物言わぬ宵  4〜6


4


「急ぐのだろうが、気を付けてな」

 縁側までわざわざ立ってきて、化野は俺を見送る。ついその夜半に知り合ったばかりだというのに、そう言うのはまるで友への言葉のようだ。おかしな男だと思いながら、同じ心の隅で確かに、悪い気がしなかったことも覚えている。

 奇妙なもんだ。「友」なんざ、なぁ。

 俺はお前が不思議だったよ。今まで友などと呼べる相手など、殆どいなかったから戸惑ってもいた。だからどんな顔をしたらいいか分からなかった。項垂れて靴の履き心地でも試すように、つま先で庭石を一度蹴り、じゃあな、と一言、俺は旅へと戻る。相変わらずの日常へ。

 ともかくも、譲り受けた薬を持っていかにゃあならん。「人」が飲むには一回分に足りなくとも、これを好む蟲に嗅がせてやるのだから充分足りる。そうしてその蟲を、憑かれた人間の体から外へ誘き出し、捕まえて山奥へでも離してやる。それで今度の仕事は終いだ。そう難しいこともない。

 首尾よくいったら、礼を言いにここへ戻るか。
 いや、空の手で戻るより、何か喜びそうなものを携えて?

 持ってゆくならどんなものが良かろうかと、俺はその時、幾らか浮かれた気分でいたんだろうか。浮かれ気分が災いしたのか、それとも運が悪かったのか、折角貰った薬は、結局要らぬものとなった。

 蟲払いを依頼してきた、とある里へと急ぎ戻った時、払うべき蟲は既に払われ…。

 否、払うというより、残らず殺いされて跡形もなかったのだ。後からやってきた「もっと腕のいい蟲師」とやらが、そんな薬など待つ必要はないとそう言って、辛い塩水を患者に大量に飲ませ、胃の中にいた蟲を根こそぎ消し去ったのだという。

 だからもう、その珍しい薬とやらは要らないと。
 わざわざ探しに行ってもらって、申し訳ないが。
 体も治ったし、要らぬものは要らぬのだ、と。
 戻って来たのが迷惑そうに、やや尖ってそう言われ。

「……そうかい、治ったんなら、そりゃ…よかったな」

 そんなら、要らねぇだろうよ、こんな薬。
 見えぬものに、蟲の命の在る無しは分からねぇ。
 できるものなら殺さずに済まそうと、
 そう思っていた俺の考えなんぞ、
 話したって、仕方がねぇ。意味もねぇよな。

 俺は右の手に、蟲を捕えようと思っていたカラの瓶を、逆の手に、化野から譲り受けた薬の袋を持って、そのままくるりと踵を返す。次にどこへ行く予定もなかったし、ただで貰ったもんを使わなかったのだから、返しに行くのが道理だと思った。

 こういうことはよくあるのにな。
 縋りたいような、心地がしたんだ。
 何に? 分かってくれる誰かに。

 山を二つ越え、谷に出て、川に沿って下って海里へと出る。思えば随分と歩き通しで、一晩どこかに足を止めたがよかったのかもしれない。化野の家を出て、またこうして化野の家に向かう間、ほぼ丸一日を休まず歩いて、疲れたと思いながら足を止める気になれない。

 なんだろうなぁ、こりゃ。
 何か急がにゃならん理由でもあるような。
 あぁ、だけどこの感覚は何かに似ている。
 喉が渇いて渇いて、泉のある場所を目指して、
 一心不乱に歩いている時と、どこか似て…。

 そうして丸一日と数時間、歩き通してお前のとこへ戻った時、庭でなにやら土を弄っていたお前が、びっくりしたように目を丸くしたことも、やっぱりよく覚えているんだよ。

「ギ、ギンコ…?!」

 そんなに驚いてくれんなよ。
 やっぱり変な人だな、あんた。
 だって、向こうではあんなに…
 あんなに迷惑そうにされたってのに。
 なんであんたはそんなに驚いて、
 嬉しそうにしているんだか。

