物言わぬ宵 7〜9
7
「どうした。ギンコ、目が覚めてしまったか」
ちらとだけギンコを見て、化野はまた波へと視線を戻した。ざざ、ざざ、寄せて引く波音の、荒く細かな連なりが涼しさを超えて少し肌寒いほどだった。波打ち際に立つ化野の、草履の足先には、今にも波が届きそうだ。
「何だか寝苦しかったんだが、さすがに浜は涼しいな」
そう言ったギンコの足元は、縁側の下に引っ込めてあった、化野の古びた下駄である。借りた夜寝のための着物に、靴を履くのも妙だと思ったから。
「お前は?」
なんで、寝ねぇんだ? と、ギンコは皆まで言わずに言葉を止めたが、それでも化野がこの問いに答えることは、それほど難しくもない筈だった。確かなわけなど無くとも、なんとなく眠くないのだとでも言えば、それ以上追い掛けて聞かれるほどのことはないだろう。
なのに、歯切れ悪く言葉を戸惑わせて、化野は足元の濡れた砂を蹴るのだ。
「さて、なぁ、なんでだか、俺にもよく…」
誰にも見られないように、この浜に来て、誰もいないこの場所で、内心を洗い浚い吐露するような、正直な目をしていたであろう自分。たった今もどんな顔をしているのだか、想像するのも怖い気がして、到底振り向けずに化野は潮風を浴びている。
この強い浜風には、ギンコの夜着の裾もひらりひらり揺らいでいるだろう。白い足首は無論のこと、無駄な肉のない脹脛までが、ちらちらと見えているのだろう。
ギンコ、お前は勿論、俺とこうして知り合う前も後も、同じ暮らしをしているのだろうな。旅から旅へと、日々を繋げるように暮らして、必要があれば己が身すらも、何かを得るための対価の一つとするのだろうよ。そして、あぁ、そして…
ただ物珍しいからだとか、
興味本位だとか性欲の放出だとか、
そんな下卑た理由の一つ二つで、
誰かがこのお前のその素肌を、
貪って、いるのだ…!
思いに沈む化野の耳に、どこか驚いたようなギンコの声がした。
「化野、お前、波が…足に…」
「え…」
平静を装うための言葉少なも、けして振り返らずに波ばかりを眺めていたその所作も、すべて意味の無いことに終わってしまう。草履を履いたままの足元が、もう何度も繰り返し波に浸されていた。
「…っ、あ…ッ」
慌てて後ろへ下がろうとして、すぐ傍に突き出た石に、草履の踵がぶつかる。そのまま濡れた砂に尻餅を付き、当然そこへと次の波が来るのだ。ざざ、と、寄せてから引いていくその潮が、化野の着物の裾を黒く濡らしていく。
「あだし…。いったい…何を」
馬鹿だな、と。
笑っておけばよかった。そうだ、化野も、そしてギンコもまた。寝惚けているのか、とか、ぼんやりしていたのだとか、どうとでも言いようはあるのに。そのどれも互いに言葉には出来なかった。化野にはずっと前から、隠していることがあるからだ。ギンコにはずっと前から、聞きたくても聞けずにいたことがあるから。
短くて長い長い静けさは、二人の心の中にだけ。現実では風の音も波の音も煩いほど、二人にとってだけ、ここは苦しいほどに静かで、喘ぐように先に何かを言ったのは、ギンコの方だった。
「もし…俺に言いてぇことがあるんなら。それを言えねぇで度々難儀しているんなら、俺になんざ、別にそんな気遣いはいらねぇよ…」
「……ギン…。何、言っ…」
「生憎俺は、今のままの自分の生き方が変えられねぇんだ。あんたにゃ言えねぇで来たことだって、ひとつふたつなんてもんじゃあねぇしなぁ。ちぃと誤魔化して紛いもんを遣り取りするんだって、この身ぃひとつ一晩幾らで売るんだって、今までに何回も。これからだって…無論…」
違う…。
と、化野は思っていたのだ。違う、そうじゃない。それじゃあまるで俺が、そういうお前のことを毛嫌いしてるみたいじゃないか。本当は訪ねてこられて迷惑なのを、言えずに堪えてきたみたいじゃないか。そうじゃないんだ。違うんだよ。
化野は足を波に浸されながら、立ち上がることも思い出せずに喘いでいた。まるで、息の仕方を忘れてしまったみたいだ。なんでこんなに、苦しいんだ? なんでこんなに、言葉が出てこない…?
