物言わぬ宵 1〜3
1
「なんとも、暑いね」
半ばだれて、奥の間で煙草を燻らしていたギンコが、俺の傍にやってくる。まだ六月だと言うのに、この陽気はどうだろう。暑いのは苦手だが、ギンコも得手ではないらしい。汗で胸に張り付くシャツを、指先で抓んでパタパタと揺らしていた。
お前は暑さに辟易しているのだろうが、
生憎、俺はそれだけじゃなくてな。
作業の手を止めて、障子をもう少し大きく開けてやり、風がくるようにしてやれば、お前は俺の方を見て、気が利くね、と呑気に言った。そんなお前を横目で見ながら、俺は卓の上に出した薬包を改める。季節変わりのこの時期には、こうして手持ちの薬を確認するのが仕事だからだ。
傷んでいないか、減ってはいないか。必要なものは揃っているか。滅多に使わないものもよく確かめておかねば。何しろ、分けてくれなどと、突然言われることも稀には…ある。なぁ、覚えているのか、お前…。
「もし、すまんが」
閉じた雨戸を叩くものがいた。もう夜半に近く、用が無ければ眠っている刻限だった。急患か、誰か怪我でも。すぐにそう思うのは医家の性だ。夜遅くに医家を訪ねるものの声にしては、随分平坦だったし、知らぬ声だったが。
「今、開ける」
そう言って化野は障子を開け、その向こうの雨戸を引き開ける。洋装の男がそこに立っていた。頭に布を被って、その両端を首と両肩に軽く回して、風雨を防いでいるようななりだった。
「…余所の人かい? 医家の俺に何か」
「あぁ、そういや医家だっけか。いや、俺は蒐集家のあんたを訪ねてきたんだよ」
軽く首を前に傾けて、こちらの視線を避けるようにしながら、男はそう言ったのだ。月の無い夜で、外は漆黒の闇に包まれている。開いた雨戸の分だけ、室内の灯りが男の方へ差して、そこだけ細く照らされていた。
「あんた、珍しいもんが好きだって本当かい?」
物売りか、この男。そうは見えないし、こんな深夜にいったい何故。魔物の類ではあるまいな、などと、普段は思ってもみないことを考えた。冬でも無いのに深めに布をかぶったりして、そういうところもなんだか奇妙だ。それで返事もせずにいたら、男は少しばかり焦れたように、ざり、と足下の土を鳴らした。
「…珍しいもん、って、こういうのも…好きか?」
男の手が頭を覆っていた布を緩める。白いものが、見えた気がした。なんだ? 錯覚? いいや違う。これは…。
ぱさりと首の後ろへ落ちた布の下に、隠れていた髪の色。この宵闇でもはっきりと、白、と分かる色なのだ。部屋から零れる灯りが細く、その髪と顔を照らしていて、化野の視線はその男の髪を見つめ、そして見えている片目へと吸い寄せられた。
「も、もっと…見…」
「…好きそうだな。おい…、眩しいだろ?」
無意識に傍らの手燭を取って、男の目の前に差し付けていたのだ。揺らめく火を嫌うような仕草をして、男は顔を少し顰めた。
「なぁ、気に入ったなら、入らしてもらっていいか?」
男はギンコ、と、名を名乗った。
「あー、暑い。海里で高台なのに、なんで風の一つもねぇんだ。ちったぁ涼しいかと思ったんだけどな」
「……なんだ、避暑に来たんだったのか、お前」
「別に、それだけじゃねえよ」
海を見下ろせる場所に卓を出して、俺はそこで薬類を改めていたのだ。なのにすぐ傍らに寝転んだギンコが、そんな俺の気を散らせる。だから夏は苦手だと言うのに。そんなところで横になるな。仰のいて転がって目なぞ閉じるな。
りり… り…ん…
軒に吊るした風鈴が、申し訳程度に音を鳴らした。風を感じようと思ってか、ギンコの片手がゆらりと上がって、ただ不思議な弧を描いて畳に落ちた。
「…確かに、暑いな」
流した横目で、俺はギンコの胸の辺りを見る。ゆっくりと上下しているのを見ただけで、半ば眠りに落ちているのが分かった。勘弁してくれ、と、そう思ったが、日差しを恨むように、呟くだけしかできなかった。
「あつい…」
続
2