 そんなふうに思った俺の気持ちなんか、勿論知らずにお前は笑む。それとも知ってたか? お前は不思議な奴だしな。

「もう、用事は済んだのか?」

 化野はそう言った。ならゆっくりして行けるのか、と、そう言いたげな顔に見えた。それから俺の顔色でも窺うように、よく、随分とよく俺の姿を見て、何かに気付いたような目をして、笑みを少し薄れさせた。

「とにかく…休むといい。茶を入れよう。あぁ、すまんな、今、薬草の苗を植えていてな、手がこんななんだよ、土まみれで…。それとも…支えた方がよさそうか…?」
「…? 何の話だ?」
「いや、平気ならいいんだ。ちょっと、疲れているんじゃないかと思っただけでな」

 医家の癖だとでも思ってくれていい、と、そう言って化野は笑っているのだ。疲れているのを見抜かれたのだと、茶を入れる背を見ながらやっと気付いた。熱過ぎず温過ぎない茶が出され、一口飲んで、染みるように感じている俺に、化野は少しばかり強い目をして言った。なるほど、医家の顔というわけか。

「一晩なりと、泊まって行くだろうな?」
「…宿へ泊まる金はねぇんだが。勿論、食うもんやなんかに支払う金も」
「滋養の薬を処方されようと、当然その代金も払えない」
「そりゃ…そうだ」

 化野はにっこりと笑った。随分くるくる表情が変わる。さら、と着物の裾をさばいて立ち上がり、薬棚と思しき抽斗を一つ開き、薬を取り出して、それからさっきの茶に水を足してさらに温くする。開いて差し出した薬包紙の中身は、勿論滋養の薬だろう。受け取りかねてまじまじと見ていれば、化野は悪戯をする子供のような顔をしてこう言った。

「さて…。時に、お前さん、ふところに珍しい薬を持っているだろう。千輪漢湯という煎薬で、漢の国から渡ってきたという随分と高価な薬だそうな。前々から欲しいと思っていたので、良ければそれを俺に売ってはくれまいか」
「………」

 敵わねぇ、と、そう思った。

 唖然とするほど見抜かれている。まるで見ていたように、いろんな事を。勿論見ていた筈はないし、どんな生業かも告げてやしないのだから、分かるはずが無いというのにだ。

 本当におかしな男だ。こんな奴には今まで出会ったことがない。今言うのも妙だけどな、と、一つ前置きしてから俺はやっと自分のことを告げた。

「実は俺は蟲師という生業でな。普通、見えねぇもんを見て、そいつらと付き合いながら細々と食い繋いでるんだ」

 差し出された薬を飲むと、少々苦味が口に残る。表情で知ったか、それとも苦い薬だと分かっているからか、化野がすぐにもう一杯の茶を差し出してくれる。俺はそれを受け取る前に呟いた。

「そういうの、気味悪くねぇか、あんた」
「…だって、見えないものなんだろう? なら、いつかそれを見ることができたら、その時、気味悪く思うかどうか返事をするというのでは?」
「え、いや…」

 驚いちまったよ、あん時は。
 そう来るとは思わなかったんだ。
 お前はほんとに、人を驚かすのが上手い。

「俺が気味悪くねぇかって、聞いたつもりだったんだが」
「あぁ、そういう話か。ならば本音で言うが」

 やっぱり気味が悪いとか、そんなことを言われる気は、既にこれっぽっちもしなかった。でもそう来るとも思わなかったよ。この家は案外、心臓に悪い。というよりも、お前のすることや言うことが、俺の心臓によくねぇようだ。