化野がそうやって喘いでいるのに、ギンコはなんだか笑ってた。白っぽい色の、化野が貸してくれた着物の布地を、何か意味のあることみたいに手のひらで撫でて、吹く風に白い髪を乱し、それが随分気持ちいいみたいな顔をして、笑っていた。
「あん時、あんた、言っただろう。俺がこっちの目の洞を何の気なしに見せた時にさ。…そのままの言葉を覚えているわけじゃねぇが、それでもよく覚えてるんだ。あんたは俺に、自分を大事にしろ、って、そういう意味の事を言ってくれたよ」
でも、とギンコは言葉を続けようとした。
「でも、生きてくためにゃ、そうもしてられなくてな。だからさ、俺は自分のこの…」
ひょい、とおどけた顔をして眉を上げ、唐突にギンコは言葉を切り、それから言った。
「あぁ、駄目だな。結局こんなのは言い訳だ。あんたの『友』でいるにはさ、そんなのはきっとよくねぇんだろう、って。ほんとはあんたの許す範囲を随分超えてんだろう、って、ここんとこ薄々、気付いてたよ」
なのに、はっきり言われねぇのをいいことに、気付かねぇ振りして今日まで来たんだ。何度も何度も「友」の顔して甘えて来たんだ。自分でも自分を誤魔化してきた。化野は優しい男だから、そんな程度のこと気にしないだろうと。でも違ってたんだな。
そうとも、お前は優しい男だから、気になっていてもずっと堪えててくれたんだ。
ざ、と音立ててギンコは波打ち際に近付いた。近付くだけでなくそこを超えて、化野と少し離れて並ぶところまできて、下駄を履いた足を波に浸した。
「気持ちいいなぁ、この海は」
お前のいる里の海だ。当然だよ。
「風もいい、潮の匂いも」
お前の浴びる同じ風。お前の嗅ぐ潮の匂いだ。
「……朝まで待たねぇ。…すぐ発つよ、化野」
そう言って、躊躇いながら手を差し出し、座り込んだままの化野に近付いて、ギンコは身を屈め…
「…っ!」
ギンコはいきなり砂に膝を付いていた。間が悪く波が来て、足どころか弾けた飛沫を、肩にも頭にも僅かに浴びた。
下駄の鼻緒が切れたからだ。もともと痛んだ下駄で、鼻緒を挿げ替えずにいたから、使わずに縁側の下に置かれていたなどと、勿論ギンコは知らない。化野もすっかり忘れ去っていた。
「は、はは…っ、参ったな」
笑い掛けて、それでもギンコは化野の腕を掴み、引き寄せ立ち上がらせようと力を込める。
「待て、ギンコっ」
その時、やっとはっきり見えたのだ。月明かりに白いギンコの着物の、その膝を覆うあたりに染みて、すぐにも波に洗われて薄れる異質な色。…紅く。
「お前、怪我を! 貝で切ったんだっ」
つい少し前まで声も出なかったのに。立ち上がることも出来なかったのに、それが嘘のようだ。化野はしっかりと立ち、ギンコに肩を貸して波の届かぬ場所まで彼を連れて行き、白い着物の裾を捲り上げて傷を見た。
ざっくりと深く、膝頭の内側を裂いた傷。そこら中に落ちていた貝の欠片のせいだとすぐに分かった。ギンコの膝も、その裂けた傷の中までもが砂にまみれ、さらにそこへ、宵闇に赤黒く見える血が溢れ出している。ギンコはさっきまで感じてもいなかった痛みを、やっとはっきりと感じた。
「…って、ぇ…」
「当たり前だ。こんなに深くっ」
化野は自分の着物を裂いて、ギンコの膝より上を縛り、手で出来得る限り砂を取り払って、それから傷が神経に達していないか確かめると、彼は言ったのだ。淡々と、むしろ感情などどこかへいってしまったような声をして。
「動くな」
「あ、あぁ…わか…っ」
分かった、と、そう言ったはずなのに、とギンコの膝は震えた。視線のみをあげてそれを咎め、化野は同じ動作を繰り返す。ギンコの膝の傷に唇を被せ、裂けた内側にまで入り込んだ砂を、舌で…。