正直、いつからだったのかなぞ考えても分からない。気付いた時には既に、堪え切れずにお前を見ていた。傍にいる時は勿論、お前が居ない長い長い月日の間もずっと、俺はその在り様を思い出しては、お前の存在を求めている。
早く来い、早く。数日前に発ったばかりだろうと会いたい。日が経てばもっと会いたくなる。ひと月ふた月と過ぎて、そろそろかと思えば息が苦しいほどだ。俺はいったい何がしたい? お前の姿が見たいのか、傍に居て欲しいのか、声を欲しているのか、おのれを見ていて欲しいのか。
来たら来たで、今度は別のことを延々悩む。執拗な視線で追ったりせぬよう。目が合った時に慌てて逸らしたりして、どうしたのかと問われたりせぬように。
「零れてる」
「…っ、あっ、あぁ、こりゃいかん…っ」
気付けば身を起こしたギンコが、傍らから卓の上を覗きこんで、風に散ってしまった粉薬を指差していた。つ、と伸べた右手の中指で、粉の薬に軽く触れると、ギンコはそれを自分の口元へ運び、舌でするりと舐めている。
「感冒か? 風邪の薬を風に飛ばしちまうなんざ、しゃれでもあんまし面白かねぇなぁ。ぼんやりして、どうした? 化野」
どうしたもこうしたも、お前のせいだと言うのに、ギンコは舌の先なぞ見せながら、不思議そうに俺を見る。恨みがましい思いで横を向いた俺の顔を、追い掛けるようにしてギンコがまた間近から覗き込んだ。
「疲れてんのか? 俺のことなんか構わねぇで、昨夜もさっさと寝ちまやよかったのに」
俺の話なんか、大した面白い土産話でもなかったろ、とギンコは言う。お前はてんで分かっちゃいない。蝋燭の灯りの傍で、その翡翠の目がどんな色に見えるだとか、月明かりに照らされた白い髪の色だとか、お前の来ている夜でなきゃ見られんのだ。
旅の話の途中でだんだん眠そうになって、しまいには無防備に寝入ってしまうお前の姿を眺めるのが、俺にとってどれだけ特別なのかも。
「しょうがねぇな、手伝ってやるよ」
俺が考えていることなど勿論欠片も分からずに、ギンコはそう言って、斜め前に腰を下ろした。取り出して置いてある薬棚の抽斗。その一つを手元に引き寄せて、中に入っている薬包のひとつずつを、丁寧な手付きですべて取り出し、破れがないか、解け掛けてはいないか、湿気てはいないかなど、改めながら抽斗へ戻す。
「すまんな、助かる」
ふと視線を上げた目と合って、俺は慌ててそう言った。言って自分も作業に集中しようと、新たな抽斗を持ってくるために腰を上げたときだった。
「せんせぇ…っ。すまねぇ、うちの末のガキがっ」
「どうしたっ?」
「やんちゃをやって、木から落ちちまったんだ。足の骨が折れたかもしんねぇっ」
「おぉ、すぐ行く! 怪我は足だけか、頭を打ったりはっ?」
急いで立ち上がって医療道具をすぐに引き寄せ、縁側で草履を突っかける。駆け出しながら振り向くと、ギンコは気ぃつけてな、と、それだけ言って、まるで自分の仕事のように、そのまま作業を続けてくれるようだった。
宵闇の中、揺らぐ手燭の火の向こうで、ギンコは薄っすら笑っていたのだ。
「ギンコ? 珍しい名だな。どういう字を書く?」
家に上がらせながら化野がそう聞くと、一拍置いて返事が返る。
「字なんざ知らねぇ。ギンコはギンコだ」
そうか、と言いながら化野は手にしていた灯りを行灯へ移した。手燭も消さずに卓へと置いて、ギンコを灯りの傍へ座らせる。視線は随分、焦がれるようだ。珍しい色合いの髪と目から、逸らせないで難儀しているようにも見えた。
「…で? こんな夜更けになんの用だ? たまたま夜更けなのか、夜更けでなくばならんのかは知らないが、あまり人を訪ねる刻限とは思えんのだがな」
「ここにならあるかもしれんと、谷を二つ越えた向こうの薬商から聞いたんだが、漢の国の千輪草を煎じたという…」
「あぁ、千輪漢湯の煎薬か? 残っているのは少しだが、確かにここにある。それが?」