 今はこんなに居心地がいいけどな、良過ぎてその事に突然思い至って、困り果てるような気がするくらいだ。

「夜と早朝もよかったが、昼の日差しの下で見ても、やっぱり綺麗だと思ってるよ」

 お前と最初に会ってから丸二日の間に、何度「綺麗だ」と言われただろう。でも、そう言や最近は言われてねぇかな。別に言われたいわけじゃない。実際、落ち着かねぇ気分になるし、返事に困るに決まっているしな。

 あぁ、要するに、もう見慣れちまったってことか? 見慣れすぎて、そんじょそこらの普通の男と同じか。俺はただのお前の友の一人か。別に価値はねぇか。

 そもそも友人同士で価値がどうとか、そんなことを、いつまでも考えてる俺がおかしいんだろうな。なんだかなぁ、俺は贅沢になったんだろうか。贅沢になって、もっと何かを欲しがっているんだろうか。

 唐突にそう思って、自分でその意味を図れないで、いろいろと思い出すのを止めた。

 この家は好きだ。気が安らぐから。
 お前がいつも俺を歓迎してくれて、
 なんの心配もせずによくて、
 ごろごろと、うたた寝なんぞさせてくれて、
 
 あぁ、ふわりと背に何かが掛けられる。肌が寒がっていたことを、それでやっと意識する。まどろみながら体を丸めて、俺は猫になったようにまた眠りに落ちていく。

 なぁ、化野、教えてくれよ。
 俺は貰うばっかりで、
 何かをお前にやりたくて、
 自分がいったい何を持っているのかと、
 今更のように思ってるよ。

 欲しいもんはねぇか?
 やれるもんなら何でもやるから、
 言ってくれよな、
 そのうちに。


 



5

 最初にここを訪ねて来たときから、お前は随分綺麗だったよ。あの夜は月夜で、暗い蔵ん中にいたお前の髪には、月の明かりが弾けてなぁ。息をするのも忘れるほど、本当に驚くほど美しかった。緑の目だって綺麗で、暫し夢に見るほどだったんだ。

 それでも、そういうつもりはなかったさ。断じてなかった、誓ってもいい。なのに、いったいいつからだろうな、気付けば俺はお前を、そんなふうに見ていたんだよ。

 風呂を使わせて着物を着させて、慣れぬ着方のその襟元も。傍らで眠るお前の、静かで規則的な息遣いも。ふと吹いて来た風に揺れた髪が、お前自身の首筋に触れていたって、別段、なんとも思ってやしなかったのにな。

 あの日さえなかったら、今でも気付かずいただろうか。



「あがったか、ギンコ。先にやってるよ、とっときの酒だ」

 化野はそう言って、酒の満たされた徳利をひょいと掲げて見せた。ギンコは風呂からあがったばかりで、化野の用意しておいた着物を纏っていたのだ。

「この間、裏山で見事な桜が咲いてなぁ。皆で集まって飲んだのだが、この酒が少し余ってたんで。ギンコが来たら飲ませたいからと言って、こっそりよけといて貰ったんだ」
「…なんだ、余所者の俺なんかにそこまで」

 ギンコは猪口を差し出して、化野はそれへ徳利を傾けていたのだが、困ったようにそう言いながら、ほんの僅か、猪口を持ったギンコの手が揺れた。当然の如く、酒は幾らか零れた。あぐらをかいていたギンコの着物の裾が少し濡れ、ギンコの足首にも雫がかかった。

「おっと」

 条件反射のように、ギンコは酒のかかった足を軽くずらす。着物の裾が捲れて、ギンコの大腿がちらりと化野の視野に入った。それは本当に、ほんの一瞬のことだ。白い肌の上に赤い跡が、ひとつ、ふたつ…。

「……」

 見ない振りが出来ればよかった。そうでなければ、ぶつけた跡か、とでも、無理にこじつけて言えばよかった。一瞬見えたそのままで、視線を逸らせず固まって、ギンコが言うまで、化野は動くことも出来なかった。