ギンコは何度も震えたが、化野はそれをやめようとはしなかった。月夜でも、当然昼間のように明るくなど無い。目視で砂や汚れを確かめられず、頼れるのは感触だけ。舌で触れて傷をなぞる。砂のざらつきがなくなるまで、幾度でも。
血止めで縛ってもいるから、出血もやがては少なくなり、傷を清めようとする化野の気も済んで…。
ふと彼が顔を上げた時、ギンコは呆けたような顔をして化野を見ていた。けれど本当は、彼は呆けていたのではない。酔っていたのだ。化野の唇が、舌が、肌に触れているという、そのことに。
波音が、また変に静かに思えた。潮風の一つたりと感じてはいなかった。それはきっと、二人ともがそうだったのだ。
そして化野は今一度、ギンコの肌に唇を落とす。傷から逸れて、そのもう少し内、もう少し上へ。血が出てもいないし、裂けてもいない場所へと、軽く開いた唇で触れ、なにやら随分と熱を持った白い肌に、ほんの僅かに舌先を。
ぶる、とギンコは震えた。さっきまでの「治療」とそれとが、根本的に違っていることを、心のどこかでは確かに気付いた。違うのだ、と、いっそ、そう告げてしまいたい想いが、化野の中から零れて落ちていたのかもしれなかった。
「…これだと、すぐは発たせられんな」
「いいのか…?」
「何が?」
「…嫌じゃないのか、この上、俺が」
「だから何がだ。俺のためにこんな怪我をした大事な『友』を、そのまま旅に発たすような薄情な医家だとも、狭量な人間だとも思って欲しくはないものだ」
改めて肩を貸されて、随分速い鼓動が耳まで聞こえていた。それを自分だけの鼓動だとギンコは思い、化野もまた、それを自分の胸の音だと思っていたのだ。否、互いにそう思うとしていた。そして別のことも思っている。
『 友 』
それがなんという温かな響きで、
なんという切ない響きであることかと。
続
8
下駄をすげた鼻緒代わりの切れ端は、少しばかり頼りなかった。今にもまた切れてしまいそうで、ギンコはどうしても化野に縋ってしまう。化野はギンコに肩を貸し、その背に腕を回して、足元の暗さを気にしながら、一歩一歩を大事に、家までの坂を登っていた。
すまんな…
錯覚のようにか細く聞こえてくる、化野の声。
何が…? そんなふうに聞き返せもせずに、その意味が語られるのを、じっと待っているギンコ。一歩一歩を震えて、それでも何とか歩きながら、少し後にまた同じ言葉を聞く。
すまんな…
何がだよ。頼むから言ってくれ。恐くてどうしようもない。お前の心が知りたくて。知るのが恐くて、息が止まりそうなんだよ。どうか…。どうか…。
けれども貸されている肩は温かい。背中に回された腕には、どんな迷いもないように思えた。後悔とか、嫌悪とか、仕方なさとか、そんなのの一欠けらも感じない。
これはただの、都合のいい俺の解釈か? 怪我をした俺を、あんなに必死になって案じてくれたお前。見たこともないほど焦って、怒ったような顔もして。それから、そこで出来得る限りの手当てをしてくれて。
でも、お前は何故、あんなことをしたのだろう。傷などないところに最後に…。
なぁ、あれは…まじないか? 痛いのをどっかに飛ばすとか、そんな子供相手の言葉があるんじゃなかったか。それとも…あぁ、それとも、うっかり俺があの瞬間に思ったように、もしかしたら。もしかしたら…
すまんな…ぁ…。
そうやってまた、何度目かに謝るお前。謝らなきゃならないことなんて、ひとっつも覚えがなくて困るから、もう、言うのをやめるか、いっそ理由を言ってくれ。「友」だとか、あぁは言ったが、本当は俺がつくづく嫌なのだとか、早々に去って欲しいからとか、これで終いにしてほしいとか、理由を早く。
でもなぁ、なんだかおかしいんだよ。俺の好いた化野は、そんなにいい加減か。そんなにちっぽけか、自分勝手か、冷たい男か…? いいや、違うよ。そんな男じゃねぇよ。
気味の悪い、この左目の洞を、
あんなに、あんなにいたわってくれたのは、