言いながら、もう化野はギンコに背を向けていた。室内にある薬棚の抽斗を、いくつか開けたり閉めたりし、そこに無いと見ると手燭を取って、縁側の方へ歩いていく。
「ちょっと待っててくれるか。あれは高価だが、あまり用途のあるものじゃないんで、蔵の薬棚へ片付けてあるようだ」
「…俺もついてって構わんかね」
「別にいいよ。蔵は暗くて、なんもかんもよく見えんだろうが」
「暗いのなら」
その方が…、と、ギンコは何かを呟きかけた。千輪漢湯が高いのも、あまり用途の無いのも知ってる。だからこそあちこちを探しても見つからなかったのだし、逆にそれゆえ、ギンコはそれをどうしても、ここで手に入れておきたかった。
医家で蒐集家のこの男にも、容易く見てとれただろうが、ギンコは金など殆ど持っていない。買い取る金もなさそうな相手に、いそいそと薬を出して見せるからには、金とは異なるもので支払わせる心づもりがあるということだろう。正直、ギンコも、最初からそのつもりで来ていたのだ。
灯りを片手に、暫しごそごそと蔵の中を探っていた化野が、ようやっと顔を上げた時、彼の顔には蜘蛛の巣がかかり、髪には埃がかかっている。
「おぉ、あったあった、これだろう?」
「……そう、それ…」
手のひらより少し大きいくらいの四角い紙の袋には、確かに「千輪漢湯之煎薬」と書いてある。化野はご丁寧に、袋をあけて中を覗かせてもくれ、まさにそれが求めていたものだと、ギンコにもはっきりと分かった。
「で? これをどれほど欲しい? と言っても、あまり残ってないけどな。患者に飲ませる一回分もないんじゃないかなぁ。これっぽっちで足りそうか?」
「少しでいいんだ。で、代金のことだが…」
言いながら、ギンコは服のボタンを一つ外した。目の前に立って、薬の袋を持ったままでいる化野の目を、じっと見ながらもう一つ外す。言わなくても分かるだろう? 金が無い代わりに、コレで払うと言っているんだ。
灯りも外へ漏れにくく、声を上げたとて外にもさほど響かぬ蔵へ、こうして来ているのだから丁度いい。埃っぽいのが気になるようなら、立ったままで後ろからとか、やりようは幾らも。だが…
「ん? なに、代金をどうするって?」
化野はギンコが黙り込んでいるのを、奇妙に思っていたらしい。薄暗い蔵の中で、不思議そうな顔をして首を傾げ、それからギンコが自分の襟に掛けていた手を、強引に掴んで引き寄せた。
「足りるのなら、持っていけばいいよ」
かさりと音を立てて、化野は薬の袋をギンコの手の中に押し付けたのだ。
「さ、これを欲しい誰かが待ってるんじゃないのか? 急いでるんならすぐ行った方がいい。でも、もしも…」
そう言いながら、化野は改めてギンコの顔をまじまじと見た。顔を、というより、髪と、目を。
丁度、蔵の小さな窓の遠くを、月がゆっくりと横切っていくところだった。差し込んだ光が、ギンコの髪に微かに反射して、それを見た化野は、目でも眩んだような顔をして、躊躇いながら言ったのだ。
「も、もしも、時間に余裕があるんなら、茶の一杯も飲んでいかないか? 嫌なら無理にとは言わんが、もう少し…その、よく見せてくれたら、と」
「あぁ…」
実はその時、ギンコは少しばかり呆れていたのだ。少しとは言え、高い薬を無償でくれて寄越しながら、それとはまったく関係なく、ギンコの姿を、ただ見るだけ見たいのだとこの男は言う。欲がないのか、気がまわっていないのか、それとも、滅多に無いほどお人好しなのか。
「いいよ…。こんな見目でいいんなら、好きなだけ見なよ」
ギンコは改めて化野に招かれて、一夜ばかりのその家の客人になった。月明かりの下で、顔を寄せてまじまじと眺められ、珍しい珍しいと散々言われたが、ちっとも不快には思わなかった。
それどころか、今まで一回だってしようと思わなかった事を、この男を相手にやってやろうかと思い始めている。
「…なんなら、こっちも覗くかい? ちょっと肝を潰すかもしれんがね
続
12/06/10
3
こっちも覗くかい?