「あぁ…。見ちまったか? 変なもん見せて…悪いね、先生」

 先生、と、他人行儀なことを言い出す前に、よく口にするギンコの癖。化野の嫌いなその癖が、確かに聞こえた筈なのに、耳に入っていなかった。

「変な、…って」
「…お前と最初にここで会った時にさ、俺、お前を誘ったろ?」

 何の話だ、と化野は思っていた。でも、そう思う傍から鮮明に思い出せていた。

 そうだ、あの時、蔵で、
 ギンコはシャツのボタンを一つ外し、
 二つ目も外し、
 薬の代金の話をしてたっけ。
 暗い方がいいような話も、
 確かにあの時、していたっけ。

 でも、それが?
 今の跡と何の関係があるんだ?

 黙り込んでしまった化野の目を、ギンコはそっと覗き込む。そうして少し不安そうにして、言い掛けていた言葉を畳んで、喉の奥に仕舞い込んだ。

「…いや、まぁ…。酒、まだあるか? 化野」
「あぁ、あるよ」

 何事もなかったように、化野は酒を飲んだ。何事もなかったように、別の酒も取り出してきて、さらに飲んだ。随分飲んで、飲み過ぎたかもしれない。そう、何事もなかったように…だ。

 その夜は、眠れやしなかったっけ、なぁ…。
 無理もないよ。分かっちまったんだ、己の想いが。
 今まで知らないできた「欲」というもんがさ。

 初めてだったよ、翌朝、お前が旅支度しているのを見て、俺は心から安堵したんだ。傍に居るのが居た堪れなくて、お前の事が見れなくてな。それでも…じゃあな、と言ったお前の背中に、いつも通りを装ったんだ。

 気ぃつけていけよ。待ってるから。




「化野」

 縁側から家の中を覗いて、俺は化野の姿を探してた。あっちこっち開け放って、風を入れているふうな明るいこの家に、こうして立ち寄るのは、夏を越えて秋も半ばを過ぎた二季節ぶりのことだよ。

 出掛けているんだろうか。往診だろうか。浜にでもいるだろうか。それとも薬草を集めに、裏の山へでも入っているんだろうか。

 土間の外に、いつも置かれていた籠がないから、山かも知れない。今の時間なら、漁師が魚を干す頃合だから、浜にいるかもしれない。じゃあ探しに行こうか、上がって待とうか。そう思いながら足は動かねぇ。

 前に来た時のことを思い出しちまう。あの時の化野の姿が、ついさっき見たもののように、随分はっきり思い浮かぶ。止まってしまったあの目の中には何があったのか、俺は見てない。見ないようにしたんだ。

 さすがに、怖い、と思ってな。

 とうに分かってると思っていたのに、お前は俺の事をそんなにも知らなかったのか。汚れて縒れてるこんな俺を、案外綺麗だと、もしかして思っていたのか? なのに俺は気付いてねぇで、きたねぇところを曝け出してちまった、のかよ? 

 お前がもしも今日、俺に来られて迷惑そうなら、金輪際来やしねぇから、安心しなよ。

 そうだとしたら、これがほんとに最後の最後。見ておくかな、もっとよく。勝手に上がられるのも嫌だろうが、なんとか勘弁して貰ってな。

 靴を脱いで、縁側に片足上げた俺の背に、聞こえて来たんだ、お前の声が…。

「ギンコ…っ、来たのか…!」

 あぁ、嬉しいな。参っちまう。
 耳を通ったその声は、
 いつも通りに聞こえはするが、
 それはお前が、優しいからかい?