後にも、先にもお前だけ。
ギンコは顔を上げ、突然ぴたりとそこへ足を止めた。化野が進もうとしても、意地になったようにそれへ逆らい、困り果てて間近でギンコの目を見た彼に、聞いたのだ。聞きたいことを、正直に。
「…詫びてんのは、何でだ?」
「ギ、ギンコ…」
聞くな、と、声の無い声で言うのが分かる。視線を逸らされる。目を合わせていると本当に近くて、逸らされてもまだ近い化野の眼差しが、困ったように足元へ落ちて、そのまま瞼は固く閉ざされる。
急いで真水で傷を洗わなきゃならないのに、そして化膿止めの治療をしなきゃならないのに、こんなところで足を止めて、口篭っていていい訳がないと、焦る気持ちが手に取るようだ。
「俺に二度と来てほしくないからか…?」
「違う…っ。う、嘘を…」
化野がやっとそう言った。促す意味でギンコは黙っていた。
「嘘を、ついたからだ。だからだよ…」
「…言ってる意味が分かんねぇ」
「ギンコ、今はそんな話してる場合じゃない。破傷風にでもなったらどうするんだ。とにかく早く家へ行って…っ。ちゃんと手当てを。俺にこれ以上、お前を粗末にさせないでくれ。今度こそ、お前を大事にさせてくれよ」
あんたは俺に、
自分を大事にしろ、って、
そういう意味の、ことを…。
思い出しながら、なんだか不思議だった。だって、あんまり可笑しいだろう?
お前は俺なんかのことを、こんなにも大事にしてくれてるだろ。俺を粗末にしているのは俺自身だ。粗食に野宿に無茶な仕事振り。時には何日も眠らず歩き、必要とあれば己の身すら、どこの誰とも知らぬ相手に切り売りする。
本当を言えば、身売りなんざしたくない。なけなしの自尊心が、たった一晩でズタズタになるから。やむを得ぬと判断したからと言って、心を許せない相手に体を差し出すのが、嬉しいはずも楽しいはずもない。
ズタズタになった己の中の何かを、翌朝には掻き集めてなんとか繋いで、格好だけは整えて、仕方ないことだったと、割り切れたふりをするんだ。そのたびに自分が、取れない汚れで濁っていく気がして、心底嫌で、でもまた必要があれば、きっと同じ事をするだろう。
ほらな、俺が俺自身をこんなに粗末に扱ってるんだ。それに比べたらお前は優しくて…。
「頼むから…ギンコ…。歩いてくれよ」
思いに沈むギンコにそう言って、化野が先へ歩くよう、また彼を促した。やっと歩き出しながら、ギンコは顔を上げて月を見る。
「………」
あの日のような月だと思った。蔵の小さな窓の外、遠くを横切っていった、あの、月。化野が自分を見ていた目。その時自分が言った言葉。しようとしたこと。その時の化野のこと。
代金のことだが。
足りるのなら、持っていけばいいよ。
優しい男だと、そう思った。その笑った顔が心に染みた。この男は俺の体を買おうなどと考えない。快楽の道具になんか、勿論、使おうとしやしない。そんじょそこらの下種な男とは違うのだ。眩しいほど真っ直ぐな、そんな男だ。
眩しくてきれいで立派なお前。俺の「友」にまでなってくれたお前。勿論「友」を欲の混じった目でみたり、そんなことはしない、お前。
ギンコは化野を見た。口を引き結んだままの化野の声が、心に直に響いてきそうで、勿論、本当には何も聞こえなかった。聞こえない、見えないところで、化野はギンコに詫び続けている。罪悪感に胸を刺されて、泣きたい気持ちで思っている。
すまんな…、ギンコ…。
嘘になってしまったんだよ。
お前が信頼してくれたあの日の俺は、
今となっては、すべて嘘。
お前が出会ったまっさらな俺は、
もう、どこにもいないんだ。
偽りで塗り込めて、
お前に嘘を吐くしか出来ないんだよ。
「…あだしの……」
ぽつりと零れたギンコの言葉には、一言の続きもなかった。化野も聞き返そうとしなかった。やっと歩き出してくれたギンコを支えて、化野は黙ったまま、一生懸命に坂を昇っていく。