そう言うと、化野は少し怪訝な顔をした。そりゃそうか、右目がこうなら左も同じと、当たり前に思っているんだろう。そんな顔を眺めながら、ある意味期待するような気持ちで左目を覆った髪を退けたのだ。
どんなに驚くだろうかと思った。
びっくりして目を丸くして、珍しいと言うだろうか。
こんなのを見るのは、生まれて初めてだと、
嬉しそうに、顔を傍へ近寄せてくるだろうか。
大袈裟に掻き上げて見せたわけじゃない。髪を指先に引っ掛けるように、ちょいとよけてすぐ手を離したから、見えたとしても、ほんのちらっとだけだろう。
あの時の気持ちは、あとから思い出してみたら酷く不思議だった。この何も無い「穴」を見せるなんて、余程馴染みの相手にだって、そんなにはしたことがなかった。うっかり人に見られて、気味悪がられたり、下手すりゃ悲鳴を上げられたり、そんなことだったら数え切れないほどあったというのに。
そんな奴らとは違うのだと、もう確信していたみたいに、あっさりと見せた。あぁ、そうだなぁ、確かにお前は見たことも無い反応をしたよ。少し悲しそうな目になって、それから怒った顔をして、あん時、お前は言ったっけな。
覚えているかい? 随分前だ。
「…いつ、失くしたんだ…? いや、いつだろうと、自分の体の一部を失くした跡を、物珍しいもんを見せるみたいに言うものじゃない」
俺は言葉を無くしたよ。そう来るとはこれっぽっちも思ってなかった。だからどう返事をしていいかもわからずに、多分曖昧に笑っていただろう。
「いや、そんな怖い顔しなくてもいいだろ。別に…こんなの…」
「………」
化野は重たい溜息を一つついて、俺の肩を軽く叩いた。なんだか、よく知った相手にするような仕草で、無理やり探し出してきたみたいに、自分のよくなかったところを詫びた。
「俺もはしゃぎ過ぎたな。あんたがあんまり、綺麗な目や髪や肌をしているもんで、ついつい礼儀を欠いたかもしれん。…嫌でなかったら、もういっぺん上がって茶でもどうだ? 一晩なりと、泊まって行って貰っても構わんよ」
「…あぁ、それじゃあ一晩だけ、厄介になる。早朝に発つよ。で、あんた名前はなんてんだ?」
お前はきょとんとした顔して振り向いて、照れたように頭を掻く。名乗ってもなかったか、こりゃ失敬をした、などと言い、
「化野だ。医家で、珍奇なものばかり集める蒐集家の、な。それだけじゃなく、綺麗なものを見るのも好きだから、よかったらまた寄ってくれ、いつでも歓迎する」
りり…ん…。
風鈴が鳴った。たった一つきり、抽斗の隅に押し込んであった丸薬を包んだ薬包紙。何も書かれて無いうえ、他と区別するしるしもなくて、説明書きが添えてあるでもないし、不思議に思って開いて見たのだ。
それでその薬が何か分かって、途端にギンコは過去の中に引き寄せられた。随分前のくせ細かいとこまで変にあざやかに思い出せて、あんまり懐かしく、そしてほんの少しばつが悪い。ギンコは思わず自分の襟に手をやって、蒸し暑さのせいで、残らず外してあるシャツのボタンを弄った。
何気なく一つ留めて、苦笑いしてまた外す。今、留めたって何の意味があるんだか。
初対面であんな誘い方をしたってのに、その後の付き合いでは、いっぺんもそんな感じになったことはない。化野という男が、同性それ自体をそう言う目で見ないのだろうし、そも俺からそんな誘いをかける理由もなかった。