「来たさ、ちょいと久々だがな、先生」

 振り向いた視野に、籠に摘んだ薬草を山にした化野の姿。眩しい太陽を背にしててさ、俺は目が潰れちまうような気がしたよ。

「また…! 先生は止せと言っただろう、他人行儀なっ。それとも今日は医家の俺に会いに来たのか? お前、どこか具合でも悪いのか?」

 覗き込むその目の、曇りの無さがいっそう嬉しい。

 俺からなんか欲しいもんがねぇのか、なんて、そんな戯言、もう言わねぇよ。どうせ、そんないいものなんか持ってない。この身ひとつっきゃ持ってねぇ俺の、その一つきりに、そんなに興味がねぇならさ。

 その夜の積もる話は山ほどあった。酒なぞなくとも喋り続けて、疲れてたのも忘れてて、ゆらゆらと舟を漕ぐほどになった俺を、化野はそうっと抱えるようにして、伸べた寝床へ連れてってくれた。

「うぅ、悪ぃ…な」
「…そうしがみ付くな。こら、歩き難い」
「あぁー、うん、ありがとよ…」

 眠りに落ちるその前に、縁側に腰を下ろし、まるで俺みたいに背を丸めて、化野がぽつんと座っているのが見えていた。

 寝ねぇのか? と、そう思った。なんだか、おかしな後姿だ、と、意味も分からずに思いながら、俺は眠りに落ちてった。



 続

 
6

 ギンコは友だ。最初に会ったあの夜から、知らぬ間に俺はそうと振舞っていた。

 人の好意に甘えることや、その場にいる誰かを頼ること。どんなに些細なことであっても、ギンコはそれらを自分に許しては居なかった。

 何かを求める時も、願いを聞き届けて貰う時も、何らかの代償を支払う準備がしてあって、相手がそうと望む前に、窺う顔でそれを差し出す。余剰を持たぬ旅暮らし、差し出せるものと言えば、情報か、僅かばかりの金か、もしくは…体…。
 
 ギリ、と奥歯で音が鳴った。握り込む指の先が、手のひらに食い込んで痛かった。あれからもう五日を過ぎる。なのに化野はまだ囚われていた。

 眠れぬ夜を、己自身の執着に責め苛まれ、その想いを打ち消そうとし、そうする傍から心の奥で、奇妙な誘惑がふつふつと湧いて来る。

 何を気にすることがある?
 最初に誘ったのは向こうじゃないか。
 だからこそ、そんな目で見たのだ。
 何を気に病むことがある?
 次は、手を伸ばしてみればいい。

 口の中に血の味がした。眩暈がした。枕元の行灯を引き寄せて、小さく灯りを灯してみれば、その橙の灯りの揺らぎが、己の欲に見えた。

 …違う。違う。あいつは友だ。

 好意に甘えぬその姿を、好ましいとあの時思った。だからこそ笑って見せ、高価な薬を差し出した。だからこそ、そのあと戻った彼を、喜んで招き入れた。意外そうな顔を見るごとに、随分嬉しかったのを覚えてる。

 気の置けない友人として、お前の中にありたかったのだ。それ以外の理由など無い。欠片も無かった。

 …あの時は、まだ。

 今は…?
 見るがいい。この胸の内を。
 ここで渦巻く欲を。熱を。

 そして、気付けばもう夜明け。

 そんなふうにして、ろくに眠れぬ日々を繰り返し、六日目には熱が出た。風邪っぴきの患者を数人診たから、それを移されたせいもあろう。でもそれだけじゃなく、高熱でも出なければ眠れることも出来ないと、己が体で分かったからだったろう。

 代わる代わる訪れる里の民たちの、心配そうな顔を見続けて、寝込んだ二日目には熱が引いた。それと同時に覚悟が出来た。 

 お前は友だ。これからも変わらず、ずっと友だ。そうと決めた。出来ぬことではない。出来なければ失うのだ。何より辛いのは堪える事ではなく、喪失すること、なのだから。

 それからの数月は、決意を固めるのに役立った。ギンコは中々訪れない。ひと月がすぎ、ふた月が過ぎ、季節を丸々二つ越えたのち、やっと己の庭に待ち焦がれていた背なを見た。嬉しくて…。