やっと庭にまで辿り付いて、月明かりに照らされた井戸の傍ら、逆さに伏せた木桶にギンコを座らせ、汲み上げた真水で、化野はギンコの膝の傷をすすぐ。丁寧に丁寧にすすいで、よくよく傷を確かめ、染みる化膿止めを塗られて、ギンコは歯を食い縛る。
丁寧すぎて時間がかかって、すべてが終わった時には朝の光が差し始めていて、化野はギンコに言ったのだ。少し離れて前に立って、項垂れて、どこかしょげた顔をしていた。不安そうな顔で、こぶしを作った両手が震えていた。
「これからも、お前の『友』でいて、いいか…?」
「…勿論だ。…願ってもねぇよ」
何ひとつ確かめないままで、ギンコはその問い掛けに頷いた。泣き顔みたいに笑って、化野はさらに言う。
「お前を、嫌だ、とか、お前の生き方が、嫌だ、とか、思ったことは一度もない。こらからもそんなことは思わない。だから、この家にまた来てくれるか…?」
ギンコはまた頷いた。頷くだけでなく、こう言った。
「お前がそう言ってくれるなら、また、来るさ」
「…そうか。うん、嬉しいよ。すまんなぁ…」
逆さの桶から腰を上げて、ギンコはそろりと手を伸ばした。その手が化野の頬に触れると、びくりと震えて、化野は困ったような顔になる。震え上がって、そのまま震え続けている体。何かを堪えるように、握り締められているこぶし。
「また、来る。ここは『友』の家だから」
「うん…。うん、ギンコ」
嬉しそうで痛そうな顔を、化野は急いで伏せた。動いた彼の腕が、酷く静かな仕草でギンコの手を避けさせ、触れないでくれと言うように、彼は少し下がった。ギンコはただ、化野を見つめている。
何故、どうして、分からない。
お前は俺と、俺はお前と。
友でいたいと望むのに、
それはもう叶っているのに、
どうしてお前がそんな顔をしてるのか。
この胸がどうして、こんなに痛むのか。
でも、答えがなくても幸せだからいい。
贅沢なくらい、我が侭なくらい、
嬉しくて堪らないから、もういいよ。
付き合うよ、いけるところまでずっと。
何しろなぁ、化野。
お前は大切な「友」だから。
続
9
まるで刻印のようだと、ギンコは思っていた。
旅に戻った今、目に映っている風景や、擦れ違う他の旅人の姿は、ちゃんと見えてはいるはずで、茶屋では店のものと言葉も交わした。それなのにずっと目に映り、耳に聞こえ続けているのは、化野の姿と声なのだ。刻み込まれたように、あれから一瞬も消えない。
…すまんなぁ。
…お前を大事にさせてくれよ。
お前が言った言葉。意味なんか分からなかったが。
…嘘をついたからだ。だからだよ。
嘘って、何を?
考えながらごくりと息を飲んで、ギンコは茶屋に座っている自分の膝へと視線を落としていた。化野の唇が触れた場所が、今でも鼓動するように熱い。腫れても膿んでもいないのに熱くて、あの舌の感触に眩暈がする。あんな海辺じゃなくて、もしもあれが化野の家の部屋の中だったら。
俺はきっと、乞うようにお前に膝を開いて、
もっと、してくれと、そう、言っ…。
あぁ、心臓が壊れそうだ。なんであんなことしたんだ、化野。 日頃の礼代わりに身を差し出すではなく、真実、欲しがられて肌を重ねたいのだと、こんなにはっきり意識したことはなかったのに。
お前はまるで、そんな俺の気持ちを分かってたみたいに…。して欲しいことを、叶えようとしたみたいに、唇で、舌で…。
だって、あれは愛撫みたいだったろ? そんなふうに思う愚かを分かっていても、消せなくて。お前にそんなつもりがなくても、俺には堪らないんだよ。お前の指が肌に触れただけで、痺れるように感じて、秘めていた想いが、どうしようもなく騒ぐんだ。
お前にとって俺は「友」で
嬉しいよ。なのに、それ以上何を欲しがる?