いや、理由があったって、実際はっきり誘ったって、困らせるだけだったろうとは思うけどな。
一晩二晩泊り込んで、その間の飯やら布団やら、さらには風呂やら、ちょっとした怪我の手当てまでも、代金を欲しがられたことはないし、払うと仄めかせば決まって首を横に振る。
お前から聞く旅の話や、珍しい物事の話だけで、充分過ぎるくらいだ、と、化野はからりと笑って言うのだ。釣りを出したくなるくらい、いつだって満足だよ、と。
なんの、貰い過ぎは俺の方だ。床やら飯やら、治療やらのことじゃない。お前と出会って、俺が手に入れたものはあまりに大きくて、大きすぎて、常にこの身を覆うほどだ。
なぁ…? 旅の話だの、大した高くもねぇ珍品より他に、俺から欲しいもんはねぇのか、化野。かと言って、俺でなきゃ駄目なような蟲患いなんかが、この里に来ちまっても、それはそれでちっともよかねぇしな…。
千輪漢湯の丸薬を、元のとおり丁寧に紙に包むと、それを最後に薬棚の整理は終わってしまう。そうして抽斗を薬棚に納めてしまうと、少し前までと同じように、ごろりと畳に横になった。
り、りーーん…
風鈴がまた微かに鳴る。波音は今日は遠い。耳を澄ませているうちにまた眠りに落ちて、何か気になる夢を見た。起きた時には、きっと欠片も思い出せない、そんな夢だと、見ながら思った。
やっと帰路についたのは夕刻。夕の色があたりを染めて、垣根の向こう、庭の向こう、縁側の向こうでギンコが体を伸べていた。銀の髪には淡く夕日の色が挿して、ほんとうに綺麗で目が眩む。
こうして人の目ぇ吸い寄せといて、呑気なもんだ、と、穏やかな寝姿をほんの少し忌々しく思い、それをすぐに打ち消して内心で詫びを言う。
少々広げすぎて、机の上は薬の類でいっぱいだったものを、それらは全部綺麗に片付いて、抽斗もきちんと薬棚に収まっている。時間が掛かったろうにな、ありがとう。
夕になって、少し風が出てきていた。風鈴は少し強く、何度も鳴って、遠くまで響くほどの音を鳴らしている。ギンコが起きる気配は無かった。自分の家だというのに、俺は垣根の外より近寄れずに足を止めて、立ったままぼんやりと見ている。
寒そうだな。何か、掛けてやらんと。
あぁ、またあんなふうにボタンを外して、
だらしが無いと言っても聞きやしない。
つい目が行くと逸らせなくなって、
だからよせ、などと、
そりゃあ、本音は言えやせんがな。
痛いくらい唇を噛んで、噛んで、血の味がしそうになってから、やっと力を抜いて垣根を越えた。もう少し季節が先へ行ってたら、着ている羽織を脱いで掛けてやるところだ。温もりを移すようにそんなことをして、きっとそれへも動揺する。まったく愚かで、不器用だな。
きし、と畳が一つ軋んで、ギンコの眠りが浅くなる。起きるなら起きてくれ、と、密かな願いをしつつ、奥の部屋から掛け布を取ってきた。そっと掛けると、寝返り打って、寒そうに半ばもぐりこみつつ丸くなる。
猫か、お前。
ほんとうに…ただの、白猫ならな。
抱いてやるのにな、この腕に。
思っても、せんの無いことばかり思っている。お前が寝ていたりするといつもこうだ。仕方がないから夕餉の支度に立つ。台所からいい匂いをさせてやって、お前が起きて俺を見れば、もう少し「ただの友」の顔がうまく出来る筈だから。
続