 あぁ、その刹那、心の底の奥底で、何かが零れかけたのを、知らぬ振りして笑っていたのだ。お前がどこか嬉しそうだったから、そのことばかり思おうとしていたよ。

 これでいい。
 こうしていけばいいのだ。
 狂った熱などそのうち消える。
 無かったことにしていける。

 

  
 りーーー、と、一つきり、虫の聲がした。同時に軒で風鈴がなった。今年の虫は、随分とせっかちだ。熱気の引かぬこの夜半に、秋風をでも呼び寄せようとでも言うのだろうか。それにしてもまだまだ早い。

 化野は耳を虫と風鈴の音に貸して、視線は畳の縁を見ていた。

 風鈴が一つなるごと、手前へ、奥へと視線でなぞる。月夜の淡い光で、辛うじて見える縁取り模様。暑さのせいか元気のない聲で、虫が漸く、またひとつ鳴く。それを合図に、化野の視線がギンコへと揺らぐ。

 寝苦しそうだな。
 少し厚めの丹前を掛けたせいだろう。
 許せよ、代りに俺が、
 こうしていてやるから。

 化野はうちわでギンコの顔のあたりを扇いでいる。細い白色の髪が扇がれて揺れていた。

「寝、ねぇ…のか…?」
「………」

 案じずとも、ぽつりと零れたその声は寝言。うちわで扇いでくれるまま、一向に寝る様子のない化野に気付いて、声を掛けたものではない。

 りーーー、と、また虫の聲が響く。いつしか化野は、ずっと視線を逸らせないで見つめている。丹前を邪魔臭そうに胸の辺りで握って引く、ギンコの白い手、白い爪。ふと近付いて、丹前の布地に引っかかった指を解いてやった。

 息は飲まぬ。もう、こんなふうに堪え忍ぶようになってから久しい。覚悟をしてから、指や腕、肩などに触れるのなら、案外平気だ。触れたその腕を掴み、そのまま何かしてしまうような、恐ろしい衝動は無い。

 それでもそうして触れた後は、意識して視線を逸らして離れる。縁側に出て、少しは流れている風を浴び、柱に半身寄り掛けて、暫ししてから右手にうちわの無いのに気付く。ギンコの胸の上に、それは放り出されてあった。

 は…
 何が「平気」だ。
 愚かしい。

 歪んだ笑みを一つ。化野は草履を突っかけて、庭へと下りた。そのまま庭を横切って垣根を越えた。そこらにいた虫は、さぞや驚いたことだろう。脛のあたりを枝で掻いて、掻いたその傷がじわりと熱を帯びる。その分、要らぬ熱が引けるのではないかと、祈るように足を速めた。

 足を止めたのは人影の無い浜。潮の香りをかいで、途切れない波音を聞いて、落ち着いたら戻ろうと思った。だけれど現実は時々残酷だ。戻ろうとした彼から少し離れて、いつの間にかギンコがそこに立っていたのだった。




 仮に万人と比べれば、多分自分は「聡い」方だと思う。

 気付かねばいい筈のことにも、ふと目が止まってしまうことがある。それをあえて見なかったことにして、記憶の底へ沈めて隠すのも、滞りなく生きる為の手段の一つだったし、常なら自分が「そう」したことにも気付かない。

 でも、お前は俺にとって、特別な相手だから。沈めた筈のことが、切っ掛け一つで浮いてきて、時々酷く難儀するんだ。

 知りたいと思う。止しておけと思う。迷ってついに眠れなくなる。そうやってお前が眠らずに、俺の傍らにただただいるのは、どうしてなんだろうな、まさかいつもそうしてるわけじゃないだろう? 聞いたら困るか? なぁ、化野。

 こんな夜更けに、お前がどこへ言ったか知らないけど、蒸し蒸しとこうも暑い夜だから、海辺に行くのは気持ちがいいように思ったんだ。たとえそこにお前がそこに居たって、何を問うつもりもなかった。

 一緒に涼しい風を浴びて、気持ちいいな、と笑えれば、それでいいと思っていただけだったんだよ。