの男が戻ってこないうちに調べて、原因を突きつけてやれば、身なりがどうだの言う気も失せるだろう。
すぐに調べて、蟲の仕業とさっさと突き止め、それを証拠付きでこの家の主に言えばいい。つまりはさっきの男に、言えばいいのだ。
そこまで考えて、ギンコは無意識に息を吐いた。なんだか、嫌だ。化野とそっくりな男が、こんな家の人間で、しかもあんな奴だなんて。早く、すべてを終わらせてしまおう。そして会いに行こう。あんな態度など、絶対にしない愛しい男に、会いに行って、今日のことは忘れよう。
ギンコはそう決心すると、庭の桜の老木の根方に、そろりそろりと身を寄せるのだった。
少し時間はかかったが、なんとか蟲の払い方の見当はついた。家の中から見つかるんじゃないかと、はらはらしながら庭で灯していた小さな灯りを消し、調べていた道具を急いで纏めると、ギンコはそこでそのまま朝を待つつもりで蹲る。
少しは寝ようと思ったが中々寝付けず、うっすらと目を開けば、桜は相変わらず花弁を降らせていて、宵闇の中でも美しかった。
綺麗だな…。
どうせなら、お前と見てぇよ。
あんな男とじゃなくて。
そんなことを思いながら、やっと少しまどろんで、ギンコが気付いたのは間近に見える灯りだった。あぁ、こんな明るく照らしてたら、家ん中から見えるって…。そう思った声が届いたように、灯りは急に小さく絞られた。
「おい」
「……っ!」
飛び起きようとして、いきなり地面に押さえ込まれる。両肩を掴んだ手が、ぎりぎりと指を食い込ませ、痛みに顰めたギンコの顔に、ゆっくりと顔が寄せられて…。
「やっ、め…ッ」
「し…っ、静かにしてくれ、俺だ」
「だ、だれっ」
「何言ってる、俺だよ」
「…んっ、んぅ…ぅ…っ」
唇が塞がれて、ギンコはもがいた。あの男だ。こんなの、いくら似ているからって、真っ平なのに。そう思いながらも、抗う手が鈍りそうで逆にきつく目を閉じる。姿さえ見なけりゃ、ただの知らねぇ男だ。それだったら見ない方が。
「離…ッ…せっ」
「…ギンコ」
「ぅ、ん…んん」
一瞬離れて、また噛み付くような口付け。口を開かせるように顎に指を食い込ませられて、舌まで入ってくる。その執拗な舌の動きに、激しい嫌悪…が…。いや…。
「ん、っふ…ぅう…。あぁ、あ、あだし…の……?」
「…やっと分かったか」
「わ、分かった。分かった、から」
庭先だと言うのに、シャツの下から胸へと手を這わせられていて、ギンコは今更のように狼狽した。脇腹をするすると撫でた指が、一瞬、敏感な場所をかすめ、別の意味で逃げたくなる。そんなことをしながらだというのに、化野は冷静そのものな顔で言う。
「寝起きするのに離れを与えられてるんだ。役割上、窓の少ない土蔵みたいな離れだから都合がいい。見つからんうちに、そこへ行こう」
説明するから、と化野は言った。それへ一も二もなく頷いて、その姿の影に隠すように庇われながら、ギンコは化野についていく。上等の絹の着物を纏っている彼の姿には、まだどうしても違和感がわいて、早鐘のように打ち続けている鼓動は、なかなか鎮まりそうになかった。
続
某様、無理を言ってリクエストしていただいたというのに、このテイタラクーっっっです。スイマセン、まったくテーマにそってませんし、短めに書くとか言ったのも、現状すでに無理な感じです。いや、体質なのだろうか。短文書けない体質。あぁ、不器用なのよ、そうなのよ。あぅぅぅ、ごめ…。
12/04/07