また来てくれと言って貰えて
出会えてよかった。幸せなんだ、心から。でも。
嬉しいよ、とお前は笑い掛けてくれさえした。
なのに。なのに、もっと欲しいと思ってしまう。
今のままで十分なんだ。俺の望んでいることは、真っ直ぐなお前には合わないんだ。抱かれたいとか、欲しがられたいとか、「友」以上になりたいとか、なんて贅沢な願い。歪んだ欲望。
肩を貸されて歩いたのだって、井戸端で手当てされたのだって、一瞬ごとに眩暈がしたよ。お前の指先がかすめるのが辛い。それ以上先が許されないなら、そんなのは責め苦でしかない。お前には分からないよな、こんな自分勝手な想いなんて。
あの時、つい俺がしたようにさ。あんなふうに、もしもお前に手を伸べられて、頬に触れられたら、髪を撫でられたら、俺は震え上がるだろう。そして必死で心を隠して、平気な振りをしようとしながら、お前の腕をやんわりと退けさせるだろう。
そうだ、丁度、あの時お前は、それとそっくり同じ、こと…
「……あだし、の…?」
脳裏に浮かんでいるあの時の化野の姿が、すぐ目の前に今もいるように見えてくる。震えて、困ったような顔をして、それから俺の手を静かに退けさせて、手を伸べても届かないように、お前は少し下がった。
その時、茶屋の主人がきて、ギンコの頼んだ茶を長椅子に置いた。何か声を掛けたが、ギンコは返事をしなかった。返事もしないが、薄っぺらな財布から、代金を取り出して椅子に放り、茶は一口も飲まずに立ち上がる。
駆けるような勢いで、道を戻ったのは無意識だったから、何をするつもりなのか、行ってどうするつもりなのか、ギンコ自身にだって、分かってはいなかった。
潮の匂いの風が、音もなく吹いてる。
幸いというのか不幸というのか、怪我人も病人も今日はなくて、俺は一人文机に向かって日誌を読んでいた。別に、調べものでもなんでもなく、今読む必要があるわけでもない。時間の流れが、嫌に遅くて。
昨日の昼間、怪我は大したことがなかったからと、ギンコは旅に戻って行った。発つ時に縁側まで見送りに出て、化膿止めと真新しい包帯を差し出し、それを受け取ってもらったところで、とうとう顔を上げていられなくなったのだ。
無理を、するなよ …
なんとかそう言ったが、俺の声は随分震えていたよな。そうだよ、夕べも一睡も出来なかった。眠れずにいるのを気付かれたくなくて、懸命に平らかな息遣いを続けるので、俺はもう精一杯だったんだ。夕べだって、今だって、俺を唆す声がどこからか聞こえてくるんだ。
ギンコは嫌がってなかったじゃないか。膝を口で吸われ、舌で舐められ、あんなことを何度もされながら、あの肌が、震えていたのを気付いた癖に。あれは感じてたんだ。そうに違いない。つかまえて、とらえてしまえ。普段から同性とそういうことをする男だぞ。俺が手を出して何故悪い?
…やめろ、…やめろ、やめ…ろ…
悪いに決まってるんだ。だってギンコは俺をそんな男だと思ってない。大事な「友」に欲情して、あいつの情に付け込んで、ほんとは身売りなんてしたくないあいつに、いつものことなら俺にもさせろ、だなんて、そんなことを言う男に成り下がりたくない。
生活の為だって、ギンコが平気で体を売るような奴だったら、そもそもこんなに惹かれてないんだよ。あいつは見目だけじゃなく、心まで本当は綺麗なのだ。それなのに、俺がその手でギンコを汚すのか。それで平気か。平気なはずが…、ないよなぁ…。
この熱は、いつ引くのだろう。この欲は、いつ消えるのだろう。なんの隠し事もなかった頃に戻る方法があるなら、俺は何を差し出してでも、それを知りたいよ。そうとも、できるなら、次にお前がくる時までにな。
がさ、と、その時、垣根の草が音を鳴らした。ふと顔上げて、見たんだ。つい昨日、旅に戻ったはずのお前の姿。何かを窺うような顔をした、お前の姿を。
「…な…っ…。あ…、ど、どうした? ギンコ、忘れ物か?」
「うん、まぁ、忘れ物みてぇな、もんかな…」
「はは、何言ってる。で、何を?」
机に付いた、その手は震えていた。声も見っともなく上擦って、聞かせられるようなものじゃなかった。逃げるためだけに立ち上がり、ギンコに背中を向ける寸前、縁側で靴を脱ぎ飛ばし、ずかずかと上がってくる姿が見えてた。
「どうしたんだ、そんなに大事な忘れものなのか? い、今、俺が探してやるから、そこで待っ…」
何を忘れたとも聞かないうちから、そんなことを言って隣室へ逃げ込もうとする己の愚か。だって、もう心臓が止まってしまいそうだった。でもギンコはそんな俺を逃がさなかった。上がり込んだ勢いもそのままに、俺が開けかけた襖を押さえてたんだ。お前の息遣いが聞こえそうなくらい、互いの体が近い。
「化野、俺、お前に嫌われてなんか、ねぇよな…?」
「そ…う、言ったじゃないか…」
「だったら、どうして」
そう言って、言いながらギンコは俺の手首を掴んだのだ。そして何かを言おうとしていた。でも黙ってそのまま聞いてなどいられなかった。
「確かめたいんだ、お前がもし」
「は、離れて、くれ…。頼むから…っ」
俺は両腕で、ギンコの肩を掴んだ。そうして無理にでも自分から引き離した。指ががくがくと震えて、なのに今度はギンコの体からその指が外せない。ギンコはそんな俺をじっと見て、そうしてゆっくりと頭だけを傾けて、俺の肩に額を押し付けた。
震え上がる俺の体。跳ね上がる動悸。力が抜けかけて背中で襖に寄りかかって、天井を向いて…為すすべもなく俺は目を閉じる。どうか、気付かれないようにと。長い長い一瞬の後、そのままの姿でギンコが言った。震えてかすれた声。そしてどこか甘い声だった。
嬉しそうなのは、気のせいじゃないのかもしれない。
「お前が言った…『大事に』の意味が、今、分かったよ…」
そしてギンコが囁く言葉は、だんだん、だんだんと小さくなりながら、あと少し続いていたんだ。
お前がそうしたいなら、それでいい。
今はそうでも、もしかしてこの先、
どこかでうっかり「線」を超えるなら、それでも…。
俺は、お前が相手なら、どっちでもいいよ。
「友」でも、もっと別のものでも。
お前と行けるのなら、どっちでも。
浜から上がってくる潮の匂いがした。風の音が聞こえて、それが二人の髪を揺らした。化野の体からは、もっとずっと力が抜けていって、そのまま彼はそこに座り込んだ。困ったように、ギンコに見下ろされながら。
そしてそのあと。
「『どこかで』って。『うっかり』って。…なんだ?」
泣き笑うように化野は言ったのだ。
「さぁなぁ、自分の胸に聞けばいいさ」
縁側から下りて、脱ぎ捨てた靴を広い、それを履きながら背を向けたギンコが言った。
「『線』の意味も、俺に聞くなよ?」
あぁ、それを口に出されて困るのは、きっと俺の方だ、と、化野は思う。ギンコは随分嬉しそうで、楽しそうで、それが素直に嬉しい。会うのが苦しくたって、堪えるのが辛くたって、こうして出会えたのは幸せで、その気持ちはずっと消えない。
なんなら楽しみに、せいぜい苦労して堪えていよう。堪え切れず、その『線』とやらを、踏み越える日まで。二人一緒に困り果てていようか。それもまた、この出会いから生まれた、幸せのひとつに違いはないのだから。
終
とーとー完結しましたっ。シリーズ化しそうな勢いで楽しんで書かせて頂きましたよ〜。すぐではありませんが、きっとこの化野とギンコの今後の話を、またそのうち書くことでしょう。あ? じゃあその時のタイトルは「『線』超えた宵」とか? や、スイマセン、タイトルのことはもちろん冗談ですから!?
読んで下さいました方々、そして、素晴らしくも難しいリクエストを下さいましたあなた様、ありがとうございますー。激しく三つ指をついて頭を下げ、突き指をして、床に頭突きもする勢いでございますよ。
12/08/19(12/12/02サイトへ転載)